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四季折々の雑記

 30年以上在籍したメディアでは「公」の動きを、その後10年以上は「民」の活動を中心に世の中を見てきた。先行き不透明な縮小社会に中にも、時に「民の活力」という、かすかな光明が見えてきた気もする。そんな思いを記したく思います。


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遅れる比残留日系人2世の国籍取得 [2019年11月07日(Thu)]

「生あるうちに、日本人の証を」
なお1000人以上が無国籍状態
政府・国会が一歩、踏み出すとき


戦前から終戦にかけ日本人の父親の子として生まれ、戦後、フィリピン人の母親とともに現地に残されたフィリピン残留日系人2世が日本国籍の取得を求め家庭裁判所に「就籍」の申し立てを始めてから15年近くが経過した。しかし就籍の審判で日本国籍を取得できた残留2世は計240人に留まり、なお1000人以上が無国籍状態にある。当の残留2世は終戦の年に生まれた最も若い2世でも来年は後期高齢者の仲間入りをする。

▼現状の就籍手続き 年20人程度

戦後の厳しい反日感情の中で、父親との関係を示す資料を捨てるなど「日本人の子」であることを隠して生きざるを得なかった残留2世も多い。戦後の長い空白期間を経て、証拠を重視する司法の場で親子関係を立証するのは難しく、就籍手続きで日本国籍を取得できた残留2世は多い年で年間20人程度に留まる。このままでは「生あるうち」に「日本人の証」を手にするのは難しい。

残留2世問題は国の名で行われた戦争の結果、生まれた。そうである以上、残留2世の国籍問題も国の名で解決される必要がある。しかも彼らが求めているのは損害補償や慰謝料ではなく、日本人の父親から生まれた人間として当然、認められるべき日本国籍である。残された時間は少ない。政府、国会が早期解決に向け早急に一歩踏み出すよう求めたい。

残留2世の国籍取得に取り組む「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC)
によると、これまでに判明した残留2世は3806人。うち父親の身元が分かり日本国籍を持つ2世は1181人(うち死亡433人)、身元は判明しているものの日本国籍を取得できていない2世1738人(同885人)、身元が未判明で日本国籍がない2世887人(同563人)。日本国籍を取得できていない生存中の2世は1177人に上る計算だ。

▼比・外務長官の呟き

関連して近年、フィリピン政府が残留2世の「無国籍認定」に前向きに取り組む動きが出ている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が世界で1000万人に上ると推定される無国籍者をゼロにする方針を打ち出したのを受けた動きで、8月には残留2世103人がフィリピン法務省に無国籍認定を申請した。

残留2世は納税も行い選挙権も持つが国籍はなく身分は不安定、パスポートを取得できず海外にも出られない。無国籍と認定されればフィリピンに居住する権利が正式に認められ、渡航証の発行手続きなどを経て出国の機会も保障される。日本政府による残留2世の日本国籍認定が遅々として進まない現状を前に、まずは残留2世の立場を安定させ、日本政府に早期の対策を促す狙いも込められている。

そんな中、フィリピン外務省のテオドロ・ロクシン外務長官が残留2世問題に関連して9月19日付けのツイッターに記した呟きが関係者の間でひとしきり話題となっている。「私たちはフィリピン国籍をいつでも提供するよう用意があるし、登録手続きはいつでも始められる。とはいえ、彼らの願いは日本人になることである。ところが日本の国会はどうやらその声を聴こうとはしていない。そんな状況にあってもなお、彼らは近代の日本の侍の末裔たちなのである。不思議な国である」という内容だ。

歴史的経過を見ても、残留2世が日本人の子であるのは明らか。何故、日本政府や国会は前向きに対応しようとしないのか、「侍」の国として潔さを欠くのではないか、といったフィリピン政府担当者としての“問い掛け”が込められている気もする。

それではフィリピン法務省が無国籍認定をする場合、その理由をどうするかー。「(残留2世が)日本国籍を持っている」と書くのは無理として、フィリピン政府の見解として「彼らは自分が日本人であると信じるが故に長い間、フィリピン国籍ではなく日本国籍を求めてきた」といった表現がされるとすれば、少なくとも就籍の審判の疎明資料にはなる。残留2世と同じように戦地に取り残された「中国残留孤児」の場合は、日中両国政府の合意の下に作成された「孤児名簿」が就籍を加速する決め手となった。

ただし中国残留孤児の肉親捜しは1972年の日中国交正常化を機に大きく前進した。これに対しフィリピン残留2世関係は、外務省の実態調査自体がそれより20年以上遅く、就籍の申し立てが始まるまでに、さらに10年近くを要している。30年の差はあまりに大きく、同じ手法で残留2世の国籍取得が実現するには残された時間が少なすぎる。何としても政治の後押しが必要と考える所以だ。時間切れで残留2世が無国籍状態のまま人生を終えるような事態は何としても避けるべきである。

▼「民」の力だけで解決するには限界

一足早く対策が進んだ中国残留孤児が満蒙開拓団など国策によって中国に渡った両親とも日本人の子であるのに対し、残留2世は自由意志でフィリピンに渡った日本人男性と現地の女性との間にできた子、といった違いを指摘する声もあるが、父親が日本人の子は日本国籍を持つとされた当時の戸籍法からも何らの違いはない。

