CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

四季折々の雑記

 30年以上在籍したメディアでは「公」の動きを、その後10年以上は「民」の活動を中心に世の中を見てきた。先行き不透明な縮小社会に中にも、時に「民の活力」という、かすかな光明が見えてきた気もする。そんな思いを記したく思います。


<< 2021年03月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
buy website traffic
インド体験記(下) 美の基準 (12/09) TNF広報ファン
音禅法要 (05/31) D.G. Internacional, S.A.
インド体験記(下) 美の基準 (04/17) ヒメ
日本文化、色濃く残すパラオ  (01/27) Bios Agriculture
ニュースから(4) (01/20) ラックバック
「凌霜隊」の街を訪れて (12/29) 早川理恵子
日本文化、色濃く残すパラオ  (10/18) 麻生英明
映画「蟻の兵隊」の試写会に参加して (03/08) 麻生英明
インド体験記(下) 美の基準 (03/08) kemukemu
映画「蟻の兵隊」の試写会に参加して (09/14)
最新トラックバック
世界が注目した壁新聞 [2012年04月27日(Fri)]
「地域の応援団に徹する」
手書きの壁新聞で注目 石巻日日新聞


東日本大震災で社屋が被災する中、手書きの壁新聞を発行した石巻日日(ひび)新聞に対し日本記者クラブ特別賞が贈られることになった。授賞理由は「報道史に残る壁新聞づくり」。壁新聞は米ワシントンの報道博物館「ニュージアム」にも永久保存されることが決まり、その活躍はテレビドラマにもなった。同社を訪ねると、常務取締役の武内宏之報道部長は「多くの市民が今ももがき苦しんでいる。有名になったとかドラマになったとかで喜んではいられない」、「地域の応援団に徹したい」と意欲を語った。

IMG_3182.jpg

被災地の桜も満開に

震災から1年、震災前に1万4000部を数えた発行部数は7800部と過半まで回復したものの広告は4割にとどまる。人口16万人の石巻市は死者・行方不明者約5800人、全壊家屋4万4000戸、市街地全域が津波に襲われ甚大な被害を受けた。町の中心部からヘドロ状の土砂やがれきは姿を消したものの、建物の建築が制限された海沿いの地域にはがれきや廃車が山と積まれ、荒涼とした風景の中に復興の兆しを見出すのは難しい。

IMG_3146.jpg

がれき処理は依然進んでいない

4月20日、日本財団の事業に関連して同社を訪れると、武内部長は1階輪転機室に案内してくれ「床上20aまで海水に浸かり、床に積んであった新聞ロール紙は使い物にならなくなった」、「輪転機は2年前に入れ替えたばかり。最大12n印刷可能の新鋭機だった」、「社員の大半が被災し取材用の車も流された」と被災直後の絶望的な状況を説明した。「大型車が木の葉のようにフワフワと流れる窓越しの光景に絶句した」とも。

そんな中、同社には物資が不足した戦時中、わら半紙で手書きの新聞を作った経験があり、上段に積んであったロール紙が無傷だったことも幸いして、壁新聞発行となった。3色の油性ペンで連日6部作成し、避難所など6カ所に張り出した。
「市民は食糧、水と同様、地域の情報も欲していた。しかし取材した写真や情報を入れるだけのスペースはない。それが悔しかった」(武内部長)

IMG_3172.jpg

石巻日日新聞報道部

震災8日目に電気が通じ、輪転機のボタンを押すと、奇跡的に動いた。4頁から新聞発行を再開し現在は6頁に。大津波で多くの読者が家を失い、仮設住宅なども訪ね歩き拡張活動を続けた。震災前の過半に達した現在の部数は社員28人の熱意と努力の結果である。80%が従来からの読者、20%は新規読者という。

編集を束ねる平井美智子・報道部課長は「被災地の状況を全国に知らせるのが全国紙とすれば、被災者が日々、必要とする情報を提供するのが地域紙」と石巻日日新聞の役割を語った。石巻日日新聞は100年前、石巻初の地域新聞として創刊され、創業者・山川清氏は「地域の回覧板たれ」との言葉を残した。武内部長も「地域あっての新聞。地域の応援団として新聞発行を続けるのが使命」と語るとともに、「読者が求めている情報は何か、そんな目線が震災前より強くなったような気がする」と付け加えた。(了)
大震災追想 [2011年07月13日(Wed)]
石柱に残る「海抜1b12a」
何故ここに学校が、悲劇の大川小


