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四季折々の雑記

 30年以上在籍したメディアでは「公」の動きを、その後10年以上は「民」の活動を中心に世の中を見てきた。先行き不透明な縮小社会に中にも、時に「民の活力」という、かすかな光明が見えてきた気もする。そんな思いを記したく思います。


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日本人は本当に内向きか? [2015年09月24日(Thu)]
海外でも大きな活躍
カンボジアでも期待と信頼
教育、伝統医療の普及に


 若者、時に日本人の内向き志向がしばしば話題となる。確かに海外の大学へ留学する学生は減り、企業の海外赴任希望者も減少傾向にあるようだ。しかし社会貢献活動ひとつをとってもアフリカからアジア各国まで、あらゆる地域で日本人が活躍している。数字の変化は日本、さらに国際社会の急速な環境変化が一番の原因であり、一概に「内向き志向」と決め付けるのは早計ではないかー。

9月上旬に訪れたカンボジア王国でも、伝統的なクメールの絹織物や焼きもの(陶器)の復活・育成に取り組む人や、カンボジア土産として有名なクッキーの生産・販売会社を軌道に乗せ、さらに農業育成を目指す起業家まで多くの人が活躍し地元民から熱い期待と信頼を得ている。日本財団の支援事業に関連して、そのうちの2人に話を聞いた。

▼田中千草さん「ポル・ポトのせいにしているだけでは何も変わらない」

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ひとりは世界遺産アンコールワットの観光拠点シェムリアップで非営利団体「アナコット・カンボジア」の代表を務める田中千草さん。2007年、JICA(国際協力機構)の海外青年協力隊員として地元の小学校に赴任、2年後、帰国したが、同僚教師や父兄から復帰を求める1万人以上の署名が寄せられ、今度は個人として赴任。現在、学校運営を手伝う傍らアナコット・カンボジアを立ち上げた。

カンボジアでは1975年に誕生したポル・ポト政権、さらにその後の内戦を通じ800万人の人口のうち200万人が命を失った。ポル・ポト政権は原始共産主義。「知識は人々に格差をもたらす」として教師や医者、学生らを弾圧し知識人の約60%が粛清されたといわれる。

カンボジアには1万を超す公立学校があるが、小中学校の教師のレベル、教えることに対する意欲は低く、教育の貧困が新たな貧困を生む悪循環が続き、子供の人身売買も後を絶たない。夫のDVや借金取りから逃れる家族らを保護するとともに貧しい子供たちの教育を支援し、少しでも子供たちのアナコット(未来)を切り拓くのが田中さんの目標。現在は日本財団の支援で活動拠点となるシェルターづくりを進めている。

子供たちからも「チィー」の愛称で慕われ、バイク姿を見かねた出身地北海道の運送会社社長から贈られた中古のランドクルーザーで飛び回り、日本での講演料などを活動資金に充てる。安倍首相の昭恵夫人を通じて、田中さんの献身的な活動を知ったオバマ米大統領のミシェル夫人も今春、カンボジアを訪問した際、「女性の誇り」と激励した。

 インタビューを申し込むと、世話をしている子供2人を連れて現れ、「日本で5年間、教員をし、見てきたような顔をして外国のことを話すのが嫌で海外青年協力隊に参加した」と動機を説明。「カンボジアは人の心が暖かく人間関係も近い。困っている人が目の前にいれば誰でも助けようと思う」としながらも「ポル・ポトのせいにしているだけでは何ごとも変えられない」とカンボジアの人たちにも厳しい注文を付けた。

 父と兄は教員。弟はNGOで活動する。現在37歳。「カンボジアと結婚ですか」と聞くと「アハハ・・」と笑った。

▼高田忠典さん「地雷の国から薬草の国へ」

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 もうひとりはカンボジア保健省伝統医療局、カンボジア伝統医療師(クル・クメール)協会(CaTHA)のアドバイザーを務める高田忠典さん。1972年、長崎市の生まれ。上京して鍼灸師、柔道整復師の資格を取り、2003年から4年間、ブータンの国立伝統医学院に勤務、さらに日本の伝統医療科学大学院で学び08年からカンボジアで活動する。妻子は現在もブータンで暮らす。
 
 被爆地・長崎の出身として、ポル・ポト時代、さらに内戦を通じ、伝統文化、地域社会が破壊尽くされたカンボジアに平和を再構築するのが夢。日本財団の支援で伝統医療局が08年から進めたクル・クメールの研修を指導し、342人のクル・クメールから成るCaTHAのネットワークを完成させた。

 ポル・ポト時代には教師と同様、医師も徹底的に粛清され、クル・クメールが何とか医療を支えた。カンボジアには2000種類を超す薬草が自生しており、それぞれの地域、クル・クメールの家に伝統薬の製法が伝わり、慢性疾患を中心に治療に使われてきた。1978年、旧ソ連のアルマ・アタで開催されたWHO(世界保健機関)の国際会議で伝統医療の重要性が見直されて以来、途上国のプライマリー・ヘルス・ケアだけでなく、近年は医療費の膨張に直面する先進国でも、比較的価格が安い伝統医療の活用が増える傾向にある。

 高田さんによると、カンボジアではポル・ポト政権の粛清で近代医療が崩壊した分、他のASEAN諸国より伝統医療が濃厚に残され、薬草も豊富でプノンペンには生薬の問屋もある。カンボジア政府は近代医療を中心に医療体制を整備する意向ともいわれるが、深刻な医師や医療施設の不足を解消するには伝統医療の活用が欠かせない。

 カンボジアでは今も地雷の撤去が続く。CaTHAのネットワークを生かし、「地雷の国から薬草の国へ」が実現することが、内戦で疲弊したこの国を健康にし、ひいては平和の建設につながる。高田さんは、そんな思いを込め、小学校など各地に薬草園をつくり、伝統医療の普及を目指している。(了)
ミャンマーと南機関 [2015年08月30日(Sun)]

