• もっと見る

«東仙台小学校6年生との交流 | Main | 東北経済倶楽部尺八晴れ舞台»
マサ子「思い出の写真集」完成 [2010年02月10日(Wed)]






18センチ四方の写真集が机の上に置いてある。
30ページの小さなものだが、母マサ子の96年の
半生がそこに詰まっている。
大きな外套をまとった7才の少女から始まり、両親
と撮った娘時代。そして20才の結婚式の晴れ姿。
夫の就職に伴い盛岡へ転居。戦時中2人の子を失う
が5人の子育て。岩手山が望める北上川や中津川の
傍での暮らし。やがて病弱の夫と仙台に帰り、一女高
の近くで「おしるこ屋」を開店。50才で後家となり
下宿などで生計を保つ。ここまでセピアか白黒写真。
私が結婚、鶴ヶ谷に新築したのに伴い同居。
カラー時代となる。可愛い孫3人が嫁姑の危機的溝を
しばしば埋める。私の4年間の大阪転勤にも一緒に。
父から「母をどこにも連れて行けなかった。よろしく」
と何かの時に言われたのが心に残っていた。
父の遺言を果たすべく、着いた週から荷解きもせずに
大阪城見物に家族6人で出かけ、社宅の同僚から笑わ
れた。それからほとんど毎週のようにおにぎりと水筒
持参でご一行様は出かけた。子供たちはまたお寺かと
ぼやきながらついて来た。母は持ち前の好奇心を満た
すべく、紙が水を吸い取るように貪欲に見て歩いた。
66才の足は山辺の道をはじめ、関西各地から、四国
九州、山陰まで足を伸ばし歩いた。これが財産となり、
TVを見ながら、「ここも行ったねえ」と懐かしんでい
る。その3ページの後は「大家族に囲まれて」のタイト
ルで子供や孫の結婚の写真などが続く。
この後は背景の色が変わり、昨年4月に南三陸への旅
が8ページ続く。私のマンガやスケッチなども盛り込んで
いる。
そして終わりの見開きはマサ子を頂点としたひ孫までの
宮澤家の家系図である。子供5人、孫12人、ひ孫16人
の見事なピラミッドが出来上がった。
最後のページには5人の子供からの感謝の言葉が記さ
れている。
「母は丑年生まれ。ゆったりと人生を前向きに歩んできた。
常に今在る所をユーモアで明るくしてくれた。
どんな時も母の懐は何とか切り抜けられる気にするのだ。
96才の今日も健在だ。こんな母を心から誇りに思う」

手術をした母の枕元には常にこの写真集が置いてあった。
回診の医師が目を留め、手にとって眺め、笑っていた。
母は見舞い客や同室の患者さんにも見せていた。
「皆が支えてくれている」との確信は、土壇場で元気付け
になったのは間違いないと思う。
この写真集の作成を薦め、編集の大半を手伝ってくれた
橘寿好さんには深く感謝するばかり。2年前に亡くなった
彼女のおばあさんの俳句を入れた写真集の作成経験が
生かされた。制作期間は4〜5日。製本発注先は広島。
快気祝いに母から子供、孫までにプレゼントする手はず。
ほんまに、ネットの凄さを思い知らされた1件であった。
トラックバック
※トラックバックの受付は終了しました

コメントする
コメント