残留2世の日本国籍取得はこれまで、日本財団の支援を受けたPNLSCの活動を中心に進められてきた。しかし「民」の活動だけで現状を大きく前進させるのは限りがある。現在、この問題を外務省、厚生労働省、法務のどこが主務するのかさえ、はっきりしない。早期解決には特別立法など、政府や国会の取り組みが欠かせない。こんな事情を受け10月末には「フィリピン日系人会連合会」のイネス・マリヤリ会長ら6人が来日、日本、フィリピン双方で集めた4万人余の著名を添え、国会に早期解決を求める請願書を提出した。

同行者の一人、カルロス寺岡・連合会前会長(88)は1930年、ルソン島バギオで山口県出身の父(1941年病死)とフィリピン人の母の3男として生まれ、長兄はスパイ容疑で日本の憲兵隊に銃殺され、次兄はフィリピンゲリラに殺害された。さらに米軍の攻撃を逃れ山中に避難していた1945年春、母と妹、弟を米軍の砲撃で失い、結局、もう1人の妹と2人が残された。

2000年から12年まで日系人連合会の会長を努め、2006年だったか、初めて会った際、残留2世問題を知る日本人が極めて少ない現状に「われわれは棄民なのか?」の怒りの言葉を漏らされた。戦後処理は敗戦に伴い海外から引き揚げる日本兵や邦人対策など極めて膨大。本来なら専門の省なり組織が欠かせない。旧厚生省(現厚生労働省)の援護局を中心にした戦後処理は徹底を欠き、遺骨取集など、なお残された課題は多い。「棄民」の一言に戦後処理から長く取り残された残留2世の無念を聞く思いがした。

▼天皇陛下の言葉に涙した残留2世

一夜、東京都内の宿泊先に寺岡氏を訪ねると、残留2世の国籍問題が日本国民に広く知られるようになった現状を「隔世の感がある」としながらも、日本政府や国会のあと一歩の後押しがほしいと語った。同時に一番の思い出として16年1月、国交正常化60周年を記念してフィリピンを訪問された天皇・皇后両陛下(当時)の思い出を語った。

両陛下は当初、日系人協会の関係者ら数人の代表と会われる予定だったが、宿舎となったホテルには80人を超す残留2世が詰め掛け、両陛下は日本国籍の有無とは無関係に、「苦労されたことでしょう」、「皆さんを誇りに思います」と声を掛けられ、多くの残留2世が涙を流した。寺岡氏は両陛下から直接声を掛けられた当時の写真を見せながら「両陛下が声を掛けてくださり涙が止まらなかった」と語る。当日の情景は、両陛下が政府より一足早く、残留2世を等しく「日本人」と認められた姿でもあった。あらためて政府の勇断を期待するー。
中国東北部で今も活用される日本建造物 [2019年10月01日(Tue)]

「残してこそ真実の歴史伝わる」の考えも
“日帝残滓”として解体進める韓国と対照


中国も韓国も日本との間に「歴史問題」を抱えている。しかし日本が戦前、現地に残した建造物に対する姿勢はかなり違う。中国では東北部(旧満州)を中心に日本ゆかりの建物の多くが「文物保護単位」(文化財)として保存・活用されており、「日帝残滓」(捨て去るべき廃棄物)として建物の解体を進める韓国と対照を見せている。他の旧址(史跡)と同様、歴史的、文化的価値に応じて「国家級」、「省級」、「市級」に分類され、表向き日本と関係が特に問題にされていることはないようだ。

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旧奉天中央郵便局

もちろん、国内の意見は「利用価値があれば当然使うべき」といった割り切った意見から、「侵略された歴史の証として残すべき」、さらには「忌まわしい過去について思い出したくない」といった声まで幅がある。そうした中で近年、残された建物を純粋に建築学の立場から再評価する動きや歴史の一断面として保存を目指す動きも出ているようで、中国の“懐の深さ”を垣間見る思いもする。

9月末、久し振りに訪れた遼寧省の省都・瀋陽市。人口830万人。旧満州時代、奉天と呼ばれ、日本人が多く住んだ旧大和区などを中心に外観が東京駅とそっくりな瀋陽駅や旧奉天中央郵便局、奉天警察署、横浜正金銀行奉天支店など多数の日本ゆかりの建造物が文化財として残され、公安局や銀行支店など当時と似た用途で利用されている。

このうちの一つ旧奉天ヤマトホテル。戦前の満州鉄道が大連や長春(新京)、ハルビンなどで経営した最高級ホテルチェーンのひとつで、白っぽいタイル仕上げの建物はほぼ当時のまま残され、現在は遼寧賓館として使われている。省級文物保護単位(文化財)に指定され、正面入り口には「遼寧省人民政府 2007年5月26日公布 大和旅館旧址」のプレートも。戦前は蒋介石、戦後は中華人民共和国の指導者、毛沢東やケ小平も訪れている。

今回の遼寧省訪問は、同市で開催された日本財団の日中医学交流事業関連のフォ−ラム取材が目的。一夜、遼寧賓館で懇談の機会があった。アール・デコ調の内装は格調が高く、たまたま結婚式の披露宴が行われていた大ホールには戦後、参院議員にもなった李香蘭(山口淑子)がロシア人歌手のリサイタルの前座を務め、奉天放送局がスカウト、俳優・歌手として活躍するきっかけとなった舞台(李香蘭・私の半生 新潮社)もそのまま残されていた。