「国軍は恩を感じている」
今回も鈴木大佐の墓参り

「日本ミャンマー将官級交流プログラム」(日本財団主催)で来日したミャンマー国軍の将官9人が8月25日、昨年の第1陣と同様、静岡県浜松市を訪れ、旧日本軍の特務機関「南機関」の機関長だった鈴木敬司大佐(最終階級・陸軍少将)の墓参りをし、団長のアウン・チョウ・ゾー少将は墓参の理由を「鈴木大佐はミャンマー独立に貢献された。ミャンマー国軍は尊敬し、恩を感じている」と語った。

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鈴木大佐の墓参をするアウン・チョウ・ゾー少将

 「21世紀構想懇談会」は安倍晋三首相の戦後70年談話に先立って公表した報告書で、戦後の多くのアジアの国の独立と戦前の日本の関係について「(日本の)多くの意思決定は自存自衛のために行われたのであって、アジア解放のために、決断したことはほとんどない」と指摘した。

 多くの国の独立が民族運動の高まりと戦争によって宗主国の圧倒的な力が低下した結果、達成されたのは間違いない。先の戦争を「侵略」とした上で「国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない」という報告書の指摘にも異論はない。

しかし、かの戦争に一片の「大儀」もなかったとなると、日本人だけで310万人にも上った犠牲者は一体、何だったのかー。多くの人が戦争を否定し、「侵略」の位置付けを肯定しながらも、いまだに、こだわりを捨てきれないのは、そのためだ。

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大草山頂上に立つビルマゆかりの碑

南機関に対するミャンマー国軍の評価を、ミャンマー国民や政府と内戦を続けてきた少数民族がどこまで共有しているか、といった別の問題もあるが、それでもなお一行の墓参やゾー少将の言葉に快さを感じるのは、こんな心理が影響しているのかもしれない。

一行は25日、航空自衛隊浜松基地を訪問した後、浜名湖を望む舘山寺大草山の頂上に立つ「ビルマゆかりに碑」と鈴木大佐の墓を訪れた。「昭和四十九年五月十二日」付けの碑文には「ビルマ国民に建国の父と仰がれるオンサン将軍が去る昭和十五年わが国に亡命して当地出身の鈴木敬司陸軍少将と共に祖国独立運動の秘策を練ったこのゆかりの地に建てられた・・」とある。

資料によると、南機関は東南アジアへの勢力拡大を図る旧日本軍と英国からの独立を目指すビルマ(現ミャンマー)の思惑が結び付く中で誕生した。鈴木大佐はオンサン将軍(後に「建国の父」と呼ばれるアウン・サン将軍、アウン・サン・スー・チー氏の父親)らビルマの独立運動家30人を脱出させ浜松で態勢を固めた上、1941年、タイ・バンコクで「ビルマ独立義勇軍」(BIA)を立ち上げ、43年8月には首都ラングーン(現ヤンゴン)を陥落させ独立を宣言した。

独立をめぐり日本軍との間に亀裂を生ずる中、南機関は最後までBIAに肩入れしたとされ、ミャンマー国軍が「独立に貢献した」というのは、南機関のこうした行動を念頭に置いた話かもしれない。現にビルマの33回目の独立記念日に当たる81年1月、ビルマ政府は独立に貢献した日本人7人にアウン・サン勲章を贈っているが、鈴木大佐未亡人を含め全員が南機関関係者だった。

ゆかりの碑や鈴木大佐の墓は昨年9月に訪日したミン・アウン・フライン国軍総司令官も訪れ、古くはネ・ウイン元大統領も訪日のたびに元南機関の関係者と旧交を温めていたとされる。ミャンマー国軍には多くの日本の軍歌が今も引き継がれ、3月のミャンマー国軍記念日(3月)のパレードでは「軍艦マーチ」も演奏されるという。一行によると、音楽だけでなく、「ハンゴウ」(飯盒)、「モウイッカイ」(もう1回)といった日本語も使われているそうだ。

ミャンマーの人口は現在、約5300万人。135に上る民族が住み、6割以上をビルマ族が占める。植民地時代は英国の分割統治で山岳の少数民族が軍や警察を握りビルマ族を抑え込んだとされ、そのしこりが今も続く内戦の一因になったといわれる。日本に対する評価、さらには訪問の度に実感する「対日好感度」にも、われわれが知り得ない複雑な面があるのかもしれない。そんなことを考えながら、11月の総選挙を注目したい。(了)

ハンセン病差別を思う [2015年01月31日(Sat)]
今や“多くの病気の中のひとつ”
ハンセン病 差別を後世の教訓に


 「世界ハンセン病の日」(1月最終日曜日・25日)に合わせ、国際シンポジウムや写真展、街頭キャンペーンなど多彩な催しが展開された。今回は偏見・差別の撤廃を訴える10回目のグローバル・アピールが東京で発表されたこともあって国内の関心も高く、天皇、皇后両陛下も28日、アピール宣言式典に出席した内外の回復者を御所に招き懇談されるなど異例の対応をされた。

▼両陛下、回復者とご懇談

 進行すると末梢神経や皮膚が冒され、手足の指や顔面が変形するハンセン病は有史以来、「業病」などとして恐れられてきた。しかし1980年代、3つの薬を併用する新しい治療法(MDT)が開発されたことで、「不治の病」から「治る病気」となり、世界で約1600万人の患者が回復、現在の患者数は20万人前後と推定されている。日本では全国13カ所の国立療養所で1750人前後の回復者が暮らすが、新たな患者の報告例はないようだ。

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       立ハンセン病療養所、大島青松園(香川県)=「世界ハンセン病の日」関連企画、
       富永夏子写真展「ハンセン病を考えることは人間を考えること」から。「あの島か
       ら出ることが許されないとしたら、あなたはどうしますか?」のコメントを付し、
       偏見・差別の実態を問い掛けている。

 早期に発見すれば完全に治癒し、その限りでハンセン病は今や「多くの病気の中のひとつ」に過ぎない。にもかかわらず、回復後も「元患者」として引き続き差別続くところにハンセン病の特殊性があり、患者が最も多いインドでは回復者やその家族が結婚や教育、就職などで依然、深刻な差別を受けている。

