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四季折々の雑記

 30年以上在籍したメディアでは「公」の動きを、その後10年以上は「民」の活動を中心に世の中を見てきた。先行き不透明な縮小社会に中にも、時に「民の活力」という、かすかな光明が見えてきた気もする。そんな思いを記したく思います。


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運用に幅を持たせるのは無理なのか! [2018年08月03日(Fri)]

自立意識阻害する生活保護費基礎控除
低迷する就労継続支援B型事業の工賃


20万人を超す全国の障害者が利用する「就労継続支援B型事業」。このほどまとまった事業者アンケートでは、月額1万5千円前後で低迷する「工賃」と生活保護費の基礎控除との相関が鮮明になった。工賃が基礎控除の下限である約1万5千円を超えると、その分、生活保護費が減額される仕組みになっており、これが自立意識の高揚を阻害する結果になっている。

打開策として厚生労働省は今年4月の報酬改定で、平均工賃がアップすればB型事業所を運営する事業者に対する基本報酬を上積みする方式(目標工賃達成加算)を導入した。平均工賃の引き上げを実現すれば事業者報酬を上乗せし事業所経営者の意欲を刺激するのが狙いとみられる。

筆者は以前、本ブログで平均1万5千円の工賃の低さを「理解に苦しむ」と書いた。今回は報酬改定に疑問を提示したい。第一に何よりも変えるべきは、事業者よりもB型事業所を利用する障害者の意識だと思う。そのためにも基礎控除額の運用に幅を持たせられないか、ということだ。

B型事業所の利用者の多くは障害年金と生活保護費の給付を受け、生活を成り立たせている。生活保護費は地域や家族構成などで決まるが、例えば大都市部の単身者の場合は約13万円。基礎控除を上回る額が生活保護費から減額される現在の方式では、工賃が1万5000円でも、頑張って3万5000円にしても、本人が手にできるのは、ともに14万5000円となる。

これでは就労意欲が高まりにくい。事業者の報酬加算と同様、B型事業所を利用する障害者に関しても、例えば基礎控除額を上回る工賃の半分を本人に還元するような工夫が必要ではないかと思う。自立意識が高まり大幅な工賃アップにつながれば、その先には生活保護費抑制の可能性も出てくる。

今回、3000を超す全国のB型事業所から回答が寄せられたアンケート結果でも、平均工賃は月1万〜1万5000円、平均就労時間は週20〜25時間が最も多く、工賃が基礎控除額前後にとどまるよう就労時間が調整されている現実がうかがえる。

次に、かねて感じていた疑問だが、現在、B型事業所は全国1万800ヶ所にあり、22万7000人が利用している。対象は、一般就労が難しい重度の障害者とされるが、障害の種別は「身体」、「知的」、「精神」、「難病」など多彩で、就労に向けた訓練の場と位置付ける人から、安心して日中を過ごせる「居場所」、「安らぎの場」として利用する人まで幅がある。

障害の程度、利用目的にこれだけ幅がある人たちを「就労支援B型事業所」の名で一つに束ねていくのは無理なような気がする。アンケートには「就労訓練と居場所を別の事業として行うべきだ」、「障害が重い人を受け入れている事業所は生活介護事業に変更すべきだ」といった“苛立ち”も寄せられている。

障害の程度によって「就労支援」と「生活介護」事業に分けるのが現実的だと思う。その上で就労支援に関しては、企業から仕事を受注する際、多くが下請け、孫請けからの受注となっている現状を見直し、工賃単価の高い事業を開拓する必要がある。現在の平均工賃「1時間当たり169円」はやはり低すぎると思う。

「1億総活躍」が叫ばれる中、B型事業所で働く人たちの“待遇”を改善することが、障害の程度がもっと軽いA型事業所や就労継続支援事業で働く障害者の賃金アップ、ひいては社会参加の拡大につながる。
グローバルな活動強化で存在感を! [2018年07月13日(Fri)]

世界的にも異色な民間奨学金Sylff
中国教育部の参加で新たな活路


Sylffと呼ばれる奨学金がある。1987年、米タフツ大学に初めて設置されて以来、世界44ヵ国69大学に設置され、この奨学金で卒業したフェローは世界で1万6000人に上る。フルブライトなど政府系の奨学金と違い、純然たる民間奨学金で、その規模からも、もっと知られていい存在と思うが知名度は意外なほど低い。

グローバルなネットワークを活用して社会貢献活動を強化すべきである。特にフェローの半数を占める中国では、新たに教育部と教育国際交流協会がプログラムに参加することで、従来、認められなかった全国的な組織活動に道が拓ける見通しとなった。活動を強化することで存在感は増し、回復基調にあるに日中関係改善にも貢献できる。

Sylffは日本財団が各大学に100万米ドルの基金を設置、姉妹財団の東京財団政策研究所が運営し、利子を活用して社会科学系の大学院生に奨学金を支給する。正式名称は「Ryoichi Sasakawa Young Ieaders Fellowship Fund」。中国では1992年と1994年に北京大など各5校、計10大学に設置され、「笹川良一優秀青年奨学金」と呼ばれる。