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旧奉天ヤマトホテルに当時のまま残る大ホール舞台

瀋陽に先立って訪問した重慶市、雲南省昆明でも、日本ゆかりの建造物保存を話題にしてみた。一番多かったのは「建物が立派で利用価値があったから残った」という現実的な説明。次いで「歴史の一部だから残す。残さなければ歴史は失われる」といった指摘も目立った。金泳三大統領時代の1995年、爆破解体された朝鮮総督府を引き合いに「建物を壊したからといって支配されたという歴史は消えるものではない」、「後世に残してこそ真実の歴史を伝えることができる」といった声も聞かれた。

関連して友人に中国の若者の反応を聞いてもらうと、「どんな立派な建造物であろうと、日本人の統制下で強制的につくられた憎い歴史を思い出させる存在であることに変わりはない」といった返事も。その一方で、大連など瀋陽以外の都市も含め、建物の様式や技術、工法など純粋に建築学の分野から価値ある近代建築として、あるいは歴史的な古い建物群として保存する動きも出ているようだ。

確かに旧満州地域に残る日本ゆかりの建造物は、日本の若き建築家たちが、日本方式、中国方式にとらわれることなく全く新しい発想で、この地に合う石造り、鉄骨構造の洋風建築を目指したと言われる。都市開発や老朽化で古い住宅や関連の建物が姿を消す中、新しい保存の取り組みが、どう発展するかー。歴史問題は今も敏感なテーマであり、どう向き合うかは日本を含めそれぞれの国の問題である。軽々しく言うつもりはないが、そんな思いも込め今後の動きに注目したいと思う。

70年を経てなお語り継がれる不思議 [2019年09月11日(Wed)]

ビルマ・南機関とインド・藤原機関
独立に果たした役割を今も評価


日本人が忘れ去った存在について、外国で高い評価を聞き驚くことがある。旧日本軍の特務機関だった「南機関」と「F(藤原)機関」もその一つであろう。前者はミャンマー国軍の原点でもある「ビルマ独立義勇軍」(BIA)を育て、後者は「インド国民軍(INA)」の創設に尽力し、ともに両国が長い英国支配から脱する原動力となった。戦後70年以上経た現在もその貢献が語り継がれ、親日的な両国の対日観にも繫がっている。

以前、このコラムでも触れたが、8月末から9月上旬にかけ日本・ミャンマー将官級交流プログラム(日本財団主催)でタン・トゥン・ウー中将を団長とするミャンマー将官団10人が来日、8月26日に過去5回と同様、静岡県浜松市にある南機関の機関長・鈴木啓司大佐(当時)の墓を訪れたのを受け、改めて記しておきたいと思う。

南機関は1940年、中国・重慶の蒋介石政権に対する連合国からの軍事物資輸送ルート(援蒋ルート)のうち、ビルマルートの遮断を目的に大本営陸軍部が設置、鈴木大佐は後にビルマ国民に「建国の父」と仰がれるオンサン(アウンサン)将軍=アウンサン・スー・チー国家顧問の父=ら30人を海南島で訓練しBIAを結成した。組織はビルマ国防軍(BDA)、ビルマ国民軍(BNA)などに形を変えながら苦難の末、48年1月に独立を果たした。
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鈴木大佐の墓前で敬礼するミャンマー国軍将官団一行

南機関は旧日本軍(南方軍および第15軍)と意見対立しながらも最後までビルマ独立運動を支援したといわれ、ビルマ政府は81年、鈴木大佐未亡人ら南機関関係者7人にアウンサン勲章を贈っている。旧日本軍の影響はミャンマー国軍に今も色濃く残り、3月の国軍記念日には軍艦マーチが演奏されるほか、日本語の訓練用語も多く使われている。

ミャンマー将官団が訪れた鈴木大佐の墓は、「ビルマゆかりの碑」とともに浜名湖を一望する舘山寺大草山の頂上にあり、鈴木大佐やオンサンらがこの地でビルマ独立の秘策を練ったと伝えられる。一行が来日した際、東京都内のホテルで行われた歓迎レセプションで将官の一人に感想を求めると、「われわれは昔も今も(南機関に)恩を感じ、国民の多くも日本の協力に好感を持っている」と語った。

一方のF機関は1940年、陸軍参謀本部がマレー半島の情報収集を目的に設置。機関長だった藤原岩市少佐(当時)による「F機関-アジア解放を夢みた特務機関長の手記-」(出版社・バジリコ)などによると、日本軍の進撃で取り残されたインド兵などを中心にINAが組織され、シンガポールが陥落した42年2月には、英軍部隊に所属していたインド兵約5万人を前に藤原少佐が大演説を行い、自らの力で自由と独立を戦い取るよう呼び掛け、インド兵に熱狂と感動を呼んだ、とされている。

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藤原少佐が暮らしたコヒマ近郊の民家

藤原少佐は同4月に南方戦線を離れるが、44年3月に始まったインパール作戦では、ビルマ方面軍第15軍、31師団が進攻したインド・ナガランド州の州都コヒマの近郊に約1000人の部隊と布陣、作戦にはインド独立の英雄チャンドラ・ボース率いるINAも参加したが圧倒的な装備を誇る英軍の前に大敗した。しかし独立運動は終戦後さらに勢いを増し、インドは47年、独立を勝ち取った。