 ハンセン病は長い時間をかけて症状が進行し、指や顔に変形をもたらし、視力を奪う。MDTの開発まで有効な治療法はなく、有史以来、染み付いた恐怖に加え、近世、各国が採った隔離政策が余計、偏見を加速した。明治時代に隔離政策が始まった日本は大正初期にハンセン病患者への優生手術、いわゆる断種も始まり、昭和に入っても「無らい県運動」の名の下、人口中絶の対象にハンセン病を明記した優生保護法が成立するなど、1996年に「らい予防法」が廃止されるまで徹底した根絶策がとられた。

 「治る病気」、「多くの病気の中のひとつ」となった現在も深刻な差別が続く現状は、人類が引き継いできた「負の遺産」の根深さを示す。ハンセン病に対する偏見・差別は、社会のあらゆるところに存在する偏見・差別の原点でもある。患者・回復者が受けてきた悲惨な歴史は、あらゆる差別をなくすための教訓として人々に共有され、後世に引き継がれた時、ようやく意義を持つ。

 式典関連のシンポジウムでも「悲惨な歴史は人類が持つ偏見をなくすための財産」、「ウネスコの世界記憶遺産として広く後世に伝えるべきだ」といった声が出席者から出された。その通りだと思う。未知の病気は今後も必ず登場し、治療法が確立しなければ人類はパニックに陥り、新たな差別を生む。最近のエボラ熱騒ぎも、そのひとつであろう。何千年にも及んだハンセン病差別から、人類が学ぶべき教訓は多い。

 それにしても両陛下の手厚いご対応は関係者にも驚きだったようだ。両陛下はこれまでも全国立療養所を訪問されるなどハンセン病に強い関心を持たれ、世界ハンセン病の日に先立つ13日には、WHO(世界保健機関)のハンセン病制圧大使を務め、今回のグローバル・アピール宣言式典を主催した笹川陽平日本財団会長から直接、ハンセン病の現状などについて、ご進講を受けられた。

 28日には国内や米国、フィリッピン、インドネシアなどから式典に出席した内外の回復者8人を御所に招かれ、一人ひとりと握手し、励ましの言葉を掛けられた。全員が「前向きに生きていく力をいただいた」、「自分の国では有り得ない事態」などと感動を語り、インドのハンセン病回復者協会(APAL)のヴァガヴァタリ・ナルサッパ会長は「これまで家族からも社会からも手を握られることはなかった。両陛下から握手してもらった瞬間、すべての痛みが消えた」と感激の表情を浮かべた。

 筆者は記者時代も皇室を担当した経験はなく、近年の皇室情勢にも疎い。しかし今回は、皇室が持つ重みとでもいうのだろうか、形容しがたい存在感を垣間見る思いがした。(了)

中韓めぐる思い [2014年05月29日(Thu)]
元寇、朝貢外交とは何か
透けて見える華夷思想


最近、Net上の2つの記事に興味を持った。ひとつは中国共産党の機関紙・人民日報系の環球時報が掲載した笹川陽平日本財団会長のインタビュー記事に対しネット上に寄せられた「声」、もうひとつは韓国・朝鮮日報の日本語サイトに掲載された同社政治部次長の「中国の朝貢論と日本の嫌韓論」と題するコラムだ。

▼夫婦の関係

環球時報のインタビューで笹川会長は「日本と中国は今後どう付き合うべきか」との問いに「数千年に及ぶ日中交流の歴史の中で緊張関係にあったのは2、3度。元寇で中国は日本を攻撃し、日本も中国の人たちに大きな傷を与えました」、「(長い歴史で見れば)日本と中国のような友好的な隣国関係はとても珍しい」とするとともに「日本と中国は夫婦の関係。夫婦げんかは仲直りできます」との見解を披露している。

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新緑の伊勢神宮

発言はネットに掲載され、「Record China」は「中国のネットが猛反発している」として「先に米国に浮気したのは日本じゃないか」、「夫婦のようだって? 即離婚だ。話し合う余地なし!」、「日中友好? なら伺いますが、日本人はこの言葉を信じているのでしょうか?」などの意見を紹介、元寇に関しては「モンゴル人が統治していた元朝で、漢民族は第2次大戦時よりもっとひどく虐げられていたはずだ」、「漢民族の多くは、モンゴル人に支配され家を失い迫害を受けた。日本が現在の中国に対し元寇を持ち出すのは筋違い」との反論も寄せられている。

元軍の編成は1274年の文永の役がモンゴル(元)と高麗軍、1281年の弘安の役が元に滅ぼされた南宋の降軍を含めた連合軍とされるが、攻撃を受けた日本から見れば、どちらも中国に王朝をたてた「元」の軍隊に変わりはなく、被害者と加害者の感覚の違いということか。付言すれば、10世紀以降に限っても中国には「遼」や「元」、「清」といった征服王朝があったが、「明」に滅ぼされ草原に去った元を除けば、どの征服民族も圧倒的な数の漢民族に飲み込まれ同化しており区別は難しい。

島国に住む日本人にとって “大陸の興亡”は言葉で理解できても、自らの歴史と重ね合わせて実感できない部分がある。習近平政権が掲げる「中華民族の偉大な復興」についても同じことが言えるのではないか。ネット上の書き込みを見ながら、そんな思いがした。

▼宗主国対属国の関係

一方、朝鮮日報のコラムの筆者はぺ・ソンギュ政治部次長。コラムによると、朝貢外交の話が出たのは、韓中両国の政府関係者による定期交流行事の席で、中国の当局者が韓国政府の関係者に対し「朝貢外交に戻ったらどうか」と探りを入れる発言をしたという。「昨年、中国の一部学者が主張し始めた『朝貢外交復活論』を中国の当局者が口にしたのは初めて」とも記している。

