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巨星 野村正峰師を偲ぶ [2012年01月25日(Wed)]



正峰師の微笑む大きな顔写真が見守る中、演奏。
「遥かなるみちのく路」を筝と尺八が奏で、合唱。
式場は昨年10月に逝った野村正峰師を偲び涙する。
師はとても美しい旋律の曲を多く残していただいた。
特に尺八が生きる曲が多く、筝や尺八の普及に多大
な功績を残した。これらの曲は愛され続けるだろう。
作曲の質と量は故宮城道雄師に次ぐものと私は思う。
正峰師との出会いは私の尺八に多大な影響を与えた。
私は小さな舞台で会をしていた頃、師は名古屋で
正絃社を創立した。47年も前になる。その後、
次々と自作の曲が評判となり、大変な勢いで全国に
流勢を広めていった。そしてみちのく仙台へも。

40代の獅子の如く勢いに乗った正峰師に出会った
のは仙台は米ヶ袋の氏家皎山師匠宅であった。
何の曲か忘れたが、初見の曲を成田、佐藤の両君と
いきなり正峰師と合奏をし律が揃っていると褒めら
れた記憶がある。それから間も無く、東北正絃社が
創立された。創立に当たっては正峰師と陸軍士官学
校で同期の仙台の石黒萩山氏の力が大きかった。
彼は都山流の仲間で、曲の紹介や正絃社の普及。
演奏会の準備など何十年と大変な尽力をされた。
この二人を結びつけたのは正峰師作曲の「宮城野」
である。島崎藤村が作詞した「心の宿の宮城野よ」
に曲をつけた。これを石黒氏が正峰師に問い合わせ
たことから終生の深いつながりが始まった。因縁の
不思議さを感じる。私はいきなり東北正弦社の旗揚
げ演奏会で東北電力ホールに立たされた。初めての
大舞台に緊張した。後に独奏までさせていただいた。
最初はお叱りを頂戴することもしばしばであった。
何年か後、反省会で「今日の尺八は良かった」と褒
められた。その後で「正絃社がソリストを育てたの
だよ」と言われた。返す言葉も無かった。まさに
この舞台に上がるために努力を惜しまなかった。
師は若い時に尺八を学び、吹奏技術を研究し、曲に
生かしていた。それだけに優れた尺八家を育てるの
にも腐心していたのだ。私が大阪に転勤になった時
、わざわざ春の名古屋公演に招いていただき、演奏
の機会を作っていただいた。仙台に戻ってからも会
の常連として扱っていただいた。感謝に耐えない。
師は60才で心臓の大手術をした。それでも作曲は
無論、仙台の演奏会にも来られて、痩せた体で指揮
や演奏指導をされていた。ふっくらしたお顔は痩せ
洋服が大きくなってしまった体を振り絞って会のた
めに尽くす姿は鬼気迫るものがあった。私は見るに
忍びず、舞台での写真を添えて、お手紙を出した。
「もう宗家を若い人に譲って作曲に専念され、良い
作品を沢山残して下さい」と。今、考えると何と
弱った人に心無いむごいことを言ったと恥じ入る。
それでも師から丁寧なご返事をいただき恐縮した。
命を懸け、野に骸をさらす覚悟で遥かなるみちのく
に来ている師の姿は、戦後、高野山に入られ仏道に
帰依し人生の何たるかを真剣に探求した清々しい潔
さを見た思いがする。








後世に残る光輝く作品の数々はきっと人々に癒しと
勇気を与えてくれると信じる。また震災復興を目指
すみちのく東北に明るさをもたらす一助にもなろう。
師の作品を奏し続けること。それが正峰師への供養。
偲ぶ会は師とご家族の人柄を反映して、とても明る
く笑顔とそして涙が交差する光景が随所に見られた。
秀子夫人もお元気。また祐子、哲子、倫子の野村家
3姉妹は疲れを見せずに明るく振舞っていた。
陳列された遺品の中に師の随筆集「筝と友に50年
時は流れて」を休憩時間に立ち読みし、改めて師の
考えに共感を覚え、宗家の祐子氏に在庫は無いかと
訊ねたら「上げます」と言って、正峰師の印を押し
てくれた。感謝。熟読し、師を偲ぶことにしよう。
大病との25年間の死闘と85年の筝一筋のご生涯。
低頭、黙祷するばかり。心より感謝申し上げます。
一回り下の私はもう少しがんばります。いずれまた
師と談笑できる日を楽しみに。
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