日本財団の支援で完成したインパール平和資料館の開館式が行われた6月末、藤原少佐らが展開したコヒマ郊外の村を訪ねると、古老が「日本がわれわれを解放してくれると信じた。メイジャー・フジワラ(藤原少佐)は村人と気さくに話し誰もが好感を持った」と語り、出てきた子供も「コンニチワ」と日本語であいさつした。親から教えてもらったそうで、「われわれが今あるのは日本のお陰」と繰り返し、藤原少佐が地元女性と暮らした古い民家にも案内してくれた。

南機関、藤原機関の活動は英国に勝つための諜報工作であり、そのまま肯定的に評価するのは難しい。ただし、軍の方針に反してまで独立運動を支援した鈴木大佐やインド兵を熱狂させた藤原少佐の大演説を見ると、二人にはミャンマー、インドの独立に向けた強い信念と情熱があったように思う。ともすれば内向きが指摘される戦後外交を前にすると、あの時期にどうして、このような動きが可能だったのか、不思議な気さえする。
望まれる司法の前向きな判断 [2016年12月16日(Fri)]

外務省職員署名の陳述書 どう評価
比残留日系人2世の国籍取得問題


戦後、半世紀近くも忘れ去られてきたフィリピン残留日系人2世の日本国籍取得問題にわずかな前進の兆しが見えてきたような気がする。残留2世の陳述書作成に外務省職員が立会い、フィリピン政府も2世が戦後長らく無国籍のまま暮らしてきたことに対するペナルティー(罰金)を免除する措置を打ち出している。後は2世が求めている就籍に迅速かつ前向きに対応する司法判断の流れが確立されれば問題解決は前に進む。老境に達した残留2世に残された時間は少なく個人的な期待も込め、そんな思いを強くする。

ドゥテルテ新大統領が長く市長を務めたミンダナオ島の港町ダバオ市に住む残留2世、永田オリガリオ・マサオさん(71)が11月28日来日、翌日、日本国籍の取得に向け就籍の審判を申し立てた熊本家庭裁判所の調査官面接に臨んだ。就籍が許可されると、申立書に記した住所で新たに戸籍を作り、晴れて日本国籍を取得する。

永田さんは2013年にも東京家裁に就籍を申し立てたが却下され、状況証拠から父親の出身地である可能性が強い熊本家裁に再申し立てを行った。裁判所が違うとは言え、同一の証拠で就籍許可を勝ち取るのは難しい。再申し立てには、外務省職員が立会い、署名した永田さんの陳述書が“新証拠”として提出されている。外務省の立会いは、早期解決に向けた関係者の強い要望を受けて今年5月にスタート、永田さんに対する聞き取りは同月末、他の残留2世9人とともにダバオで行われた。

陳述書は物的証拠がほとんどない就籍の審判の“重要証拠”。これまで日本財団の支援で国籍取得に取り組むフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)のメンバーが、本人からの聞き取りを基に作成してきた。外務省職員が立ち会ったからと言って、2世が日本人の子であること自ら隠して生きざるを得なかった戦後の空白を埋める新たな事実や証拠が出ることはまず有り得ない。

5月の調査には在フィリピン日本大使館の参事官が立ち合い、筆者も取材を兼ねて同席したが、これといった新しい事実は出なかった。日本政府の代表である外務省職員が自ら質問・署名することで、2世の申し立てに少なくとも嘘や偽りがないことを確認した点に意味があり、裁判官がこの信用性をどう見るかがポイントとなる。

 残留2世と同様、終戦前後の混乱で両親と離れ離れになった中国残留孤児は同じ就籍手続きで既に約1300人が日本国籍を取得している。国籍取得が順調に進んだ背景には、日中両国の合意の下、中国政府が発行した「孤児証明書」を手掛かりに司法が肉親の身元が未判明な孤児の申し立てにも柔軟に対応した点がある。

 残留2世に関してもフィリピン政府が近年、2世の出生証明書や婚姻証明書について遅延登録を認める措置を取っており、外務省職員が立ち合い、署名した陳述書を持って、中国残留孤児と同様、前向きの対応ができないものかー。証拠に基づく厳格な証明が司法の原則であることは理解するが、国の名によって行われた戦争により2世やフィリピン人の母親が置かれた戦中・戦後の過酷な状況を踏まえれば、戦後71年も経て新たな証拠を2世に求めるのはあまりに酷であり、不可能を強いるに等しい。

 これまでに家庭裁判所の審判で就籍が認められた残留2世は188人、なお1000人を超す2世が日本国籍を求めている。5月以降、外務省職員が聞き取り調査に立ち合い陳述書が作成された2世は計18人に留まり、仮にこの陳述書の信用性が前向きに評価されても、PNLSCや外務省の現有人員でどう聞き取り調査を加速させるか、別の問題も残されている。

 しかし、司法が前向きに評価しない限り何も前に進まない。永田さんの申し立てに対する熊本家裁の審判をあらためて注目したい。残留2世の平均年齢は既に75歳を超え、問題解決は時間との戦いである。(了)
遅れる比残留2世の国籍取得 [2015年07月30日(Thu)]