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東大寺の偉容

その上でコラムは「公式な発言ではないとしても、当局者が口にする言葉としてはあまりにも不適切。中国が伝統的な韓米日3ヵ国の協力体制を壊すために躍起になっているという意味でもあり、周辺国との外交戦略に『中華的覇権主義』が見え隠れしていることを示す証拠でもある」と不快感を表明。中国への輸出が韓国の輸出全体の25%を占めるなど中国への経済依存度が高まり、北朝鮮の核問題など安全保障戦略でも中国の影響力が高まっている現状から、「北朝鮮情勢が急変し、親中派政権が発足した場合には統一がより困難になり、韓半島(朝鮮半島)全体が中国の辺境の地になり下がる危険がある」とも指摘している。

朝貢は中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号や爵位を与えて君臣関係を結びその統治を認める制度(冊封)。双方の関係は宗主国対属国といった従属的な関係となる。日本も遣隋使や遣唐使の時代はそうであり、朝鮮半島は古代からこの制度に組み込まれていた。

中国を世界の中心とする「中華思想」、あるいは他民族を低く見る「華夷思想」の現れであり、中国政府の当局者が韓国政府の当局者に“属国となるよう”求めたとすれば驚くしかないが、中国に傾斜する朴槿恵・韓国大統領の最近の姿を見ると、なんとなく納得できる部分がないわけではない。

例えば今年1月、中国黒竜江省のハルビン駅に完成した安重根の記念館。1909年、同駅で初代韓国統監伊藤博文を暗殺した安重根に関しては朴大統領が昨年6月、中国の習近平国家主席に祈念碑の建設に協力を求め、習主席が「碑を祈念館に格上げする形」でこれに応えた。

韓国の対中接近はそのまま中国の対日攻撃の強化、さらに日米韓3ヶ国の関係にくさびを打ち込む結果となり、記念碑の建設は、中国への傾斜という朴大統領の“朝貢”に対する習主席の精一杯の“答礼”のようにも見える。第一義的には韓国民がどう考えるかの問題だが、もう少し今後の動きを見守りたい。

このほかコラムは「日本で高まる嫌韓論が日本の一般国民の韓国に対する認識を急速に否定的なものにしている」、「韓米関係にも悪影響を与えている」としているが、実態は逆ではないかー。筆者に言わせれば、韓流ブームなどで盛り上がりを見せていた「親韓」ムードに水を差し「嫌韓」に拍車を掛けているのは、慰安婦問題などを通じた韓国の執拗で感情的、時には根拠を欠く対日批判に、より大きな原因がある。結果、日本でも「偏狭なナショナリズムの高揚」という好ましくない現象が起きている。

こういう言い方をすれば当然、反論もあろう。ただし現在のような冷え込んだ関係が日本にとっても中韓両国にとっても利益がないことははっきりしている。誰もが、そろそろ冷静になるべき時ではないかー。(了)
ソチ五輪に思う [2014年02月26日(Wed)]
語り継がれる「真央」の名
沙羅は“小休止”して羽ばたけ


ソチ冬季五輪が閉幕した。スピードスケートでメダルを独占するオランダへの驚きや相変わらず分かりにくい判定競技の在り方など、テレビ中継を見ているだけでも様々な思いがあった。中でも印象が残った浅田真央(23)、高梨沙羅(17)両選手について素人の感想を記す。

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朝陽に輝く妙高

▼浅田真央

団体戦だけでなく個人のショートプログラム(SP)ですべてのジャンプを失敗、呆然とした姿に多くの人が翌日の演技は無理ではないかと感じた。しかしフリーでは逆に代名詞のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を含め6種類の3回転ジャンプをすべて成功させ、その涙に多くの人が感動した。浅田真央はメダル以上の“価値ある何か”を手にし、その名は長く語り継がれよう。

そんな姿に1972年、札幌冬季五輪で「銀番の妖精」と呼ばれ、世界を魅了したジャネット・リンを思い出した。本番で尻餅をつき、優勝候補と言われながら3位に終わったが、終始、笑顔で金髪をなびかせながら軽やかに滑る姿に世界が賛辞を贈った。ジャネット・リンの名は記憶していても、金メダリスト、銀メダリストの名を記憶する人はほとんどいないと思う。浅田真央に寄せられた感動はこれに勝るとも劣らない。

ただし女子フィギュアについては、これほどジャンプにこだわる必要があるのか、かねて疑問に思う。浅田真央はフリーでトリプルアクセルを2度跳ぶ決意を示し、最終的にコーチの説得で1回になったと報道されている。失敗すれば大きな減点につながるトリプルアクセルを「跳べるのは自分しかいない」とこだわり、果敢に挑戦する姿勢は称賛されていい。

しかし、ジャンプの加点が大きければ大きいほど、採点競技の宿命として、その技は高難度になる。フィギュアスケート、特に女子の魅力はその演技の美しさにある。ジャンプのすごさがすべてではない。滑らかなステップやスピンの美しさこそ重視されるべきである。ジャンプの高さや回転数ばかりが重視されたのでは、アクロバット性ばかりが強まり、この競技が持つ本来の美しさを失いかねない。暴論かもしれないが素人としての率直な感想である。

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妙高の青い空

▼高梨沙羅

正直言って日本選手団で金メダルの可能性が一番高いのは彼女だと思っていた。多くの人の思いも同じだと思う。ただし個人としては、ワールドカップのシーズン最多勝記録を更新するなど圧倒的な強さを誇った高梨沙羅が、昨年末から年明けにかけ優勝を逃すケースが何度かあり、連戦の疲労が蓄積しているのではないか、そんな不安を感じていた。

結果的に4位に終わったのは単に「世界にはそれだけ強い選手がたくさんいた」ということかもしれないし、報道されているように「ソチのジャンプ台が高梨に合わなかった」、「追い風が吹く不運に見舞われた」などの不利が重なったのかもしれない。五輪独特の重圧もあっただろう。

しかし、それでもなお連戦による疲労蓄積にあえて敗因を求めたい。同様の疑問は夏の五輪でもしばしば感じる。選手のコンディションが本番前にピークを迎え肝心の本番で持てる力を十分に発揮できない、本番に向けたコンディション作りに問題があるのではないか、ということだ。だから高梨沙羅にも、五輪を目前にした1月には一呼吸を置いて気力、体力を一新し、その上で本番に臨んでほしいと思っていた。