当時、中国は天安門事件(1989年)に対する西側諸国の経済制裁などで経済が低迷、「経済改革と対外開放」に舵を切ったものの状況は厳しく、1大学が100万米ドルもの基金を受け取った経験もなかった。個人名を付した奨学金や「リーダー」の言葉にも馴染がなく、最終的に楊尚昆国家主席=当時=の決断で奨学金が立ち上がった。「友達が困っているときに手を差し延べるのが真の友人」、「中国の発展を支える人材を育てたい」とする笹川良一日本財団元会長に対する信頼が決め手になったとされる。

欧米系の大学ではフェロー相互の連携も進み、設立30周年を迎えた昨年にはフェローの国際的ネットワーク「Sylff Association」も立ち上がっている。しかし中国では全国的な民間組織の立ち上げが規制されており、フェローの活動が活気を欠くきらいがあった。

こうした中、先行した5大学で1年遅れの設立25周年式典が行われた今月、新たに教育部がプログラムに参加することになった。政府の監視下に入ることで新たな活動を道を拓いたと言えなくもないが、学術界から産業界まで第一線で活動するフェローに広く参加を求めることで、大学院を卒業すればそれで終わりといった従来の姿から大きく脱皮する可能性を秘める。既に各種サポートプログラムも用意されている。

設置後4半世紀以上を経て、さすがに奨学金額は相対的に小さくなっているが、中国5大学の式典では「笹川奨学金は時宜を得た支援で突出した功績を挙げた」、「笹川奨学生であった事実は他の奨学金にはない特別の重みを持つ」といった高い評価が聞かれ、「習近平国家主席が言う人類運命共同体と笹川良一氏の“人類みな兄弟”は通じるところがある」との声も聞かれた。

中国関係ではこのほか、中国衛生部と日本医学協会などが行う「日中笹川医学奨学金」で日本の医療を学んだ中国人医学生ら約2300人の同窓会組織「同学会」が中国医学界の中枢に位置しているほか、各大学への370万冊に上る日本語図書の寄贈など幅広い事業を日本財団が主導、今年4月には尖閣諸島(中国名・釣魚島)の国有化に伴い中止されていた中国人民解放軍と自衛隊の佐官級交流も再開された。

北京大の式典では新華社や人民日報、雑誌・人民中国、中国青年報などが笹川陽平現会長をインタビューし、大きく報じた。改善しつつある日中関係が反映しているのは間違いないが、「日中間に井戸を掘った」との高い評価を聞くにつけ、外国、特に中国と日本の「ササカワ評」に大きな差があるのを改めて実感する。

筆者はメディア卒業後、日本財団の仕事を手伝っており“内輪の希望”と言われるかも知れないが、日本財団の多彩な公益活動や創業者でSylffの創設者でもある良一元会長国の足跡と貢献は、もう少し客観的に見直すされるべき時期に来ているのではないかと思う。

ジビエ活用で災いを福となす [2017年09月26日(Tue)]

鳥獣による農作物被害で
「食のみやこ」目指す鳥取県



人口最少の鳥取県が「とっとりジビエ」の全国ブランド化を目指している。シカやイノシシなどによる農作物の被害が全国的に拡大する中、侵入防止柵の設置など守りの姿勢から一転して、捕獲した野生鳥獣の肉(ジビエ)を地域資源として活用するのが狙い。人口減少時代を迎え、中山間地を中心にした地域社会の崩壊・消滅が懸念される中、近年、大きな社会問題となっている「所有者不明の土地の増加」を見るまでもなく、事態打開には発想の転換こそ欠かせない。その意味でも「とっとりジビエ」の今後に注目したい。

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鳥取県では昨年、7千頭を超すシカが捕獲された=鳥取県提供=


昨年3月、環境庁が発表した資料によると、2013年度末現在、北海道を除く本州以南に生息するイノシシは推定98万頭、シカは305万頭、農作物の被害額は約200億円。イノシシは2年前に比べほぼ横ばいだが、シカは1989年の調査開始以来、約30年で10倍に増えた。現在の捕獲率で行くと23年度のシカの生息数は453万頭まで増え、目標の半分に抑えるには捕獲数を現在の2倍以上にする必要があると報告されている。

当の鳥取県の昨年の捕獲数はイノシシが1万1970頭、シカが7274頭。前年に比べ20〜45%増え、被害も55%増の8990万円に上っている。解体処理によるジビエなどの利用率は15%。北海道の17%に次いで高く、一昨年2月には「地方創生への道 迷惑ものが資源に変わる」をテーマに第一回日本ジビエサミットも鳥取市で開かれた。

鳥取市やその周辺を中心にした同県東部には昔からジビエを食材に使う伝統があり、“ジビエ活用の先進の地”でもある。鳥取市や隣の八頭町、若桜町などでジビエを提供する24店舗や食肉処理の営業許可を持つ7施設が中心となって5年前に「いなばのジビエ推進協議会」を設立、「森の厄介者を地域のお宝に!」、「鳥取の森の贅沢」などの宣伝文句でジビエの消費拡大に取り組んでいる。