われわれは“棄民か”と思ったことも
日系人連合会・カルロス前会長に聞く


フィリピン残留日系人2世の国籍取得問題で7月下旬、フィリピン日系人会の代表7人が来日、安倍晋三首相に早期解決を求める要望書を日系人ら約2万8000人の署名簿を添えて提出、安倍首相は「日本人としてのアイデンティティーを取得したいという思いは当然で、政府としても、しっかりと協力させていただきたい」と答えた。残留2世の平均年齢は既に76歳、“日本人の証”を求める彼らの願いは時間との戦いでもあり、戦争が国の名で行われた以上、それに伴う被害も国の名で回復される必要がある。一行の代表を務めたフィリピン日系人連合会のカルロス寺岡前会長(84)に国籍取得にかける思いを聞いた。

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「一時も早く全員に日本国籍を!」と訴えるカルロス寺岡前会長

―フィリピンに取り残された日系人について厚生省(現・厚生労働省)が初めて調査を行ったのは戦後40年近く経た1980年代後半、何故、これほど長い空白があったのでしょうか?

「日本人と名乗れる雰囲気はなかった」

現地に在住した日本人の多くは日本軍に軍属として徴用され死亡、生き残った人も米軍捕虜として収容された後、日本に強制送還されました。日本軍の敗色が濃くなる中、残された母と子(残留2世)の多くは、敗走する日本軍とともに山中を逃避行し、多くが米軍の空爆などで命を失ったのです。私も母や妹、弟ら8人で逃げ、途中で母ら5人が命を落としました。
反日感情が渦巻く中、「敵国人の子」としてゲリラの攻撃対象にもなり、誰もが日本名や父親との関係を示す写真や資料を捨て、日本人であることを隠してひたすら生きてきたのです。私自身は生き残った妹といったん父の出身地である山口県に戻りましたが、父の戸籍に自分や妹の名はなく日本国籍がないまま7年後、フィリピンに戻りました。
60年代にミンダナオ島のダバオに初の日系人会が結成されました。それまでは日本人と名乗れるような雰囲気ではなかったのです。そんな中で80年代に初めて厚生省が現地調査しました。どういう調査をしたのか、今でも知りません。後日、「フィリピンに取り残された日系人はいない」との結論になったと聞き、「われわれは日本政府からも見捨てられた“棄民”なのだ」とつくづく思いました。


―95年には外務省もフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)や日系人会に委託する形で調査に乗り出していますが?

「希望すれば日本に帰れた、というのはあまりに無責任」

戦後半世紀を経て、さすがにフィリピンの反日感情も和らいでいました。日系人会も10ヵ所以上で立ち上がり連合会もできました。その中で多くの残留2世が無国籍状態で悲惨な生活を強いられていることが次第に明らかとなり、あらためて調査する必要が出てきたのでしょう。56年7月の日比平和条約の締結で国交が回復しており、「希望すれば日本に帰れた」などという声もあるようですが、残留日系人が置かれた悲惨な状況を知らない、あまりに無責任な意見です。

―その調査の結果として外務省はフィリピン残留2世の総数を3545人、うち父親の身元が判明し日本国籍を取得した2世は1058人(311人は既に死亡)、父親は分かっているものの戸籍に2世の名が登載されていない、などの理由で国籍を取得できてない人1676人(同759人)、父親が日本人であることは分かっているが、その戸籍の所在が分からない2世811人(同529人)としていますが、この数字をどう見ますか?

「新しい証拠の発掘は不可能」

実質的な調査はPNLSCと日系人会が行っており、数字はこれまでに把握できた結果ということになりますが、個人的には、離島などに残されたままの残留2世や日本人であることを名乗り出ない2世もまだいると思います。いずれにしても残留2世の半数弱(1599人)が故人となり、父親が日本人と判明しながら国籍取得の夢を果たせないまま亡くなった残留2世も1288人に上っています。一刻も早く、国籍取得を加速させていただきたい。2006年以降217人が、新たに戸籍を設け日本国籍を取得する「就籍」の申し立てを東京家庭裁判所に行い157人が日本国籍を取得していますが、このままではとても間に合いません。日本人の証拠を自ら捨てざるを得なかった経過や70年の歳月の流れを前にすれば、これから新しい証拠を発掘するのは最早、不可能です。


―同じように終戦の混乱の中で現地に取り残された中国残留孤児の場合は、日中両国政府が協力して孤児名簿を作成、名簿に登載された孤児の就籍の審判を加速し、既に1250人が日本国籍を取得、帰国後も中国残留邦人支援法などで手厚い支援が行われています。中国残留孤児は国策により満蒙開拓団などに送り込まれた両親とも日本人の子、父親が自己意思でフィリピンに渡り現地の女性と結婚してできた残留2世とは立場が違うといった指摘もあるようですが、どう思いますか?

「父の国と母の国の戦い」

フィリピン移民は、1903年にルソン島の山岳地帯の道路建設の契約労働者として3000人近い日本人が移住したのが始まりで、その後、ダバオを中心にした麻農園の開拓などで移民が増え、最盛期には全体で3万人、ダバオには2万人の日本人町も形成され豊かな生活をしていました。戦争ですべてが崩壊したのです。逃亡生活の中で教育を受ける機会もなく、長い間、どん底の生活を余儀なくされています。どちらも戦争の犠牲者であり、残留2世は父親だけが日本人という指摘も父系主義を採った当時の国籍法から、本人の国籍問題には何の影響もありません。それに残留2世にとって、あの戦争は父の国と母の国の戦いでした。その分、生き延びるのも大変だったのです。

―日本国籍を取得できていない残留2世の多くは長い間、無国籍状態にあるようですが、日常生活に支障はないのですか?