報道を見ると、高梨は五輪帰国後、早くも2月22日から始まった第69回国体冬季スキー競技会「やまがた樹氷国体」のジャンプ競技でテストジャンプ(試技)を披露している。出場は本人の希望かもしれないし,ウインタースポーツ本番、出ざるを得ない事情があるのかもしれない。

高梨沙羅は多感な17歳、これからの選手である。その才能を末永く活かし、さらに大きく羽ばたくためにも、まずは彼女なりにソチ五輪を総括し、少なくとも精神的には小休止してリニューアル、オーバーホールしてほしいと思う。それが世界のノルディックスキー・ジャンプの第一人者である高梨沙羅の大成につながる。(了)
吉永祐介という人 [2013年07月07日(Sun)]
守りを固めながら果敢に攻める」
  ミスター検察・吉永氏死去


多くの政界・経済事件を指揮し”特捜の鬼”、”ミスター検察”と評された吉永祐介・元検事総長が6月23日、81歳で亡くなった。田中角栄元首相が5億円の受託収賄罪に問われたロッキード事件の初公判(1977年1月)から83年10月の一審判決まで司法記者クラブに在籍し、以後も司法クラブキャップなどとして長い間、取材させてもらった。30年を超す記者生活の中で最も印象に残る人物の一人である。

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氏については新聞、雑誌、テレビを通じて、あまりに多くが語られており、詳細は触れないが、とにかく「事件を大切にする人」だった。「結果がすべて」ということだったかもしれない。内偵中の事件や捜査中の事件で前触れ記事を書かれるのを極端に嫌い、書けば怒鳴られ出入り禁止となった。

「マスコミにサービスする義務も責任もない」と言いながら、事件がどう報道されるか、常に気にする人でもあった。主任検事を務めたロッキード事件は言うに及ばず、東京地検特捜部長時代のダグラス・グラマン事件、東京地検検事正時代のリクルート事件など、いずれも,その帰趨が政局を左右する局面が続いただけに当然でもあった。

結果、報道する側としても記事を出すタイミングに悩まされた。「事件をつぶす気か」と言われ、同僚記者と総力を挙げた「取材結果」の出稿を見送るケースもあった。忘れた頃にその間の事情をさり気なく語り了解を求める気配りもあった。そうした配慮が多くの記者の信頼を得た一因と思う。

当然、捜査の指揮も厳しかった。ロッキード事件では元首相秘書や贈賄側の丸紅幹部らの取調べ結果を一手に握り、その内容を知らせないまま各検事に取り調べを進めさせた。少しでも新しい事実を聞き出すのと、各被告の自白調書に対し公判で予想される「検事の誘導」といった弁護側の反論を封じるのが狙いで、それが本来の形とはいえ各検事の苦労も半端ではなかったようだ。しばしば苦労談を聞いた。

ロッキード裁判は自民党最大派閥の領袖、政界の第一人者として君臨した田中元首相と検察のどちらが生き残るか、まさに死闘となり、約6年間の一審公判中、弁護側が主張したアリバイ崩しなど補充捜査が併行して進められる異例の展開となった。

吉永氏を「強気の人」とする評価に異を唱えるつもりはないが、自分が見るところ「守りを固めながら果敢に攻める人」であった。記者クラブの旅行会だったか、一夜、麻雀を共にしたことがある。金を賭けない座興のせいもあろうが、「対々(トイトイ)和」を目指して「ポン」を繰り返し、挙句の果てに安全パイをなくして振り込む姿に別人を見る思いをした記憶がある。

ロッキード事件は検察側の完勝であった。密室の犯罪である贈収賄事件で、これほど豊富な証拠が揃ったケースは珍しく、“田中追い落とし”に向けたアメリカの陰謀説などがあるが、それは今なお謎が残る事件の発覚経過などに言い得る余地があるとしても、ロッキード社から元首相に5億円が流れた事実は揺るがない。この点はいずれ改めて触れたく思う。

近年、東京地検や大阪地検の特捜部は捜査報告書の虚偽記載や証拠改ざん事件で、かつての「最強の捜査機関」の面影を失った。「吉永検察」によって醸成された「検察の正義」とそれに対する社会の期待が一人歩きした結果、「格好良く有罪を獲得することだけを自己目的化」する気風が特捜の現場に広がり、一から証拠を積み上げる本来の姿が希薄になったのではないかと推察する。

検事総長退任後、弁護士に転進した吉永氏は、相変わらず口は堅いながら、そんな検察の将来に対する懸念も語っていた。その後、体調を崩され訪問を遠慮するうち、足も遠のいた。最後までお付き合いを願うべきだったと後悔している。訃報を受け共同通信社の社会部長から「評伝」執筆の依頼を受けたが、そんな忸怩たる思いもあり辞退させてもらった。吉永氏のご冥福をお祈りする。(了)
半世紀振りの小豆島 [2013年04月26日(Fri)]
こだわりの樽醸造
醤油の島 小豆島

4月中旬、小豆島を訪れた。高校の修学旅行以来だから実に半世紀振りということになる。島の人口は3万1000人。ピークの1947年には6万2000人だったというから50年で半減した計算になる。2050年には江戸時代初期の2万人まで落ち込むとの予測もあるそうだ。

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店頭に展示されている大きな杉樽

豊富な海の幸、名勝・寒霞渓など観光資源に恵まれ、気候も温暖な瀬戸内の島で何故?―と考えるのは旅行者の感傷かもしれない。しかし島では昔ながらの醤油造りが今も活気を見せ、木樽を使った醤油製造の国内最大の産地という。勝手な感想を言えば、日本食ブームの中、醤油は 今後“世界のソース”として間違いなく需要が高まる。オリーブや素麺も加え、小豆島復興の牽引車となるよう期待する。

