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ガンと戦い 第3ラウンド終わる [2015年07月31日(Fri)]



この半年間に3つのガンの治療で3回入院、さらに来月心臓の手術
を待つ友人Tがいる。退院後、彼の家を訪れる。意外に元気そうだ。
昨年の12月の前立腺がんの放射線治療から始まり、膀胱がん治療、
そして今回の肝臓がんの治療と立て続けに新たながんと激闘した。
今回の治療は風変わりで、ガンにアルコールを注入する方法なのだ。
肺の近くなので、ポイントが狂わないように息を止める必要がある。
止める時間は20秒間位。彼はその達成のため洗面所で訓練をした。
その成果があってアルコール注入治療が無事終わった。彼の顔は真
っ赤だったそうだが、アルコールによる酔いなのか、息を長く止め
たせいかは分からず仕舞いだった。太めの体が大部スリムになった
が、体力の回復を待ち、次なる心臓の手術に備えている。彼は現役
時代に2度も心筋梗塞を患い、バイバス手術が必要になっている。
この宿敵に立ち向かうには暑い中、いかに体力を蓄えるかが勝負。
奥さんの献身的なサポートを受け、頑張って欲しい。
彼から思わぬ話を聞いた。医者は「ガンだからと言ってすぐ治療を
勧めない。特に高齢者の場合は悪性のガンでない限り、放っておく
のも一つの方法。寿命が尽きるのとガンで逝くのと同じ位に考えて
いる」とのこと。何かガンの恐怖が少し薄らいで、ホッとした。
見舞に行きながら逆に元気づけられて別れ、真夏の太陽の下に出た。
彼の長所は実に慎重ながらも楽観的に考え、周りを和ませてくれる。
「病院は避暑地だよ」と笑う。きっと何度でも帰還する男と信ずる。

明日から私は名古屋に向け出発する。都山流尺八の本部講習がある。
会場の場所は何と彼が転勤で住んでいた隣町だよといって奥さんと
二人で懐かしそうな表情を浮かべていた。尺八を吹ける体に感謝し
て、暑い名古屋に行ってきます。楽しみは行きがてら静岡の兄の所
で1泊する。また講習後、もう1泊して知人の愛知教育大のT先生
のご案内で郡上八幡に行けること。T君に悪いが、健康な体に感謝
である。これも102才の母のお陰かも知れない。留守には弟の嫁
さんが母の面倒を見てくれる。何と幸せ。ありがと〜う。ではまた。

仙台の下町オールウェーズの再発見 [2015年05月20日(Wed)]


震災以来、同居していた次男が職場に近いところへ引っ越した。
場所は小田原で宮町に接している。マンションやアパートが多
いが、昔からの旅館や大衆食堂、韓国料理、中華料理店がある。

引っ越し後にその一つ、小さな「ホームラン食堂」で夕食。
夫婦で忙しく働く側で、小さな女の子が二人遊んでいる。客と
馴染で、そのうちテーブルに寄りかかって居眠りを始めた。
何か映画「オールウェーズ三丁目の夕日」の一場面みたいだ。

独り者の引っ越しと侮っていたが、意外にも荷物が多く運ぶの
に手間取った。捨てるものも多かったが、新たに買い揃えたり
引っ越しはやはり大変だ。一番手こずったのはガスだ。一通り
説明を受けたものの、いざやるとなると思うようにいかない。
特に風呂の点火が難しい。何とか説明書を読み点火に成功した。

早速、半間四方の小さな風呂に入って見る。大阪の社宅を思い
出した。さて風呂上がりにテレビを見ようとするがさあ大変。
息子も私同様、機械いじりが苦手。二人して説明書を読みなが
ら、初期画面から始まり、ようやく映りだしたなと思ったら、
余計なボタンを押してまたやり直し。まさに賽の河原の石積み。
あきらめかけたらパッとついた。思わず歓声。缶ビールで乾杯。

この夜は一間のフローリングに布団を一枚敷いて泊まってみた。
何か新たな船出のような高揚感を覚える。そうだ。福島大学の
寮、下宿、新婚のアパート、鶴ケ谷の新築へ転居、大阪の社宅、
すべて引っ越しは人生の大きな転機であった。新しい出会いと
新たな世界が待っていた。