「日常生活は一種の“なり済まし”」

残留2世の子や孫はフィリピンで生まれフィリピン国籍を持っています。従って家族の中で残留2世だけが無国籍ということになりますが、日常生活では一種の“なり済まし”ということになるでしょうか、収入があれば税金を支払い、政府のサービスも受け、選挙で投票もできます。ただしパスポートの取得は無国籍では難しく、晴れて日本国籍を取得すると、これまで70年間、無国籍のまま違法に滞在したということで罰金問題も出てくるようです。現に日本国籍を取得して母国を訪問しようとしたところ300万円を超す罰金の支払いを求められた残留2世もいます。それこそ長年、問題を放置した結果であり、残留2世に求められてもできない相談です。日比両政府の間で早急に解決していただきたい。

―今回の訪日で安倍首相も協力を約束し、外務省も現在、PNLSC、日系人会に委託して進めている「フィリピン残留日系人2世名簿」の作成に当たり、今後は在フィリピン大使館員を調査に立ち会わせ、就籍の審判では名簿とともに調査に立ち会った旨を証明する書類を提出するとしています。家裁の裁判官が、これを持って“中国残留孤児と同様、日本政府が残留2世の身元を保証した”と解釈すれば、就籍の審判が加速する可能性も期待できる。この点をどう受け止めていますか?

「誰もが日本人として死にたいと願っています」

これまではPNLSCや日本財団の支援がほぼすべてでした。今回、安倍首相に直接、会っていただき、日本政府も積極的に対応していただけるのではないかと希望を膨らませています。フィリピンに帰国して同胞にもその旨、報告したい。日本人を父親として生を受けながら、日本国籍を取得できていない人は、判明しているだけでも1199人に上ります。誰もが日本人の血を誇りに思い、日本人として死にたいと願っています。残された時間は多くありません。日本での3世、4世の就労にも影響します。対応を急いでいただくよう切にお願いします。

[カルロス寺岡氏]
1930年12月、山口県・大島町出身の日本人男性とフィリピン人の母の3男としてルソン島のバギオで生まれた。父は大戦が始まる4ヵ月前、結核で死亡。その後、長兄は日本軍憲兵隊に、次兄はフィリピンゲリラに殺害され、バギオが陥落した45年4月、14歳で母と妹2人に弟、叔母と2人のいとこの計8人で日本軍の後を追ってルソン島の山中に逃げた。
5ヶ月に及ぶ逃避行の中で母と妹、弟、叔母、いとこの5人が米軍の砲弾などに倒れた。生き残った3人が戦争終結後の9月、米軍捕虜収容所に収容され、妹のマリエさんといったん日本に渡った後、21歳でフィリピンに戻り、98年、マリエさんとともに、ようやく日本国籍を取得した。1998年から12年間、フィリピン日系人連合会会長、95年から15年間、在バギオの名誉総領事も務めた。 (宮崎正)


比残留2世国籍取得問題(日本財団ブログ)
日本の現状を憂う [2014年08月16日(Sat)]
すべき反論を為さない危険性
不要なナショナリズムを高揚させる


 69回目の終戦記念日を迎えた。世界は今、イスラム世界での紛争多発、ウクライナ領クリミアの編入に伴うロシアと欧米の対立など緊張が高まり、日本を取り巻く情勢も中国、韓国による歴史認識批判・攻撃が激しさを増している。

 
 世界に国境があり、民族、宗教、文化の違いがある限り、争いはなくならない。国が国としての求心力、まとまりを維持するためには緊張が欠かせず、それ故に政治家は平和よりも対立を演出することで自らの存在感を維持しようとするのかもしれない。

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赤坂から見た東京の夕暮れ ビルの左横にかすかに富士山が見えた

 中国、韓国の日本攻撃を見ていると、そんな気もする。安倍政権の集団的自衛権を「軍国主義の復活」、「右傾化の象徴」と批判するが、平和慣れしたこの国の国民、若者には安倍首相がどう笛を吹こうと、軍国主義を歓迎するような覚悟、気力はなく、そんなことは両国とも知っている。日本批判は多分に国内向けなのだ。

もちろん国際社会は非武装中立を唱えれば、「平和」が保たれるほど甘くはない。集団的自衛権など一連の動きも、安全保障に関し、せめて普通の国並みの“体裁”を整えたい、といった希望の現われと見た方が理解しやすく、現実にもそれ以上の意味は持たない。

それにしても、この国の戦後の“引きこもり現象”は戦前に対する反省なのか、それとも自信喪失なのかー。敗戦国として当然“けじめ”を付けるべき一連の戦後処理の不徹底も、一方的で根拠のない日本批判に対し為すべき反論をなし得ないのも、ともに自信のなさからくる不作為ではないのかー。

そんな思いで毎日フォーラム8月号の「視点」欄に「残された戦後処理を徹底し、国の尊厳と発言力を守れ」の一文を投稿した。国家の尊厳は、為すべき責任を果たし、すべき反論を毅然と行うことで初めて確立される。そうでなければ中国や韓国の日本攻撃はいたずらに加速し、結果、不要なナショナリズムが高揚するばかりか、周辺国との未来志向の関係も築けない、といった内容。以下が全文、一読いただけると幸いだ。

