蕃建柳子師逝く 青春の日遠く [2012年01月04日(Wed)]
大震災年の12月に入って間も無く訃報が入った。 福島市に住む宮城会筝曲の大御所蕃建柳子先生だ。 百歳近いお年だったが、何年か前までは古いお弟 子に教えていたと言う。その後、体調悪く入院さ れ、見舞にいった弟子さんから大分悪いと聞いた。 訃報を改めて聞くと、何かしら心から大事なブロ ックが欠け落ちた喪失感に襲われる。 尺八に夢中になっていた学生の頃、先生は私たち の憧れの筝の先生だった。バリバリと大きな会を 次々に企画実行し、大勢の人をまとめやり遂げた。 考えてみると、かれこれ50年も前のことになる。 先生は今の私よりはるかに若い50才前後という ことになる。まだ若さの残るやる気満々の実力者。 尺八人口が少なかったせいもあるが、我々学生の 面倒を良く見ていただいた。大学祭では講堂での 尺八演奏会に賛助出演。合奏の指導を見てくれた。 大きな舞台にもどんどん出演させてくれた。無論 厳しくしごかれたが、本気が伝わり、嬉しかった。 宮城道雄先生の直門でよく宮城先生の話をされた。 詳しくお話を聞いている内に宮城先生はいつの間 にかすっかり身近な人になってしまった。タイミ ング良く吉川英史著「宮城道雄伝」という分厚い 本が出版され、夢中で細部にわたり読み漁った。 そんな訳で、河北の入社試験の作文に「私の私淑 する人」という問題が出た時に躊躇無く宮城道雄 先生を選んだほどだ。先生が列車事故で亡くなる 少し前に先生を福島市にお呼びして演奏会を開い ている。この時のにこやかなお顔からは残酷な最 後が待っていようなどとは想像すら出来ない。 柳子先生は筝、三絃の腕は無論のこと、地唄の声 がとても艶やかで思わず聞き惚れるほどだった。 終戦では満州から引き揚げてこられたとのことで 大層なご苦労をされたと聞く。それだけに芯が強 く、何にもへこたれない気丈さを感じさせた。 ある夜更け、最終の路面電車が停留所に止まり ドアが開いた時に、たまたまそこに居眠りして いる柳子先生を見つけた。今日も力一杯出稽古 をしてきたという何か尊厳に満ちたものだった。 この情景が柳子先生というと浮かんでくるのだ。 娘の笙子さんが60才。先生に良く似てきました。 しっかりと跡を継いで行くことでしょう。 私の青春の情景を構成する重要なブロックがまた 一つ欠け落ちてしまいましたが、心の中には蕃建 柳子先生は吉田幌山夫妻、恭子先生、下宿のおば さんと一緒に亡くなっても生き続けています。 ご冥福を祈ります。 |