全校児童108人のうち74人、教職員13人のうち10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の市立大川小。報道によれば、地震発生後、校庭に集めた児童をどこに避難させるか迷った結果、行動が遅れ、近くの高台へ移動する途中に津波に襲われたという。教師の対応に問題がなかったか議論されているが、訪れてみれば北上川の堤防脇にあるこの学校は海抜1b12a。結果論と言われるかもしれないが、こういう場所を学校用地に選んだことが何よりも問題ではなかったのかー。


海抜1b12aと記された石柱


学校自体も地域の避難場所になっていた。教師や父兄、児童には「学校にいれば安全」との思いがあったはずで、大津波が到来した時「こんなはずはない」「話が違う」といった戸惑いと無念の思いがあったはずだ。自然の力を甘く見たとは言わない。しかし、人間は自然の圧倒的な力を知りながら、時に心の片隅に置き忘れることがある。無残に破壊された大川小を前に、そうした失敗を長く後世に伝える記念碑として校舎は残される必要がある、と感じた。

 6月25日、大川小から約4`先にある廃校の体育館に設けられた「災害取得物預かり所」を訪れた。床いっぱいに瓦礫の中から見つかったアルバムやランドセル、靴、ノートなど思い出の品が並べられ遺族の引取りを待つ。その一角に上空から見た大川小の全景図があった。屋根をオレンジ色に塗った鉄筋2階建の校舎がL字型に配され、丸型の校庭とプールが併設されている。2005年の平成の大合併で石巻市立となったが、それ以前は河北町立の小学校。建設年月日は把握できていないが、超モダンな建物にこの学校の将来にかけた設計者の強い意欲が感じられた。


大津波に襲われた大川小校舎


大川小では25日も自衛隊や宮城県警の行方不明者捜索作業が続き、校門があった辺りだろうか、道路沿いに花を供えた慰霊碑が建てられ、そのすぐ近くに長さ1・5bほどの石柱が倒れていた。大津波で根元から折れたと見られる石柱には大合併以前の河北町立大川第一小学校の「地球上の位置」として緯度、経度とともに「海抜1メートル12センチ」と記されていた。

石柱の存在を教えてくれた黒澤司氏は被災地のボランティアリーダーとして活躍する。自身のブログで大川小について「北上川は日本有数の大河。津波に限らず水害の危険性もおおいに懸念される場所に、この小学校は建っていた」と指摘した上で、今回の惨事について「行政が安全な立地選定を怠った結果による人災だと思う」と記している。


災害取得物預かり所にあった全景図


地元関係者によると、この付近は河口(海)から約4`、北上川沿いの低地であるにもかかわらず何故か津波体験が少なく、今回の津波は1000年に一度といわれる貞観津波(869年)以来ではないか、という人もいる。惨事の後、校舎南側の杉山への避難の可能性について、低学年の児童が激しい余震が続く急斜面を登れたのか議論になっているが、結果論との非難を承知で言えば、あらかじめ階段かスロープを設け、まさかの時は杉山に避難すると決めておけば、これほどの惨事は免れたのではないかー。

現実に2階建て校舎を上回る10b超の大津波が押し寄せ、教師や児童が避難しようとした学校西方の新北上大橋高台も津波に埋もれた。杉山も、その気になれば何とか登れる傾斜と見えるが、当日は地震で斜面が崩れ雪も残っていたとされ、教師がここに避難するのをためらったのも分かるような気がする。そうでなくとも校舎に最も近い杉山の裾は3b近い高さのコンクリート壁で固められており登ることはできない。「ここに階段でもあれば・・」。勝手な想像を繰り返せば、そんな思いがした。

東日本大震災では、東電福島第一原子力発電所事故について当初は、想像を上回る津波が原因と言われ、このブログでもそう書いた。しかしその後、同原発の安全策は過去の地震・津波実績に比べてあまりに過小であり、自然災害より人災の性格が強いことが明らかになりつつある。酷な言い方になるが、大川小の惨事の背景にも同様の問題点を感じる。自然の力を過小評価すれば、いつか大きな付けとなって跳ね返ってくることを永く記憶に留める必要がある。そうでなければ犠牲者は救われない。(了)
検索
検索語句
プロフィール

日本財団 宮崎さんの画像
日本財団 宮崎
プロフィール
ブログ
リンク集
https://blog.canpan.info/miyazaki/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/miyazaki/index2_0.xml