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寒霞渓から見た瀬戸内海

小豆島の醤油造りは400年の歴史を持ち、最盛期には400軒もの蔵があった。現在は約20軒。そのうちのひとつ「ヤマロク醤油」を訪ねると、もろみを熟成させる蔵を見せてくれた。中には60もの杉樽がびっしりと並ぶ。直径2・3b、高さ2b。容量は32石(5800g)といい、150年から200年近くも使われた樽の表面には白っぽい粉が厚く重なっている。醤油の発酵にかかわる微生物で樽だけでなく柱など蔵全体に棲みついているという。

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島内には千枚田も

大樽は味噌、日本酒造りでも使われ、現在残っているのは全国で3000〜4000本。そのうちの1000本が小豆島にあるという。樽はかつて小豆島でも作られていたが、現在は大阪・堺市に「製桶所」が1社残るのみ。このままでは最高の「醸造容器」」である杉樽が姿を消し、樽醸造は不可能となる。このためヤマロク醤油では昨年、地元の大工さんを含め3人が製桶所に弟子入りし、新しい樽を3本完成させた。

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もろみの島宿真里

醤油造りは近代化が進み、多くは金属製のタンクが使われ、杉樽を使った醤油は1%に満たないという。その分、価格も高いが、味噌や酒なども加え「桶仕込みこそ本物」の信念でこれを守る関係者の熱意もあって全国的にブ−ムを呼んでいるようだ。
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映画「二十四の瞳」の舞台でもある

宿泊した「もろみの島宿真里」では料理とともに「諸味たれ」、「二弾熟成」、「生あげ」、「淡口生揚(うすくちきあげ)」の4種類の醤油が出された。醤油造りの工程などを説明した説明書には、地元「正金醤油」が真里の料理に合わせ独自の銘柄に仕立てた、と書かれており、きめ細かいサービスに感心した。

そういえば食事の際、料理の載せる“おつくり台”の表面に細かい水滴が付いており、意味を問うと、料亭の玄関先などで目にする「打ち水」をイメージしているとのこと。料理だけでなく、全体に細かい気遣いが溢れ、申し分のない雰囲気。いつまでも大切にしてほしいー。そんな思いを持って島を後にした。(了)
陸山会事件控訴 [2012年05月11日(Fri)]
「小沢裁判」を政局にするな!
明日の日本こそ語るべき


資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり民主党の小沢一郎元代表が政治資金規正法違反(虚偽記載)で強制起訴された事件で検察官役の指定弁護士は、元代表を無罪とした一審・東京地裁判決に「見過ごせない事実誤認がある」などとして控訴した。批判する声も出ているが、一審判決は小沢氏の故意(違法性の認識)の立証が不十分としたものの事実関係は指定弁護士側の主張を大筋で認めた。「控訴は当然あっていい選択」と考える。

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故郷・岐阜の山河


その一方で、決着が控訴審に持ち越されたことにより「小沢裁判」が引き続き政局の焦点になると思うと、暗然たる気がする。東日本大震災の復興、原発、財政再建、安全保障など喫緊のテーマが山積する中、一国会議員の刑事裁判に政治が翻弄される現状はあまりにおかしい。小沢氏に対する批判がなお強いのも国の明日より政局を優先する政治姿勢にある。豪腕政治家として「国に対する最後のご奉公」を口にする以上、日本再生に向けた政策こそ語るべきである。

▼未整備

一審の無罪判決を機に検察審査会制度に対する批判や疑問があらためて指摘されている。検察審査会法は強制起訴における指定弁護士の役割を「事件を起訴し、公判の維持を行う」としているものの、強制起訴をした場合の補充捜査や上訴手続きどうあるべきか、さらに上限を120万円としている指定弁護士の報酬が果たして現実的か、未整備な点が多すぎる。

強制起訴の対象となるのは、もともと検察側が証拠の弱さ・不足を理由に起訴を見送った事件であり、同じ法律専門家として裁判官の証拠評価が検察官と大きく違うことはない。乱暴な言い方をすれば、検察が「力及ばず」で捨てた事件を有罪にするのは、指定弁護士が余程、新たな事実や証拠を発掘しない限り難しい。無罪判決が出る確率の方が当然高く、現実に無罪判決が出たからといって指定弁護士の力量や強制起訴制度そのものを問題視するのは筋違いである。それは本来、制度発足に先立って為されるべき論点であるからだ。

本件では陸山会が2004年秋に行った土地取得に伴う経理処理が問題となり、一審は元代表が提供した4億円について元秘書らが政治資金収支報告書に虚偽の記載をしたことを認定、小沢氏がその処理に関し元秘書から報告を受け了承した、ことも認めた。無罪理由は「04年分に計上しなければならないと認識していなかった可能性がある」、つまり小沢氏の違法性の認識(故意)に関する立証が不十分というわけだ。同様の点は贈収賄事件でもしばしば問題となる。政治家が現金を受け取ったことが立証されても、その金が「わいろ」であると認識していたことが立証されなければ収賄罪は成立しない。

▼審査会の意見反映を

控訴に当たり指定弁護士は「手持ちの証拠でも十分、控訴審を戦える」、「(控訴審の勝算は)5割を超える相当の確度」などと語っている。これら報道を見る限り、指定弁護士には新たな事実や証拠発掘にかける手応えがあるようにも思うが、最高裁は2月、一審判決を破棄するには「論理則、経験則に照らして一審の不合理な点を具体的に示す必要がある」との判断を示しており、有罪獲得は容易でないような気もする。

控訴は3人の指定弁護士の合議による結論のようだ。検察が控訴する場合は高検、最高検と協議し、控訴が決まれば担当検事も変わる。強制起訴が検察審査会の意見を受けて行われる以上、控訴に関しても審査会の意見を反映させる手立てがあってもいいのではないか。控訴期限が一審判決から2週間と時間的制約があるが、検察審査会制度はもともと例外的な手続きであり、控訴期限を別扱いとする手もあると思う。

