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「河北新報社」の両雄 相次いで逝く [2010年08月03日(Tue)]







7月27日、河北に同紙のT元専務の訃報が載った。
驚いたことに、翌日、同社のA元専務の訃報が続いた。
亡くなった日も23日と翌日。年令は76才と74才。
偶然とはいえ、予め打ち合わせていたようだ。
A氏は私が大阪から戻ってからの16年間の付き合い。
事務改善・OA推進室や業務改革推進室時代の直接の
上司であった。
「サラリーマンの幸せは良い上司に恵まれること」
A氏のお陰で幸せだった。好きなように仕事をさせて
もらった。大局だけを話され、任せてもらえた。
御自身は人事部長を長く務め、組合をはじめ、難問を
解決し、後には会社の長期計画を練り、管理部門の長
として辣腕を振るった。囲碁が強く、人事も一人一人
の個性を見極めて、先まで考えて駒を動かしていた。
酒も強く、大いに飲み、かつ仕事の根回しもしっかり
していた。彼の明晰な頭脳は常に会社の課題を頭に置
いて、詰め碁を楽しむようにフル稼働していた。
退社するころから体調を崩された。「お別れ会」の資料
によると、5年前に大腸と前立腺の両方にガンを発症。
最後にお会いしたのが、3年前の会社のパーティ。
「これからは宮さんの時代だね」と笑顔で話された。
20年程前に会社で尺八クラブが発足した時に自らも
尺八に挑戦された。しかし音が出ず「カミサンに笑わ
れたよ」と云って断念。A氏の部下思いが身に沁みた。
「お別れ会」は葬儀会館で献花のみで、立食しながら
適宜、流れ解散。遺族の挨拶もなく淋しいものだった。
A氏の自分を出したがらない性格を思い出した。

T氏は陽気で対照的な性格だった。広告部門の専門。
柔軟な発想と実行力で、広告の黄金期を築き上げた。
伝説となった「日本の30人」。当時の著名人を集め
講演と広告を結びつけた。岡本太郎、升田幸三、など
癖のある人を300人からピックアップ。
次々と打ち出される企画は新聞協会賞受賞の常連。
T氏の「さよなら会」に配られたパンフに掲載された
「便所の柱人生」の一部を紹介。
毎朝、新聞を持ってトイレに入り、紙面に目を通すの
が習い性。小学3年生の娘にトイレから出てきたとこ
ろでバッタリ出会った時、「お父さんは便所の柱だね」
「だってうちはお母さんが大黒柱だからお父さんは便
所の柱なのよ」と言われた。振り返ると我が人生は
「便所の柱」だったのかも。営業部門は新聞界では
しょせん裏舞台。家庭でも月給を稼ぐだけのお父さん
でしかなかった。でも娘が社会に出て「お父さん、会
社で働くってことは大変なんだね」と言われた時は嬉
しかった。退職後の2年は思い切り遊んだ。思い残す
ことは無い。「枯れ尾花 風に吹かれて 彼の岸へ」
2年前に「仙台文の会」に寄稿したものである。

T氏は血液のガンに罹り、輸血しながらの闘病だった。
この間もゴルフをしたり、会合にも出ていた。
6月には先輩のエイジシュート達成お祝いの会の代表
世話人を務め、亡くなる日にゴルフ場にファックスを
友人のためにしていた。相手を思いやる人だった。
2ヶ月前の会合でお会いした時に、私がその会の会報
に書いた随想を見ていて、「昼寝をよくするとあった
ので体調を心配したが、元気そうで良かった」と声を
掛けられた。細やかな気配りに恐縮した。
「さよなら会」はホテルでの献花方式だったが、T氏
の交際の広さを物語るように、満杯の弔問客。
弔辞や献杯、司会やお返しまで細かに指示を残されて
いた。御礼の言葉も御自身が残された。
「悔いのない良い人生を過ごすことができました。
これもひとえにお世話になった皆様のご厚誼に支えら
れてのことでございます。心から厚く御礼申し上げ、
彼岸の国に旅立たせていただきます。」

お二人の元専務とも、仕事に生きがいを感じ、全精力
を注入し、75才前後で、燃え尽きた。
ちょうど、私の歳から死と直に向き合って生きていた。
延命処置を断った潔い逝き方も共通していた。
お世話になりました。ゆっくりとお休み下さい。
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