県内には公設、民間合わせ計12ヶ所(全国では172ヵ所)の解体処理施設があり、利用率もこの5年間で2・5倍に増えた。中でも八頭、若桜両町のシカやイノシシを引き受ける「わかさ29(にく)工房」は高い解体処理技術で全国に知られ、たまたま訪問した9月初旬、30分ほどの間にシカ2頭が相次いで軽トラックで持ち込まれ、ワイヤーでつり下げバーナーで表面の毛を焼いた後、瞬く間に解体処理され、河戸健代表は「県外からの見学者も多いが、一様に技術の高さに驚いて帰られます」と語った。

同県は、かつて「スタバはないがスナバ(砂場)はある」の“名言”で県の知名度をアップさせた平井伸治知事を先頭に「食のみやこ鳥取県」を目指しており、ジビエを使った和食料理の普及や地域おこしに向けた日本財団との共同プロジェクトのひとつとして小中学校の給食に実験的にジビエを取り入れるなど全県的な普及を目指している。

とっとりジビエは処理技術とともに「肉質が良い」と首都圏のイタリアンレストランなどにも好評。ただしシカを例にとると、ジビエとしての利用は血抜きをした後、2時間程度が限界。それ以上はペットフード用に回すか埋設や焼却処分されている。捕獲した以上、やはり有効利用されるべきで、今後、処理加工施設や保冷車を備えた移動式処理車などの整備が課題となる。

ジビエを活用する動きは高知市や富山市、長野県下諏訪町、兵庫県佐用町、山梨県早川町など全国各地に広まっており、鳥獣被害防止特別措置法により各自治体の被害防止計画を支援している農水省も鳥獣利活用推進支援事業を立ち上げ、今年1月には東京都内で第1回のジビエ料理コンテストを開催した。

フランスやイタリアなどジビエ料理の本場では、運動量が豊富で自然の恵みを餌として育ったジビエが牛や羊など飼育された動物以上の高級食材、貴族の伝統料理として定着しているという。わが国でもジビエを提供する店は首都圏だけで既に800店を超え、今後も確実に増える勢いにある。

少子高齢化が進む縮小社会の新しい未来を開くには、マイナス要因をプラスに転化する工夫こそ必要。前述した土地問題にしても何の手も打たなければ所有者不明の土地はさらに増え国土は荒廃する。しかし、公益的な活用に道を拓く受け皿づくり、法整備が進めれば、新たな地域おこしの資源として活用できる可能性も増える。

ジビエのさらなる可能性を切り拓くためには若手ハンターの育成や捕獲・処理、加工・調理、販売まで衛生管理面の強化、販路の整備・拡大まで幅広い取り組みが必要になるが、鳥取県の試みが少しでも全国に広がるよう期待する。

ハンセン病制圧 いまだ“道半ば” [2017年03月15日(Wed)]

新規患者、なお年間20万人
特筆されるべき治療薬の無料配布


いささか時間が経ったが、今年も1月末の世界ハンセン病の日に、ハンセン病の制圧と偏見・差別の撤廃を訴えるグローバルアピールがインド・ニューデリーで発表された。ハンセン病は1981年に開発されたMDT(多剤併用療法)により「治る病気」となり、患者も順調に減少、天然痘と同様、人類が撲滅に成功するのは時間の問題とも見られたが、ここにきてやや足踏み状態にある。

世界の新規患者は年間約20万人。2000年を目途とした「人口1万人当たり患者1人未満」の国レベルでの制圧目標も、ブラジルがなお未達成の状態にあり、ハンセン病と戦う関係者に失礼を承知であえて言えば、ハンセン病の制圧は“なお道半ば”である。

MDTは3つの薬(リファンピシン、ダプソン、クロファジミン)を成人、子供などタイプに応じて半年から1年間、服用することで症状は治癒する。高校時代に見た米映画「ベン・ハ―」には、ハンセン病を患い洞窟で隔離生活をしていた主人公の母と妹が、十字架を背負いゴルゴダの刑場に向かうイエス・キリストに縋ると皮膚に残った障害が消えるシーンがあった。ハンセン病の患者にとってMDTこそ“神の手”である。

これを受け1991年には、WHO(世界保健機関)の全加盟国が出席した世界保健総会で制圧目標が打ち出され、「公衆衛生上の問題としてのハンセン病の制圧」を2000年末までに達成すると定めた。1994年には、ベトナム・ハノイで開催された初のハンセン病制圧国際会議で日本財団がMDTの購入費として1995年から5年間、毎年1000万ドルをWHOに拠出する方針を表明、世界でMDTの無料提供態勢が整備された。

2000年以降もノバルティス財団(スイス・バーゼル)がこれを継承し、これまでに世界で1600万人の患者が治癒、1985年当時、制圧目標を上回った122カ国中121ヶ国が2013年までに目標を達成した。

有史以来、ハンセン病が「天刑」、「業病」などと恐れられてきたは理由のひとつが、進行すると皮膚などに深刻な障害を残す点にある。回復した1600万人のうち400万人は何ら身体障害を残すことなく治癒しており、世界のどこでも無料で入手できる態勢を築き上げた日本財団などの貢献は、人類の病との闘いの中で特筆されていい。