人生には思わぬ出会いがあるもの。契約書の貸主の名前を見て、
おやっ見覚えがあると直ぐにひらめいた。高校の同級生と同じ。
確か賀状の住所は宮町だったはず。不動屋さんに訊ねるとどう
やら間違いない。翌朝、彼から電話が掛かってきた。お互いに
「いや〜驚いたよ」。大家とこの下町の居酒屋で一杯やるか。

居酒屋と言えば、大学の友人に誘われて会合の後、文横即ち一
番町の文化横丁に出かけた。十何年かぶりで懐かしかった。
相変わらず肩を寄せ合うように、小さな店が軒を連ねている。
金曜日とあってか止まり木は満員。おばちゃん一人で世話を
している。お客さんからの差し入れといってイカ焼きを出す。
カラオケは常に3曲以上予約されていて、次々と回転良く歌
っている。二人ずれの若い女性客も負けずに歌っている。
共同トイレは2か所あり、あちこちの店から集まってくる。

仙台の中心街の一番町に昭和の時代をそっくり残した特区が
現存しているのは奇跡に近い。全国でも稀ではないだろうか。
息子の引っ越しで、仙台のオールウェーズに気づかされた。
高速で社会が動いている時代に、心を和ませる場所を何とか
大事に残しておきたいものである。



恩師片野先生の突然の訃報 [2015年05月18日(Mon)]


訃報は突然にやってくるもの。夕食で新じゃがに塩をつけて
口に入れた途端、電話が鳴った。嫁から受話器を受け取ると、
恩師の片野達郎先生の奥さんからで、いつもの歯切れのいい声
で「驚かないでね。今朝、主人が亡くなったの」と言う。

86才の先生はもともと体が丈夫でなかったが、最近は衰えが
目立ち、杖で体を支えてゆっくりと歩いていた。近所の床屋は
坂道を上がるので、私が弟の優の理髪店に車で送迎していた。
車まで手を引いていくが、その手の力がだんだんと軽くなって
いくのが気になっていた。ひと月前に先生に誘いの電話をした
ら「いや〜転んじゃってね。ろっ骨を折って歩けないんだ」
これが私の聞いた先生の最後の言葉になってしまった。

先生との出会いは高校2年の時、古文と漢文を教わったのが縁。
先生はまだ東北大学大学院に籍を置き、バイトで教えていた。
先生は一見して、ただものじゃない気配が濃厚に漂っていた。
「平安時代の女の命は長い黒髪である。御簾から香り良い髪が
少しのぞく風情などいいじゃないか」こんな風にニキビ顔の高
校生を刺激して、古文の世界に引き込む。分かりやすいが造詣
の深さに圧倒された。こんな先生には出会ったことがなかった。

私は2年の時に盛岡から転校してきて、まだ学校に馴染めない
でいた。ある日、先生と階段ですれ違った時に「君、家に遊び
に来ないか」と誘われた。お宅は私の家から遠くなかった。
この時から実に半世紀以上の長い付き合いとなった。

先生は気持ちが学生のように若くて、一回り上の兄貴みたいな
存在だった。先生のお宅では夜遅くまで人生論や宗教、特に禅
の話をした。何せ先生は若い時に仏道に入り、禅の修行をして、
得度までした方だった。私の考え方は実に先生の影響をもろに
受けていると言っていい。話は深夜まで及び、終いには先生は
疲れて、炬燵に横になって話をしてくれた。

私が福島大学に入り尺八を始めたころ、仙台に帰省し、銭湯の
帰りに先生の間借りの部屋を訪れ、習いたての尺八を吹いた。
当時、先生は奥さんとニコニコと聴いてくれたが、新婚間もな
い貴重な時間、下手な尺八を聴かされ、さぞ迷惑だったのでは
なかったかと今になって反省。

人生の節目とか迷いがあるとき先生と話をすれば不思議に気持
が解放されて、楽になった。また、先生がこの世に現存してい
るというだけで安心感があった。先生は人生の師であった。

先生の専門は詳しく知らないが、中世の和歌を研究し、日本文
芸学というあまり聞いたことのない分野で、河北新報にも業績
が紹介されたことがあった。退官後は斉藤茂吉記念館の館長を
長く務め、自らも俳句をNHK文化センターで教えていた。
非常に人気があり、沢山の受講者がいたと聞く。