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比残留二世の国籍取得

残された戦後処理を徹底し国の尊厳と発言力を守れ


歴史問題に対する中国、韓国の対日攻撃が激しさを増し、「南京事件で30万人が虐殺された」、「20万人が従軍慰安婦として強制連行された」など“歴史的根拠が希薄な事実”が一人歩きしている。共闘体制を加速させる中韓両国に対する反発と、有効な反論をなし得ていない日本政府に対する不満が、国民のナショナリズムを高揚させる結果にもなっている。

なぜ、このような事態になったのか。中国、韓国の日本批判にくみするつもりは毛頭ないが、戦後70年近く経った現在も徹底を欠くこの国の戦後処理に一因があるような気がしてならない。8月5日、父親の手掛かりを求め7人が来日したフィリッピン残留二世の国籍問題を中心に現状を振り返る。

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戦後処理に関し、ここ二十数年間で目を引く動きが二つあった。一つは台湾人元日本兵に対する補償問題。政府は1987年、「台湾住民である戦没者遺族等に関する法律」を制定し、日本の軍人・軍属として戦没、あるいは戦傷病者となった台湾住民、遺族に対し1人200万円の弔慰金を支払った。もう一つは旧ソ連軍によるシベリア強制抑留問題。戦後65年も経た10年、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)がまとまり抑留された元日本兵らに対する補償にようやく手が付けられた。

いずれも元日本兵らが損害賠償などを求めた訴訟の判決で、東京高裁や京都地裁が請求を退ける一方で国に然るべき対応を促したのを受け、法律が制定され補償の道が開かれた。行政の対応には、根拠となる法律の存在が欠かせない。比残留二世と同様、戦争の混乱で肉親と離れ離れになった中国残留孤児も、家庭裁判所の許可を得て新たに戸籍を作る就籍手続きで日本国籍の取得を進めているが、法の有無が双方の現状に大きな差を生じさせる一因となっている。

中国残留孤児の場合は74年、日中国交回復の高まりを受け、日中両国政府が早期解決に向け口上書を交わし、円滑な帰国の促進や永住帰国後の自立支援などを内容とする「中国残留邦人支援法」など三つの法律を整備した。これを受け家庭裁判所も中国政府作成の名簿に登載された孤児の就籍に前向きに取り組み、既に約1300人が日本国籍を取得している。

対する比残留二世。日本政府が初めて実態調査に乗り出したのは終戦からほぼ半世紀経った93年。フィリピン日系人会などの協力で調査を進めた結果、全体で約3000人、うち900人は父親の身元が分からず日本国籍を取得できないまま無国籍状態にあり、500人近くが既に故人となっていた。

長らく“忘れられた存在”であり、就籍による国籍取得も04年のスタートと大幅に遅れた。数年 前、国籍取得を支援する日本財団やフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)の関係者と現地を訪れ、日系人会の幹部と話すうち「われわれは半世紀以上も棄民だった。何故だ」と問われ絶句した思い出がある。

フィリピン日系移民は1903年、道路建設に従事する契約労働者として3000人近い日本人が移住したのが始まり。第二次世界大戦直前には約3万人がフィリピンに住み、ミンダナオ島の港町ダバオには東洋最大、2万人の日本人町も形成され、多くが現地の女性と結婚し地域社会にも溶け込んでいた。

しかし41年の大戦勃発とともに軍人、軍属として応召され、戦死、あるいは捕虜として収容―強制送還され、二世は母とともに現地に取り残された。日本の敗戦が濃厚となる中、「敵国人の子」としてゲリラの襲撃対象となり、逃避行の中で父とのつながりを示す写真や出生証明書、両親の結婚証明書を自ら捨てた。教育を受ける機会もなく、今も多くの二世が極貧生活を余儀なくされている。

これまでに計209人が東京家裁に就籍の申し立てを行い、121人が認められた。現在、31人が係争中。PNLSCによると未把握の残留二世も含め、今後さらに300人近くが申し立てを行う見通しという。

就籍を促進するには、中国残留孤児と同様、法を整備し、司法が前向きに取り組める環境をつくるのが最も現実的だ。新法の整備や中国残留邦人支援法など関連法を一部改正して残留二世を新たな対象に加えるよう求める声が強く出されているが、実現していない。

満蒙開拓団など国策によって中国に渡り両親とも日本人である中国残留孤児と、個人の意思で移民した日本人男性の子である比残留2世は違う、といった指摘もある。しかし当時の国籍法は日本、フィリピンとも父系主義を採っており、日本人を父に持つ残留二世は当然、日本国籍を取得する権利を持ち、理のない指摘である。

日本―フィリピンの国交が56年に正常化しているのを受け「残留2世は自己意思で現地に残った」といった声もある。逃亡生活など過酷な環境を生き抜いてきた残留二世の厳しい現実を知らない無責任な見解と言うしかない。

同様の「自己意思残留」は、終戦直後、共産軍との内戦を前に国民党軍閥の働き掛けで約2500人が現地に残された山西省残留日本兵の恩給訴訟でも見られた。国は、既に戦争が終わっていたことを理由に「現地に残ったのは自己意思」と主張し、最終的に請求棄却の判決が確定したが、旧日本軍の鉄の規律からも国民党軍への参加が上官の“命令”であったのは容易に推察できる。時に“逃亡兵”の汚名さえ着せられた元日本兵の無念は察するに余りある。