しかし視野に入るかに見えたハンセン病の制圧も、ここにきて一つの壁に突き当たっている。制圧目標を未達成の最後の1カ国となったブラジルは、いまだ達成の目途はなく、国レベルで制圧目標を達成した国も、目が届きにくい山岳地域や離島など未開発地域、都市のスラムなどで依然、新たな患者の発生がみられ、インド、ブラジル、インドネシアを中心に毎年20万人前後の新しい患者の発生がWHOに報告されている。

こうした中、2013年、新規登録患者が年間1000人を超える世界17カ国の保健大臣らがタイ・バンコクに集まりハンセン病サミットを開催、新たな目標として「2020年までに“目に見える障害を伴う新規患者”を100万人に1人以下にする」とのバンコク宣言を発表した。

数字の遊びになるが、現在、世界の人口約73億人。1万人に1人に換算すると73万人となり、それだけの患者がいても数の上では制圧目標は達成できる計算になる。100万人に1人となると7300人。「目に見える障害を持つ患者」とは、外見からも障害が進行している状態がはっきりしている患者を指すようだが、毎年20万人の新規患者が見つかっている現状からも、残された後3年で達成するのは至難の業のように思う。

もっとも半年から1年間、治療すれば治癒するMDTの特質から、未把握の患者や新たな患者が順調に見つかり、迅速にMDT治療を開始すれば、達成の道も開けてくる。要は調査が行き届いていない地域で、各国が患者をいかに早期発見していくかがポイントとなる。

この点についてWHOのハンセン病制圧大使として世界を駈け回る笹川陽平・日本財団会長は自らのブログで「1万人に1人未満という制圧目標に向け患者を減らすという至上命令がトラウマとなり、新規患者の発見数が増えることを必ずしも歓迎しない、といったことが起こってきたのではないか」と指摘している。

隠れた患者がどんどん見つかれば数字上は一時的に達成目標をオーバーする事態も起きかねない。そうした事態を恐れるということであろう。1万人に1人未満を達成したことで「あとは自然に減る」といった安心感、「ハンセン病より深刻な疾病がいくつもある」といった事情もあろう。

ハンセン病は治療が遅れると皮膚などに障害を発し、差別を生む。患者は差別を恐れるあまり治療が遅れ、さらに進行した症状が新たな差別を生んできた。ハンセン病との闘いは病気の制圧と患者・回復者、家族に対する偏見・差別の撤廃の両面から進められ、ともに目を見張るほどの成果が出ているが、その意味では、患者の発生がゼロにならない限り、この悪循環は断ち切れない。(了)
ミャンマー・カレン州の首相に聞く [2017年02月13日(Mon)]
半世紀超す内戦で豊富な自然残った
民主化の果実、拙速より長い目線で


先月末、ミャンマーのカレン州を訪れ、ドー・ナン・キン州首相(62)に話を聞く機会があった。キン首相は昨春、政権を獲得したNLD(国民民主連盟)の活動家として軍政時代の1997年から2年間、刑務所生活も体験し、アウン・サン・スー・チー国家最高顧問兼外相とも並ぶNLDの重鎮として党の中央委員も務める。

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カレン州の将来を語るドー・ナン・キン州首相


キン首相は州の開発について「カレン州には薬草など自然資源も鉱物資源も豊富にある」とする一方、「早急にやらなければならないことがいっぱいあるが、国民の反対が強く思うように進まない」、「当面、石炭を使った火力発電所の建設を目指したい」などと語った。

カレン州はミャンマー南東部、タイ国境に位置し、1947年の独立後、2012年まで「世界でも最も長い内戦」が続いた。その結果、開発が遅れたが、豊富な自然や資源が残された。開発に向けた州トップとしての決意は理解するが、民意を尊重すればその分、手続きに時間とコストが伴う。拙速を避け、残された自然を生かす長い目線の開発こそ、州の将来に相応しい気がする。

カレン州は人口約160万人。ヤンゴンから車で約6時間の距離にあり大半が中山間地。80%が稲作やトウモロコシ、ゴムなど農業で生計を立てる。英国は植民地時代、カレン族など少数民族を多く重用して人口の7割近くを占めるビルマ族を統治したといわれ、そうした歴史が中央政府軍とカレン民族同盟(KNU)の戦いを長引かせた。

タイの難民収容所に10万人を超す住民が避難しているほか国内難民も多く、彼らが故郷に戻れるような産業基盤、インフラの整備が新政権、州政府の課題となっている。州の大半を占める中山間地には豊富な薬草がそのまま残され、州都パアン郊外では、日本財団が2012年から州政府が用意した40エーカー(約16ヘクタール)に上る広大な用地に薬草園を整備し薬草プロジェクトを進めている。

「薬草の宝庫」に相応しく既に150種に上る薬草・薬木が集められ、近く東京農業大学も保存技術の指導などに乗り出す予定。海外の製薬メーカーも注目し、指導に当たる日本財団の間遠登志郎氏のもとには沖縄の保健食品開発協同組合から、地元で古くから伝統医療に使われてきたウコンに関する問い合わせも寄せられている。

薬草園で開発した保存・加工技術を周辺農家に移転、薬草園が収穫物を買い取って内外のメーカーに出荷し、農家の自立を促すモデル事業とするのが目標で、実現すれば、かなりの数の農家の参加が可能になる。キン首相も「地元の人は石油など鉱物資源ばかりに目が行く。薬草が金になることを日本財団は教えてくれた意味は大きい」とプロジェクトの将来に大きな期待を寄せている。