奥さんは生け花の先生で私の演奏会の舞台を飾ったことがある。
奥さんも数年前から腰が悪化して、寝たきりの状態になった。
娘さんは横浜在住。息子さんはイタリアで活動。日常はケアを
受けて生活している。14日の葬儀では大学の先生方と俳句の
関係者が多数参列した。私は短い弔辞を述べ、尺八を吹いた。

曲は「アメージンググレース」。ただし曲名は伏せておいた。
なにせ曹洞宗輪王寺の坊さん方が多数おる中で、キリストの讃
美歌であるとは言えなかった。葬儀を終えた後、何という曲か
との問い合わせが多くあった。先生のお写真はにこやかに笑っ
ておられた。先生のいない淋しさを胸に秘め、先生の教えであ
る「今を精一杯生きる」ことにします。 合掌。




友人の難手術の成功を祈る [2015年05月06日(Wed)]


近くに住む大学同期の友人であるT君が手術するために入院
する。それも聞くと大変難しい大手術なのでエエ〜ッと驚く。

まず検診で肝臓にがんが見つかる。この治療には手術が必要
であるが、心臓が弱い上に心筋梗塞が見つかり健常者の20
%位しか動いていないという。バイバスを作る必要が生じた。
そのために食道に見つかった血管の瘤3個を破裂しないよう
に手当しなければならない。つまり3か所を順序に都合3回
の大手術を成功させることが必須条件なのだ。

入院の2日前にお宅に見舞に伺う。玄関や庭は花で華やか。
出てきた彼は心なしか幾分やつれ、声に元気がない。何度
か聞き返えすほどだ。この状況では無理からぬことだろう。

彼は大変な読書家である。目が疲れやすい私は本が苦手だ。
だから彼との会話ではどの分野でも教わることが多かった。
興味の対象が似ていていつも話が弾んだ。今回もいつの間に
お墓の話で盛り上がった。にこやかに笑みを浮かべ話し聞い
ていた奥さんはどんな気持ちだったのかと後悔しきり。

彼は酒を飲めないので在庫の酒と機関車の本やミニチュアを
頂いてきた。彼の趣味は乗り物。機関車から船そして飛行機
となり、天井からは何十と言う飛行機がぶら下がっている。

蔵書は宗教、歴史、小説、伝統芸能と幅広い。私の尺八の会
には欠かさず聴きに来てくれ、チャリテイーにも多額の寄付
を頂き、演奏についても実に適切な感想を聞かせてくれた。

また、映画をDVDにとり、ジャンル別に仕訳している。
今回は子供の日と言うことでアニメ映画を沢山借りてきた。

別れ際はいつも夫婦で通りに出て、車が曲がるまで見送って
くれる。今回は車の窓から手を出して握手し「頑張って」と
言って別れた。温かい手からは力強さが感じられなかった。

第一ステージが終わるのは1月後位。いったん退院した時に
会う約束をする。どうか無事に手術が終えることを祈る。






花吹雪の中、妻の11回忌 [2015年04月22日(Wed)]


4月17日は妻の命日。今年は11日の結婚記念日と間違えた。
11年も経つとボケも手伝って紛らわしい数字をよく間違える。
桜の季節に結婚したいとの強い思いがあったがその年は遅咲き。
今年は例年より早く咲いた。その焦りもあったのかと弁解めく。

母を墓参に誘うと朝食後、横になっていたが首を縦にうなずく。
三寒四温の中、今日は温かい。新寺小路のお寺の駐車場で驚く。
何と敷地いっぱい桜の花びらが敷き詰められているではないか。
境内からせり出した桜木から惜しげもなく、花弁を撒いている。
風が吹くと一層激しく舞い散る。車の前窓は前が見えない位だ。

老母も「こんなところに桜がねえ」と感慨深かげに見上げる。
偶然、墓参中に娘の琴江が嫁ぎ先の母と夫と連れ立って見えた。
先日は車でお互い携帯で連絡し合っていたのに会えなかったが、
何の連絡もしてないのに、ここで会えるとは妻の引き合わせか。

近くで昼食を取ることにして、車を動かすとフロントの花びら
が左右に飛んでいく。まるで花の雲上を飛行している気になる。
末期がんを宣告されてから2か月以上頑張った妻に感謝である。

