恩師片野先生の突然の訃報 [2015年05月18日(Mon)]
訃報は突然にやってくるもの。夕食で新じゃがに塩をつけて 口に入れた途端、電話が鳴った。嫁から受話器を受け取ると、 恩師の片野達郎先生の奥さんからで、いつもの歯切れのいい声 で「驚かないでね。今朝、主人が亡くなったの」と言う。 86才の先生はもともと体が丈夫でなかったが、最近は衰えが 目立ち、杖で体を支えてゆっくりと歩いていた。近所の床屋は 坂道を上がるので、私が弟の優の理髪店に車で送迎していた。 車まで手を引いていくが、その手の力がだんだんと軽くなって いくのが気になっていた。ひと月前に先生に誘いの電話をした ら「いや〜転んじゃってね。ろっ骨を折って歩けないんだ」 これが私の聞いた先生の最後の言葉になってしまった。 先生との出会いは高校2年の時、古文と漢文を教わったのが縁。 先生はまだ東北大学大学院に籍を置き、バイトで教えていた。 先生は一見して、ただものじゃない気配が濃厚に漂っていた。 「平安時代の女の命は長い黒髪である。御簾から香り良い髪が 少しのぞく風情などいいじゃないか」こんな風にニキビ顔の高 校生を刺激して、古文の世界に引き込む。分かりやすいが造詣 の深さに圧倒された。こんな先生には出会ったことがなかった。 私は2年の時に盛岡から転校してきて、まだ学校に馴染めない でいた。ある日、先生と階段ですれ違った時に「君、家に遊び に来ないか」と誘われた。お宅は私の家から遠くなかった。 この時から実に半世紀以上の長い付き合いとなった。 先生は気持ちが学生のように若くて、一回り上の兄貴みたいな 存在だった。先生のお宅では夜遅くまで人生論や宗教、特に禅 の話をした。何せ先生は若い時に仏道に入り、禅の修行をして、 得度までした方だった。私の考え方は実に先生の影響をもろに 受けていると言っていい。話は深夜まで及び、終いには先生は 疲れて、炬燵に横になって話をしてくれた。 私が福島大学に入り尺八を始めたころ、仙台に帰省し、銭湯の 帰りに先生の間借りの部屋を訪れ、習いたての尺八を吹いた。 当時、先生は奥さんとニコニコと聴いてくれたが、新婚間もな い貴重な時間、下手な尺八を聴かされ、さぞ迷惑だったのでは なかったかと今になって反省。 人生の節目とか迷いがあるとき先生と話をすれば不思議に気持 が解放されて、楽になった。また、先生がこの世に現存してい るというだけで安心感があった。先生は人生の師であった。 先生の専門は詳しく知らないが、中世の和歌を研究し、日本文 芸学というあまり聞いたことのない分野で、河北新報にも業績 が紹介されたことがあった。退官後は斉藤茂吉記念館の館長を 長く務め、自らも俳句をNHK文化センターで教えていた。 非常に人気があり、沢山の受講者がいたと聞く。 奥さんは生け花の先生で私の演奏会の舞台を飾ったことがある。 奥さんも数年前から腰が悪化して、寝たきりの状態になった。 娘さんは横浜在住。息子さんはイタリアで活動。日常はケアを 受けて生活している。14日の葬儀では大学の先生方と俳句の 関係者が多数参列した。私は短い弔辞を述べ、尺八を吹いた。 曲は「アメージンググレース」。ただし曲名は伏せておいた。 なにせ曹洞宗輪王寺の坊さん方が多数おる中で、キリストの讃 美歌であるとは言えなかった。葬儀を終えた後、何という曲か との問い合わせが多くあった。先生のお写真はにこやかに笑っ ておられた。先生のいない淋しさを胸に秘め、先生の教えであ る「今を精一杯生きる」ことにします。 合掌。 |