同時にカレン州にはゼガビン山など観光資源も多く、キン首相は観光産業の育成にも力を入れたいという。そのためには道路や空港、ホテルなどインフラ整備が欠かせない。限られた時間で子細は確認できなかったが、北隣のカヤー州、南に隣接するモン州では、火力や水力発電所の建設計画が、「火力は大気を汚染する」、「洪水が起きたら大被害が出る」といった住民の反対で宙に浮いており、カレン州の火力発電所もこれに関連して構想されているようだ。

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朝もやに霞むゼガビン山


ミャンマーの電力不足は深刻で、その必要性は誰もが認める。ただし発電所建設のようなプロジェクトにはODA(政府開発援助)など大きな資金が必要となる。それ以上に地球温暖化が世界の深刻な課題となる中、CO2(二酸化炭素)発生量の多い石炭火力の発電所建設には疑問も残る。そうした点を研究する専門家の育成も遅れているようだ。

テイン・セイン前大統領による2011年の民主化、2015年総選挙でのNLDの大勝を通じてミャンマー経済は大きく発展し、最大都市ヤンゴンなど都市部と少数民族が多く住む周辺の中山間地の格差は一段と拡大している。

国民には「民主政権ができたのだから生活はよくなるはずだ」といった根強い信仰があるようだが、半世紀以上続いた内戦で少数民族が多く住む周辺地域の開発の遅れは教育、医療なども含め尋常ではない。ミャンマーの新しい国づくりは、ある意味で緒に就いたばかり。今後、外国資本の進出も加速しそうだが、方向を決めるのはあくまで国民である。長期の内戦という不幸の産物とはいえ、豊富に残った薬草など自然資源を精いっぱい活用する、長い目線こそ「民主化の果実」につながると思う。(了)
熊本城の石垣の痛み、白河小峰城の10倍超 [2016年07月25日(Mon)]

7割は国庫負担、新たな城作りより難作業
技術保存も視野に腰据えた修復工事を


 熊本のシンボル、県民の精神的支柱である熊本城の地震被害は、城の象徴である石垣に限っても表面積の3割に広がり、東日本大震災(2011年)で同様に石垣が崩落した白河小峰城(福島県白河市)の10倍を超す。ともに国の特別史跡に指定されており、修復作業は石を当時の手法で一つ一つ元の場所に積み直し、破損した石は新しい石材を調達して元の形に加工する必要があり、新たな石垣を作るより難しい。

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いたるところで石垣が崩落した熊本城

小峰城の場合は修復作業終了までに6年の期間が必要とされ、熊本城はこのほか櫓など建造物の痛みも激しく、詳しい内部の調査はまだ手つかずの状態。工事が始まれば急ピッチで修復が進むと期待するが、全国的な城ブームの中で匠やその技をどう保存・伝承していくかといった別の課題もある。腰を据えた修復作業こそ必要と考える。

熊本城の石垣の総表面積は7万9000平方メートル。計53ヵ所で崩落が発生し、うち約1割は完全に崩落、約2割は部分的な崩落や石と石の間の空き、膨らみが生じ、積み直しが必要な表面積は全体で2万3600平方メートルに上る。文化庁の試算による石垣の修復費用は1平方メートル当たり150万円、全体で354億円。災害復旧事業の上乗せで7割は国庫負担となる。

4月時点の現地調査を基にしており、その後の余震や激しい雨でさらに被害が拡大している可能性があるほか、国指定の重要文化財となっている13の櫓や門のうち慶長12年(1607年)に完成した東十八間櫓など5つの重要文化財が全壊、天守など昭和以降に再建・復元された20の建造物を含め、すべての建物に大きな被害が出ており、崩落した瓦の確保も大きな課題となる。

7月中旬、城の再建を支援する日本財団のメンバーと共に、熊本城総合事務所の河田日出男所長らに城内を案内していただいた。宇土櫓(重要文化財)前の通路や天守の入り口は崩れた石垣の巨石で埋まり、かろうじて倒壊を免れた建造物も壁の剥落など痛みがひどい。石垣が大きく崩れ、わずかに「隅石」と呼ばれる角の石に支えられ倒壊を免れている「飯田丸五階櫓」の前では、倒壊を防ぐためのアーム状の鉄骨の組み立て作業が行われていた。

修復作業は「各建造物内部の破損状況を調べ、危険な石垣の上にある建造物を移動、石垣を積み直した後、元の位置に戻す。その上で残された部材を最大限に活用して建造物を元の状態に復元させる」(河田所長)というのが大筋の手順。肝心の石垣に関しては、小峰城の修復作業の進捗状況にも注目している。

当の小峰城は東日本大震災で全長約2キロの石垣の10ヵ所、表面積で1600平方メートルが崩落、膨らみなどが出た4ヵ所も含め修復工事が進められている。修復対象は全体で2000平方メートル前後、熊本城の10分の1以下と見られるが、それでも2013年に始まった修復工事が終わるのは2018年の見通しだ。