筝曲演奏・作曲家の故野村正峰氏の「春愁」の歌詞を思い出す。

光のどけき 春の日の 
花の心ぞ うらみなる
嵐の庭の さくら花
 ふりゆく身とも 知らずして
さきにおうこそ うらみなる

匂いやさしき 春の夜の
乙女ごころぞ うらみなる
ともしびくらき 梅の宿
つまびく琴の 音によせて
別れのうたの うらみなる

ああ春の日は すぎゆきて
思いでのみぞ うらみなる
花も乙女も ひとときの
夢はみじかき 春の草
思い出のみぞ うらみなる
学校で孫娘と合奏 不思議な縁は続く [2015年04月17日(Fri)]


2月の初め、近くの燕沢小学校で三曲鑑賞と体験授業があった。
6年生の孫娘の里月が通う学校である。お筝の先生の計らいで
サプライズの格好で里月も最初の「さくら」と「花は咲く」に
三絃と筝で参加することになった。名前を呼ばれて前に出る時、
級友と笑顔を交わしていたのは意外だった。家では練習は皆無。

大丈夫かと内心ハラハラしていたが、本人はいたって落ち着い
て演奏していたのには驚いた。後で本人は緊張して手が震えた
と話していたが、この度胸は亡妻が子供の頃、東北放送で独唱
していたというから、祖母の遺伝かもなどと爺バカは思った。

その彼女も4月9日、晴れて西山中学校に入学した。式には
7年間、尺八講師をしていたので毎年、招待を受けている。
入学式はいつ来ても希望に満ちた新鮮な感動を覚えるが今年は
ことさらに心に湧くものがあった。

11年前、妻を亡くした前年の暮れにこの中学校を訪れて尺八
の普及をお願いしたところ、当時の佐々木信長校長が翌年退職
するにもかかわらず、ご尽力くだされ、非常勤講師となった。

活発な生徒らの若いエネルギーと格闘するうちに、私の傷心は
どこかに吹っ飛んだ格好になった。私の心はだいぶ救われた。
おまけにこの第1期生からいまだに尺八を吹いている若手がい
ることは何にもまして嬉しい限りである。

まさか当時2才の里月がこの学校に入学するのを見届けるとは
思いもしなかった。帰りに燕沢小学校の佐藤校長と担任だった
馬場先生に会った。「おめでとうございます」と挨拶された。
また、演奏をお願いされた。これまたうれしい限りである。

西山中学校の校歌が歌詞も曲調もとても気に入っている。
「風青く蔵王は晴れて 雲ひかる生命の朝〜」
聴いていると当時の気持ちが湧き上がるように蘇って来る。

この作曲者は曽我道雄氏で、かって南材木町小学校を全国合唱
コンクールで3年優勝に導いた伝説の人。何とこの先生に現在
私は毎月1回、歌を教わっている。「鶴ケ谷元気会」で教え子
が中心になって、この先生のご指導を受けている。大人気で
いつも教室いっぱいの女性優位の教室である。私は町内の回覧で
この先生の名前を見て即座に応募した。
80才を超すとは思えないにこやかな笑顔でユーモアたっぷりに
指導される。行事が重なり欠席しがちだが楽しみな歌声会である。
これも不思議な縁としか思えない。大切にしたいものである。



 

うっかりミスで人類破滅? [2015年03月27日(Fri)]



春めいたある日のこと、突如、車が動かなくなった。中古とはいえ
プリウスが7〜8年でダメになるとは考えられない。しかし何度も
エンジンをかけなおしてもやっぱりダメ。チカチカと数字が勝手に
動いている。契約の保険会社を通して、レッカー車が来てくれる。
その人が私から鍵を受け取り、エンジン始動すると、どうだろう
何事もなかったように快適にエンジンが動き出したではないか。
狐に騙されたようだ。冷静に考えて原因が分かった。鍵を十分に
差し込まず、焦って何回も掛けなおしたことが原因だったようだ。
頭をかきながら謝ると年配のおじさんは笑みを浮かべ点検という
ことにしますからと帰って行った。

同日パソコンもおかしくなった。最初の画面が外国語で出てくる。
そして動きがやけに遅くなった。ブログも見られない。どうも
音楽を聴きたくて、新しいプログラム導入のキーを押したせいの
ようだ。早速、詳しい先生に診てもらい事なきを得た。
つい余計なボタンを押した結果が招いたこと。