▼国民の目線

一審判決に対し小沢氏の主任弁護人、弘中惇一郎弁護士は「基本的には完全無罪」と評価した。同弁護士はかつて「ロス疑惑」事件の故三浦和義氏の主任弁護人として、三浦氏がマスコミ相手に起こした数多くの名誉棄損訴訟の代理人も務めた。共同通信社の配信記事も訴訟対象となり、当時、共同通信の法務を担当していた関係で法廷や事務所で何度か顔を合わせた。印象は「言葉を厳格に選んで話す人」。完全無罪といった情緒的表現には「この人らしくない」といった違和感がある。マスコミや野党の「灰色無罪」を意識した言葉と思うが、判決には本来、有罪と無罪しかない。

一審判決は結論を別にすれば指定弁護士の主張を多く採用しており、小沢氏の法廷供述を「信用できない」とも述べている。小沢弁護団としても控訴審で争う争点はたくさんあるはずで、控訴審判決までに意外な時間を要する可能性もあろう。これによって、ただでさえ劣化している政治がこれ以上、低迷してはならない。日本財団の笹川陽平会長は3月、産経新聞の「正論」で小沢氏に対し「政局を離れて故郷に帰り、その剛腕を持って被災地復興の先頭に立つべきだ」と書いた。

政治には力が必要であり、「数こそ力」というのも恐らく正しい。しかし政治家にとって一番必要なのは国民の信頼と支持である。裁判とは別に、国難ともいえる難局に直面するこの国の明日に剛腕を発揮してこそ、小沢氏の名は後世に残る。(了)
「死刑制度」 [2012年04月04日(Wed)]
法相の個人の思いを持ち込むな
冷静な職責の遂行こそ議論の前提


3月末、1年8か月ぶりに3人の死刑が執行されたのをきっかけに死刑制度の是非をめぐる議論が再燃している。しかし刑の執行そのものを問題視した議論の立て方はおかしい。現に死刑制度があり、100人を超す確定死刑囚が存在しながら、1年8ヶ月もの間、4人の法務大臣が死刑執行命令書に署名することなく、執行ゼロが続いた状態こそ異常なのだ。

法相としての自覚

誤解を避けるために言えば、むやみに死刑の執行を求めるつもりはないし、個人的には死刑廃止に近い考えを持つ。死刑執行命令書への署名は気の重い職務であろうし、過去に署名をためらった法相すべてが死刑反対派だったわけでもない。刑の執行という重い職責に対する覚悟と度胸がなかったに過ぎない法相もいたと思う。しかし、それがどういう影響をもたらすか、もっと自覚されなければならない。

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ようやく桜が咲いた

死刑廃止国は現在141カ国。ここ10年余で40カ国近く増え、2011年、実際に死刑が執行された国は20カ国にとどまる。法相といえども1個人としては当然、賛成、慎重、反対と様々な思いがあろう。しかし、法相に就任した以上、個人の考えを持ち込んではいけないのだ。個人の考えにとらわれ死刑執行命令書への署名をためらえば、法相としての職責を全うしないばかりか、法相自ら法の厳正な運用を曲げ、法の安定、法治主義そのものに対する信頼を裏切ることになりかねないからだ。

それでは失うものが大きすぎる。政府が実施する世論調査で死刑制度容認派が85%まで増えているのも、残虐な犯罪の増加もさることながら、こうした実態に対する国民のいら立ちを反映した結果ではないか。執行命令書への署名に当たり法相が検討すべきは、当該の確定死刑囚の執行に再審請求など個別具体的な問題があるか否かに限定されるべきである。

冷静な議論の妨げ

死刑制度の是非は法相の意見とは別に広く公論で決すべきで、法相の役割はそのための環境整備、受け皿づくりにとどまるべきだ。そういう覚悟と自覚もなく、職責を全うできないのなら、法相就任を辞退すべきである。自民党政権時代、就任早々「(死刑執行命令書には)サインしない」と言い切った法相がいた。民主党政権になっても法相から同様の発言が聞かれた。司法全体に対する国民の不信を考えれば無責任の極みであり、死刑問題に対する冷静な議論の妨げでしかない。

今回、3人の死刑執行に踏み切った小川敏夫法相は法曹3者(検察官、裁判官、弁護士)の経験者であり、柳田稔―仙谷由人―江田五月―平岡秀夫と続いたそれ以前の4法相に比べると異質の存在かもしれない。恐らく今後も法相が変わるごとに死刑に対する考え、対応はくるくる変わり、あるべき冷静な議論を欠いたまま賛否両論が戦われることになろう。刑事訴訟法は死刑確定から6カ月以内の執行を定めているが、その通り執行されたケースは聞かないし、3人の執行直前の確定死刑囚は135人と戦後最大の数字となっていた。今後も増える可能性が高い。

新たに導入された裁判員裁判では既に13件の死刑判決が出ている。裁判員には死刑の存在を前提に苦しい決断を求め、その一方で司法行政のトップが職責を全うしないのでは責任逃れというより詐害行為に等しい。法相が変わるごとに気体と不安が交錯し、死刑囚の精神的動揺も倍加する。当然、凶悪犯罪の被害者の苛立ちも募る。

皮肉な結果を生む

前述したように、個人としては死刑廃止に近い立場をとる。死刑を「残虐」とする廃止派にも、「死刑囚が犯した犯罪はもっと残酷」という容認派にも理があり、それについてとやかく言うつもりはない。死刑が確定すれば、そのまま執行の恐怖にとらわれる。「近い」と言うのは、極刑であるにもかかわらず不安定で中途半端な運用しかできない現状を前に、いっそ廃止して終身刑を設け、懲役・禁固と同様、労働賦役を課す方が理にかなっているという消極的理由による。その方がわずかでも社会・被害者に還元できるし、本人の更生・贖罪が進む可能性も出てくる。