地元の建設会社と共同企業体を組み工事に当たる鹿島建設がWebに掲載している「小峰城跡石垣復旧工事」によると、工事ではまず崩落した石をクレーンで移動して一つ一つ番号を振って写真撮影、破損した石は新しい石材を確保して元の形に加工し、崩落前の写真などと照合しながら施工図を作成。これを基に石を仮積みした後、大きな石のすき間に「飼石」を入れて固定し、裏側に水はけをよくするための「裏込石」を敷き詰め、さらに裏込石と壁面の間を盛土で突き固めるのだという。

専門的なことは分からないが、大変な作業で、大型重機など近代機器を活用するとしても、最後は専門技術、知識を持った石工の技が欠かせない。このあたりについて河田所長は「破損した石の代わりは地元で調達できるが、石を加工し積み直す専門的な職人さんを確保するのは容易ではない。全体の修復が終わるのは10年、20年、あるいはそれ以上先になるかもしれない」と語っている。

熊本市は文化庁とも協議の上、この夏にも、修復に向けた大筋のロードマップをまとめる考えという。まずは、その内容に注目したい。(了)
”薄幸”の女性と川端康成 [2015年02月26日(Thu)]
笹川良一との少年時代
ハンセン病がつなぐ不思議な運命

 東京都内で1月末に開催された講演会「文芸で見るハンセン病」を傍聴して気になっていたことがある。「川端康成に支えられた作家」のサブタイトルが付された講演会は、自身のハンセン病体験を基に「いのちの初夜」を書いた北條民雄とノーベル文学賞作家川端康成の関係がメーンテーマとなった。

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1月30日に開催された「文芸で見るハンセン病」パンフ

北條は「いのちの初夜」が雑誌「文学界」に発表された翌年(1937年)、24歳で夭逝するが、川端は文学界への発表だけでなく、北條の死後も全集の出版に奔走し、ノンフィクション「火花」で北條の生涯を描いた作家高山文彦氏は、川端の姿を「異常なまでの尽力」と表現した。

話はやや外れるが、川端康成と日本船舶振興会(現・日本財団)初代会長の笹川良一は大阪府三島郡豊川村(現在は箕面市と茨木市に分村合併)の尋常高等小学校の同級生だった。工藤美代子氏の「悪名の棺 笹川良一伝」(幻冬舎)などによると、川端は1899年、大阪府大阪市北区此花町に生まれた。2歳の時に開業医だった父・栄吉、3歳の時に母・ゲンが亡くなり、祖父・三八郎と祖母・カネとともに原籍地の大阪府三島郡豊川村に移り1906年、豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した。

 笹川家は豊川村の西に位置する小野原、川端家は東の宿久庄にあり、「両家の距離は約1里で、ほぼ中間に小学校があるという位置関係」(「悪名の棺」)だったが、良一の父・鶴吉と三八郎が碁敵として親交があり、笹川良一と川端康成も頻繁に行き来し、川端が旧制茨木中学校(現大阪府立茨木高校)を卒業するまで親しい関係が続いたようだ。

 ここで登場するのが笹川良一とハンセン病との出会い。3男の笹川陽平・日本財団会長は著書で以下のように記している。
「父は、生家の近くに住む、ある美しい娘さんに思いを寄せていた。父の初恋だったようだ。その娘さんがある日とつぜん、失踪してしまった。噂によれば、『ハンセン病にかかった』というのが失踪の理由であった」、「このことに、若き日の父は大きな衝撃と同時に、怒りを覚えたようだ。・・こうして、青年だった父の胸に『いつか、きっとハンセン病をやっつけてやる』という決心が生まれた」(幻冬舎「残心」)。

「父の子供時代、家の近くにライの患者がいる家がありました。その家には美しい娘さんがいましたが、好きな人と結婚できず、悲嘆にくれて行方不明になりました。それを見て父は、『大きくなったらライをやっつけなくてはならない』と決心したのです」(「知恵ある者は知恵で躓く」クレスト社)。

 「父の子供時代」というのが何歳の時で、当時「美しい娘さん」がどの程度の歳か、同じ話が記載されている他の著作を見てもはっきりしないが、「好きな人と結婚できず」の記述からも10歳ぐらいは歳上で、笹川良一が抱いていたのは「初恋」というより、美しい年上の女性に対する「憧れ」に近い想いだったのではないか。

 一方「美しい娘さん」と川端康成の関係は一切触れられていない。しかし川端康成と笹川良一との交遊や狭い地域社会を考えれば、川端もこの女性の存在を知っていたと考えるのが自然だ。川端康成は両親に続いて小学校時代に祖母、姉を亡くし、15歳の時には祖父三八郎も亡くなり“孤児”となった。

「ひよわで感受性の強い子どもだった」(佐藤誠三郎著「笹川良一研究」・中央公論社)川端康成が孤独な日々の中で美しい娘さんの“薄幸”に傷つき、その後も永く“悲しい思い出”として記憶の中に持ち続けたのではないか。

 川端康成は北條民雄の他にも多くの若手作家を育てており、一連の「尽力」はもちろん北條の才能にほれ込んだのが一番のきっかけであろう。しかし高山氏が言うように異常なまでの支援の裏には、そんな関係もあったような気がしてならない。