またまた同日のこと、台所の扉を開けると何と温泉のごとく湯気
が一杯に充満しているではないか。目を凝らして見ると蛇口から
熱湯が出ている。急いで止めて換気扇を最強に回して湯気を排除。
これも食器を洗っていて、客が来たので直ぐ帰るつもりで止めず
に場を離れたせいだ。まるで仏滅・大凶がいっぺんに押し寄せた
思いである。京都の北野天満宮でのおみくじは大吉だったのに。

この数日前3月15日の河北の朝刊に恐ろしい衝撃的な記事が
3段見出しで掲載されていた。米軍が誤って核発射命令を出して
いたという。キューバ危機のときである。ソ連を標的にする沖縄
のミサイル部隊に核攻撃命令が出されたのである。しかし現場の
指揮官の判断で発射作業を停止。後に命令は誤りと判明した。
同部隊にいた元技師73才の証言と別の米兵もこれを認めた。
ソ連潜水艦も同時期、核魚雷を発射寸前になる事態があった。

正直、これほど恐ろしいと思ったことは無い。うっかりミスで
世界が核戦争に巻き込まれてしまう。こんな喜劇にもならない
馬鹿げた話があるだろうか。私の例を挙げるまでもなく人間は
必ずと言っていいくらいミスをする。それが人間である。
その前提からして、いかに軍律を厳しくしたところでミスは
出る。人類が持つべきでなかった核。しかしパンドラのふたは
開いてしまった。どうするのか。営々と築いてきた人類の歴史
がうっかりミスで吹っ飛んでしまう。こんな危うい不安定な板
の上に乗っかっていることを現実として震える思いで自覚させ
られた。






素晴らしき原田夏子先生 94歳のパワー [2015年03月18日(Wed)]



仙台の歌人原田夏子先生と知り合ったのは県芸協の海外旅行である。
隣に座った時にお話ししたところ、私の高校のK先生と同僚と判明。
以来、旅行を重ねるごとに親しくなり、三曲演奏会にも来てくれる。
何より驚くことは、とても高齢とは思えない好奇心の旺盛なこと。
また身軽で歩くのが早く、リンとした張りのあるよく通る声である。

3月のある日、夏子先生から招待状が届いた。なんでも先生が作詞
した合唱曲のお披露目らしい。3月16日、会場のパトナホールへ
出かけた。主催は先生の出身校である日本女子大学OGの宮城県支
部。さすが受付から会場のお客さんまで上品で才媛のお年寄りが多
く目につく。お目当ての合唱の前に、ビブリオバトルという耳慣れ
ない催しがあった。これは何人かが自分が感動した本を5分間、説
明し、会場の人達がどの本を読みたいと思ったか、一番多く手が上
がった人が勝ちとなる。一種の書評ゲームである。宮城教育大学の
生徒が仕切った。この日は「震災時に支えってくれた一冊」という
タイトルであった。場が和んだところで、いよいよ合唱が始まった。

先生が20年も教鞭をとった宮城一女のOG合唱団が原田博之さん
の指揮で歌った。途中、作詞者の想いということで夏子先生が壇上
に上がり、例の通る声でメモに時折目をやりながら自分の言いたい
ことを漏らさずにお話しされた。まさに現役の先生に戻ったようだ。

曲のタイトルは「明日を信じて〜亡き友に」。作詞に9か月費やし
ただけあって津波震災の恐ろしさから始まり、茫然自失の状態から
立ち上がらねばならない明日を信じてと和歌の連続のような簡潔な
文章の綴りで実にキレが良く、まとまりよくできている。

特に気に入った個所がある。「忘れられない日。忘れてはならない
日。けれど辛く苦しいことばかり思い続けて過ごすのはやめよう。
それは亡くなった人たちを悲しませるだけ。生き残った者の務め
は命を繋いで一歩ずつでも前進すること。」私の思いと一致した。
思いが通じ合ったことに感動を覚えた。

最後に江間章子作詞、団伊玖磨作曲の「花の町」を会場の皆と合唱。
夏子先生にご挨拶して戸外に出た。外は春を思わせる温かい空気だ。
気づいて見ると、車に乗るまでずっと花の町を口ずさんでいた。



国連防災世界会議 シンポでの雑感 [2015年03月18日(Wed)]