繰り返し言えば、法相によって運用が大きく異なる現状、とりわけ廃止派、慎重派の法相が死刑執行命令書への署名を拒否する姿は一見、死刑廃止につながるような期待を抱かせるが、その実、法の執行に対する不信・不満を助長し、死刑問題に対する死刑冷静な議論な議論を妨げ、死刑廃止の道を閉ざす皮肉な結果になっている。政治の混迷の一因として、「政治家の覚悟の欠如」がしばしば指摘される。死刑問題の現状を見るにつけ、改めてその思いを強くする。(了)
ペルー初訪問 [2011年06月23日(Thu)]
霧に煙る“砂漠の街”リマ
交通混乱は高度成長の象徴か


6月中旬、ペルーを訪れた。南米訪問は初めて。ペルー観光を代表するマチュピチュやクスコ、ティティカカ湖を訪れたわけでもなく、ほんの数日間、首都リマに滞在したに過ぎない。それでも驚きの連続だった。冬の到来を前に霧に覆われた街は予想以上に寒く、身がすくむほどに強引な車の流れは高度成長期を迎えた途上国特有の活気のようにも思えた。

土埃と寒さ

ガイドブックなどによるとペルーは128万平方q、世界20位、日本の3倍を超す国土を持つ。南北に長い地形のこの国は、太平洋岸に面するコスタ、アンデス山脈が連なるシエラ、アマゾン川流域のセルバの3地域に大別される。リマがあるコスタは海岸線から30〜50キロの地域の砂漠地帯。5月に「インカの涙」と呼ばれるわずかな雨が降るが、年間を通じ降雨はほとんどない。夏期(11〜4月)は晴天が続くが、冬(7〜8月)はルーアと呼ばれる霧が空を覆い曇天が続く。


リマ旧市街の街並み


訪問に当たりWebで調べると、6月の気温は16〜23度。夏服で出かけたが、深夜、到着した空港は肌寒く、出迎えてくれた日系人協会関係者はオーバーコートにマフラー姿だった。霧が重く立ち込め、5日間の滞在中、2日目に一瞬、薄日が差した以外、太陽を見ることはなかった。樹木の葉っぱにも土埃が積もり、海岸線沿いの新市街ミラフローレス地区などを除けば、街全体が暗く温度以上に寒々としたイメージ。碧い空を背景にしたマチュピチなど観光ポスターを見慣れたせいか、最後まで違和感が付きまとった。

街の郊外には丘とも見える奇妙な岩山がいくつか点在する。遠目には黒みがかった砂山のようにも見え草木はない。中腹に赤い屋根の小屋がびっしりと並ぶ岩山もあり、案内してくれた日系人ルイス嵩原さんは「全部、不法占拠。砂っぽく見えても実際は岩盤で崩れ落ちる心配もなく、増える一方だ」という。

樹木のない“ハゲ山”は中国、韓国やモンゴルでもみた。かつてレバノン杉が群生していた中東にも同じような光景があった。青銅器や鉄器の生産のため樹木を大量に伐採したり、農耕地用に開墾した結果、表土が風で奪われ砂漠化したのが原因だった。リマの岩山にも遠い昔には樹木があったのではないかー。そんな思いが強く、何度か同じ質問をしたが、誰もが「この地域は昔から雨がふらない。だから山には木も何もない」と語った。

驚きの交通事情

道路の混雑と強引な運転にも驚いた。かつて見たインドのデリーやコルカタ、バンコク、プノンペン、ビエンチャンなどの交通事情もすごかった。道路の混雑度だけなら北京や上海、ソウルの方が上を行くかもしれない。インドのようにクラクションを鳴らしっぱなしというわけでもないが、リマの場合は前へ前へと突進する強引さにおいてほかの都市を上回る。例えば交差点。前がつかえていれば通常は青信号であっても交差点に入るのは見合わせる。しかし、この街では構わず交差点に突進する。結果、信号が変わると、青信号の車を妨害する形になり、交差点内は身動きとれぬ混乱に落ち込む。

通訳をしてくれた青年は理知的で滅多に興奮することもないタイプと見受けたが、いざ運転となるとまるで別人。激しいハンドルさばきで、わずかな隙間にも強引に突入し、後部座席にいた自分も何度かシートにへばりついた。帰途、ロサンゼルスに立ち寄り、車線に沿って整然と流れる車列を見てホッとする気さえした。考えてみると、日本でも東京オリンピックを前にした成長期、強引な運転をするタクシーを外国人が“神風タクシー”と評した時代があった。一見、無秩序に見える途上国の道路事情も冷静に見ればインフラ整備が車の激増に追いついていないのが原因だが、停滞から発展期に移行する時代の熱気のような気がする。
          ×       ×       ×

政治家の潔さ

今回の出張はリマにある日系人移民100周年記念病院の増築工事が日本財団の支援で完了し、この竣工式を取材するのが目的。混迷する政局報道は6月12日に出発する際、菅首相が6月末にも退陣するのではないかとの憶測が専らだった。しかし10日後に帰国してみれば政治は相変わらずの空白状態。国会会期の70日間延長も決まり、首相の退陣は早くて8月というムードに包まれている。

政治が停滞し東日本大震災の復興が遅れる中、これでは外国から絶賛された被災者の忍耐も切れる。大震災という危機を新しい国づくりのスタートとするチャンスも遠のく。

竣工式にはペルーのガルシア大統領が飛び入りで出席し、先の大戦でペルー政府が行った日系人の強制収容に対し大統領として初めて公式に謝罪、「許してほしい」と頭を下げた。7月の退陣を前に、5年後の大統領選をにらんだパフォーマンスとの評価もあるが、今も国内に様々な議論がある問題に対する思い切った決断には潔さも感じられた。

菅首相の態度が単なる居座りなのか、日本の再生に向けてなお秘策があるのか、知らない。しかし、この3ヵ月、何ら有効な手を打てずに終わり、野党どころか与党からも退陣を求める声が溢れる現状を踏まえれば、今首相としてなすべきは、東日本大震災という国難に立ち向かうための超党派の復興内閣を立ち上げ潔く退陣することに尽きる。本人は歴史の名を残すことを意識していると報道されている。ならば、このまま居座りを続ければ歴史には“汚名”しか残らないことを知るべきだ。(了)
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