 となると「美しい娘さん」は、一方で笹川良一を世界のハンセン病の制圧に走らせ、他方で川端康成を通じハンセン病作家・北條民雄を大成させたことになり、3者の関係に不思議な運命さえ感じる。

 笹川良一と川端康成は高等小学校卒業後、別々の道を歩み離れ離なれとなるが、戦後、交流を復活、「残心」には「(二人の間で)ハンセン病に関することや、・・ひょっとしたら、なつかしい故郷の話とともに、とつぜん行方不明となった父の初恋の女性のことも話題になったであろう」と記されている。

 「美しい娘さん」に対する川端康成の思いはあくまで筆者の想像である。しかし十分にあり得た話と考えている。(了)
安土城址に想う [2012年08月05日(Sun)]
支度が行き過ぎていた?
家康饗応を巡る謎


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天主に続く大手道

7月末、10数年振りに安土城址を訪れた。炎天下の中、急な石段を天主跡に向かうと周りは激しいせみ時雨。大手門周辺が整備され、入場料が必要となった他はさほどの変化はなく、大手南面には以前と同様、緑豊かな水田風景が広がっていた。そんな中、近くの文芸の里・信長の館に足を運ぶと、天正10年(1582)、安土城で信長が徳川家康をもてなした際の「安土御献立」を福元したレプリカが展示され、「『将軍の御成りのようで支度が行き過ぎている』と信長が怒り、饗応(接待)役の明智光秀を小姓衆に打たせ、饗応役を解任した」「一般には、この時の仕打ちが原因で『本能寺の変』は引き起こされたとされている」といった説明が付されていた。

饗応 復元レプリカ

日本史の謎とされる本能寺の変は何が原因で起きたのか、家康饗応に端緒を求める指摘は、様々な説の一つとして常に登場する。ほんの数点の小説を読んだ知識しかないが、多くは「食材の魚が腐っていた」、あるいは「光秀が用意した京料理の薄味が塩辛い味付けを好む信長に合わなかった」など食材の選択や調理方法に原因を求めており、「料理が立派過ぎた」との説が一般的と言えるほど有力説とは知らなかった。

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石段に使われた石仏と賽銭

この時の饗応をめぐっては、信長が家康の毒殺を命じたのに光秀がこれを拒否したため信長の怒りをかった、などの説もあるようだが、残念がら真偽は分からないい。それでも“過剰接待”が原因とする今回の指摘は、「料理が腐っていた」といった通説に比べ説得性があるような気がする。

最大級の心配り

光秀は諸学に通じた当代一流の知識人であり慎重な性格だったといわれる。最大限の心配りで饗応役を務めたと思われ、食材の選択や料理方法に手落ちがあったとは考えにくいからだ。むしろ饗応に徹底を期すあまり「家康が盟友ではあっても、あくまで“弟分”であり自分より格下」とみる信長のプライドを結果的に傷つけた可能性の方があり得るように思われるからだ。レプリカの饗応メニューは「続群書類従」に基づき東京福祉大学・大学院理事長の中島範氏が中心となって復元した、とパンフレットで説明されており、学術的な成果と思われる。しかしメニューが当時の食文化の中でどの程度、贅沢な内容だったのか、この点に関しても判断できるような知識はない。

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人気もなく静かな天主跡

家康が安土に滞在したのは天正10年の5月15日から6日間。光秀は17日、家康饗応役を外され中国地方への出陣を命じられ、半月後の6月2日、本能寺に信長を襲った。主君・信長の度重なる非情な仕打ちに対する怨恨から光秀自身の野望、信長との理想の相違、さらには朝廷やイエズス会による陰謀まで諸説をめぐり専門化だけでなく歴史好事家も巻き込んだ熱心な議論が続いている。

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信長の館

石段の石仏に賽銭

冒頭で城址周辺に大きな変化はなかったと記したが、天主に続く大手道石段には石仏や墓石、石塔がいくつか使われ、司馬遼太郎の小説などにも登場する。今回は10数年前には見かけなかった目印が「石仏」に付され、石仏の上には賽銭のつもりか、見学者が10円玉や50円玉を置いていた。石仏や墓石は石不足を解消するため近隣から強制的に供出させ、無神論者・信長があえて人目につく大手道の石段に並べることで神をも恐れぬ強い意志を見せ付けた、と言われている。しかし目の前の賽銭を現代の感覚で眺めると、石仏を並べることで築城や城そのものの安全を祈願した、といった全く逆の解釈にも一理あるような気がするから不思議だ。

全山が聖地

今回の安土行きは滋賀県立安土城考古博物館が日本財団の支援を受けて開催する「天智天皇、信長の大船 そして うみのこ」の取材が目的。大沼芳幸副館長によると信長の死後、豊臣、徳川両時代とも城跡だけでなく標高199bの安土山全体が“信長の聖地”として保護されたという。その結果、石段や遺構が破壊されることなく残ったようで、1989年から始まった発掘調査では現在も新しい発見が続いている。

ちなみに信長の出身地は尾張、光秀は岐阜県の東濃。自分の故郷・岐阜にとって信長は“征服者”の一面を持つが、出身高校の応援歌には信長を「乱世の英雄」と称える一語があったと記憶する。石段を登り詰めると天主跡には人影もなく、その静けさが余計、自分のような素人にも勝手な想像を可能にしていると実感した。(了)
箱根冬景色 [2011年12月11日(Sun)]
}これが樹氷か!?
花が咲いたように白く霞む箱根