先日3月14日から始まった防災世界会議。名前のごとく世界中の
要人がこの仙台に集まった。天皇陛下も被災地をご視察になられた。

15日(日)に市民会館大ホールでの報道シンポジウムを覗いた。
一力雅彦河北社長の開会の挨拶が始まっていた。事例発表として、
毎日放送、高知新聞、名古屋TV、FM仙台、そして河北の5名が
震災時の報道体験を話す。次に河北の武田真一論説副委員長の司会、
田中淳東大教授のコメンテーターで討議に移る。傍観者的な立場で
聞いていたが、話に説得力と迫力を感じ、つい身を乗り出して聞き
いってしまう。各人に共通しているのはある種の罪悪感である。
「一体、自分たちの仕事は人の命を救うことに役立っていたのか。」

大震災前に津波災害について報道していたにもかかわらず2万人近
い犠牲者が出た。どう伝えればいいのか?いろんな案が出されたが
どれも決定的な決め手は無い。アンケートでも75%が役に立って
いないという。しかし20数%は役立った。4人に1人が役立った
という。これは考えようによってはすごいこと。実際、河北のお陰
で命拾いしたという人がいた。避難所に東部道路を使ったおかげ。
そうしたことに力をもらい、最善と思うことを積みかねるしかない。

しかし私は何か釈然としないものが残った。人間は必ず忘れる。
どんなに先人が書物に詳細に書き残し、記念碑を建てても、時間が
経てば悲惨なことは忘れ去られる。100年経て、震災の現実を語
り継げる人はいるだろうか?報道を継続しても風化を止められない。

だったらどうするか?現在、取れるだけの手当てをして後は自然に
任せる。忘却は人間が生きていくための知恵なのではないだろうか。
悲惨な出来事は自然に薄れさせ、前向きに生きることを心掛けたい。
何百年に一度の震災におびえてびくびく人生を送るより、人生を精
一杯謳歌して生きる方がよっぽど充実してはいないか。

海の見えない防潮堤を延々と築くなど自然に対する傲慢ではないか。
海に生きる漁師はどう思うのか?白砂青松に目隠しとはいかがか?
津波は先人の言う通り、単純に「てんでこ」に逃げることでいかが?

ぜいたくなひな祭りを母と味わう [2015年03月10日(Tue)]


3月3日は雛祭り。今年はハプニングな雛まつりとなった。
何と仙台の老舗料亭で有名な東洋館で、雛祭り懐石を頂くのだ。

河北新報でこの広告を目にして「フ〜ン母も喜ぶかな」と思い、
茶飲話のついでに、弟のユ〜夫婦に話してみると大いに乗って
きた。「そりゃ〜いい。食の細いおばあちゃんも食べれるし」と
急に実現の運びとなった。心配の料金も昼とあって格安である。
当日は私の中古車で玄関に乗り付ける。通された部屋は明るく
広い。赤毛氈の上に椅子席が準備されている。

予定より早く着いたので、縁側のガラス越しに外を眺める。
眼下に広瀬川の流れが目に入る。お霊屋橋から縫うようにして
崖沿いに流れ、右端の愛宕橋まで白い布をくねらしている。

いよいよ懐石が運ばれてくる。皿の上を見て、歓声が上がる。
前菜が小さなお雛様を模して可愛らしく並んでいる。実に見事。
ゆっくりと時間をかけて次々に運ばれてくる料理はどれも手が
込んでおり、芸術的だ。和食が世界遺産。まさに納得である。

母もユーからのお酒が回ったのか、ほんのりと頬を染めている。
誰しも満足した後の感想は「これは優雅な時間と空間と食感を
買っているんだね」ということになった。私はそれに「音感」
を加えようと言って、持参の尺八を出して「雛祭り・花かげ」
など数曲を床の間の前に正座して吹奏した。部屋は独立した
造りになっており、他の客に気兼ねなく吹くことが出来た。

3時間余の贅沢な時間を十分に満喫し重い腰を上げた。
嬉しいことに、ユーが私の誕生祝だと言って支払ってくれた。
向山の崖の上に建つ東洋館は空襲を免れた。今仙台に残る唯一
の料亭と言っていい。有名な文人・墨客が愛した場所である。
聞くと明治40年の建物という。来年は108で茶寿なのだ。
ニコニコと満足気に手を引かれて行く母の姿を見ながら思う。
あと6年で茶寿。いや1日を大切に積み重ねていって欲しい。


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