山は花が咲いたように白一色


12月2日、箱根の山頂を通ると道路両側の樹木が淡い花が咲いたように白く霞んでいた。よく見るとびっしりと氷が付き、これが樹氷かとも思ったが、写真で見る蔵王などの樹氷とはだいぶ違う。似た言葉として霧氷もある。





枝にはびっしりと氷


Webで調べると、霧氷は「水蒸気や霧が氷点下で冷やされ樹皮などに凍りついたもの。生成条件によって樹霜、樹氷、粗氷などがある」とある。ちなみに樹氷は「霧氷の一種。過冷却した微小な水滴が木の枝などに付いて凍ってできた白色のもろい氷。木に花が咲いたように美しい」との説明。



拡大するとこんな感じ




山頂付近は曇り模様


樹霜、樹氷、粗氷のいずれに当たるか分からないが、当日は横浜から小田原厚木道路を得てターンパイクの入り口・早川料金所に着いたのが正午前。「つい先ほど通行禁止が解除された」とのことで、そのままターンパイクを進むとほぼ山頂の鞍掛料金所手前から木々の枝が花が咲いたように白くなっていた。



霞がかかった春景色を見ている錯覚も覚えた


既に溶け始め水滴を滴らせる枝も多く早朝はもっと白色だったと思われる。その後、熱海峠を経て亀石峠まで伊豆スカイラインを進んだが、気温は熱海峠付近が1度。その後も厚い雲の下、強い風が吹き、普段温かい亀石峠も2度。山頂付近は依然、満開の桜を遠方から見たように霞んだように淡く白く見えた。料金所で確認すると樹氷としたうえ「箱根で樹氷が出るのは珍しい」との答え。通行止めだったせいか、通行車両もほとんどなく、得がたい幸運に感謝した。(了)
花粉症 [2011年02月17日(Thu)]
生き残りかけ花粉発散
放置され過熟林に


花粉症の季節がやってきた。花粉症に悩む人は2千万人を超すといわれ、花咲く春が憂鬱な季節というのは何とも皮肉な話だが、花粉の大量発生は、戦後の復興期、建築材の確保に向けて進められたスギやヒノキなど針葉樹の単植林が、その後の南方や北方の安い外材の輸入で放置され、過熟林となってさかんに花粉を飛ばすのが原因と聞く。


         雪国にも春の訪れとともにスギ花粉が

そう説明するのは土地本来の樹木(潜在自然植生)による「ふるさとの森づくり」を提唱する国際生態学センター長の宮脇昭・横浜国大名誉教授。宮脇教授は土地本来の森の主木を中心に多くの種類を混植・密植する手法で植樹を進め、アフリカや中国を含め内外で4000万本に上る植林を進めてきている。アドバイザーを務める日本財団の防災植樹事業の理論的指導者でもあり、この関係で話を聞く機会があった。

宮脇教授によると室町時代以降、日本建築に欠かせないスギやヒノキ、マツなどの造林が広く進められた。土地の環境に合わせ様々な植物が多様な生態系を形成する自然の森とは逆にスギやヒノキだけを植えた単植林は、多様性を持たないが故に生命力が弱く老化が早く進む弱点があるという。しかし戦前までは定期的な下草刈りや枝打ち、間伐などの管理を行い50〜60年ごとに木材として活用することで採算もとれ過熟林になることもなかった。

ところが1950年代、戦後復興で需要が膨らんだ建材確保に向けスギやヒノキの植林を全国的に進めた結果、針葉樹の単植林は森林全体の40%に上り、半世紀を経た現在、これら単植林が伐採されぬまま過熟林となり盛んに花粉を飛ばしているという。種の保存、子孫の保存は自然の本能であり、大量の花粉が発散されるのは自然の生業として当然の結果でもあるようだ。



となると大量のスギ花粉はかつての林業政策のツケといった指摘も出そうだが、スギやヒノキの需要は昔も今も高く、現在の姿は世界経済がグローバル化する中、高い経済成長を実現したこの国に世界各地から安い木材が流れ込み、国内産の建材にはコスト面からも手が出せなくなった、ということでもある。いずれにしても今後は原因の所在より、単植林をどのように自然の森に変えていくかが課題となる。

宮脇理論による植樹は林野庁も2009年、大きな風倒木被害が出た広島県の国有林で実験的に採用している。日本の森の大半はシイ、タブ、カシ類が主木の照葉樹林。照葉樹は葉が厚く水分を多く含み、災害時には火防木(ひぶせぎ)の役割のほか、根が深く土砂崩壊に対する抵抗性も強いという。10万人を超す死者・行方不明者が出た関東大震災では広葉樹林に囲まれた清澄庭園(東京都江東区)に避難した住民は無事だった。阪神淡路大震災でも同様の効果が確認されたという。

宮脇方式による植樹では7、8年で森に成長するといわれ、こうした植樹を全国で展開すれば、いつ起きてもおかしくない大災害で力を発揮することも期待できるような気がする。積極的な取り組みを期待したい。(了) 
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