日本の戦後処理対策は一義的に厚生省(現厚生労働省)の援護局に行った。かつて司法、厚生省記者クラブで戦後補償関連の訴訟や援護行政を取材した体験を踏まえれば、戦後処理という重大なテーマを前に、国は少なくとも「省」単位の大きな組織を立ち上げ、明確な対処方針を決めた上で総合的、体系的に取り組む姿勢が必要ではなかったかと思う。

台湾人元日本兵の補償ひとつ取っても、52年の日華平和条約で元日本兵は日本国籍を喪失しており、「受け身」の姿勢で処理するのは難しい。大局に立った国の判断こそ不可欠であった。軍人、軍属ら240万人が戦地に散り、半数弱の113万人分が未収用状態にある遺骨収集について最近、あらためて新法をつくり、「国の責務」で10年間かけ、集中的な取り組みを目指す動きが出ている。戦後処理は今もなお、途上にある。

比残留2世に関してもフィリピン政府が近年、父親が日本人と確認された2世に対する認証証書の発行に踏み切っている。日本政府もこうした動きを受け、前向きに対応するべきである。そうすれば就籍の審判にも弾みがつき、「日本人の証」を手にすることなく故人となった残留2世の名誉回復にもつながる。

 
今回来日した残留2世は男性5人、女性2人。この春、鹿児島出身の父の身元が判明し就籍が認められた男性1人を除く6人は父親の手掛かりを求める一方、東京家裁での調査官面接に臨む。年齢は平均73・3歳。日本国籍の取得は、時間との戦いでもある。

国の名によって行われた戦争の被害は国の名で救済されなければならない。それが国の求心力、尊厳を守り、国際社会に対し必要な主張を毅然行う姿勢にもつながる。(了)
歴史認識 [2014年01月14日(Tue)]
“内向きの時代は終わった”
積極的な発言こそ国を守る


日本の歴史認識に対する欧米各国の目線が厳しくなっている。安倍晋三首相の「戦後レジームからの脱却」に対する警戒感があるのかもしれない。しかし一番の原因は中国、韓国との情報戦に大きな後れを取っている点にある。内向きの時代は終わった。前回触れた安倍首相の靖国参拝も、結果だけを見れば中韓両国に日本攻撃の口実を与える“オウンゴール”のような気がするが、日本の考えを内外に伝えようとする積極的な姿勢そのものは評価したい。

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新春の霞が関


欧米の主要メディアの中には安倍首相を「ナショナリスト」、「歴史を美化する修正主義者」と批判する向きがある。戦後レジームからの脱却を、第2次大戦後、連合国側が作った国際秩序に対する挑戦と見る警戒感の表れとみていい。A級戦犯が合祀されているのを理由に、首相の靖国参拝を「日本の戦前回帰」、「軍国主義の肯定」とする批判も同じ流れにある。

中韓両国の日本攻撃には戦後の国際秩序、即ち第2次大戦での「戦勝国―敗戦国」の図式の維持を訴える限り、連合国メンバーだった国々は付き合わざるを得ない、といった強かな計算がある。ロシアが中国の呼び掛けを受け、「日本の一部勢力は、第2次大戦の結果をめぐり、世界の共通理解に反する評価をしている」と“遺憾の意”を表明したのも、この一環だ。

しかし仮に誰かが望もうと、日本の戦前への回帰や軍国主義の復活は有り得ない。中国人、韓国人に限らず、日本に来て、直にこの国を見たことのある人なら、そうした批判が程遠い現状を実感しているはずだ。自由と民主主義、豊かさに慣れ、責任・義務感が希薄になったこの国の国民、さらに政治家に軍国主義を鼓吹し、受け入れるような気概や土壌はない。笛吹けど踊らず、である。

しかし内外メディアの報道を見ると、「国家の指導者としての責務を果たした」(産経新聞)、「(靖国問題で)自らを被害者だと位置付ける中韓の主張は一面的な見解だ」(インドネシア・コンパス)といったいくつかの記事を除くと、「日本の右傾化と軍国主義の台頭に関する米国の懸念に決定的に油を注ぐ」、「日本のリスキーなナショナリズム」、「日中韓3国の関係改善を促していた米政府の努力を無にする行為」など概ね、批判・懸念を表明する論調が多数を占めるようだ。
 
中には、「安倍首相が“靖国参拝で中国との関係が悪化すれば尖閣をめぐる緊張が増し、集団自衛権の行使や憲法改正に追い風になる”と考えている」、「安倍首相が日米同盟を試しにかかっている」などと分析した記事も目に付いた。

これらの論調は言葉の上で一理あるとしても、日本の現状を考えれば絵空事でしかない。一度、自由で豊かな社会を知った国が、個人の自由を奪い、国家への奉仕を強制する社会に逆戻りするのは難しい。希望的な観測と言われるかもしれないが、筆者はそう考える。

日本の平和主義はもっと声高に主張されなければならない。中国や韓国が日本を封じ込め、外交上の譲歩を引き出す強力な武器でもある歴史認識問題を止めることは有り得ない。沈黙を守れば、国民の不満が増し、それこそナショナリズムの高揚、右傾化の危険が出てくる。

日本財団の仕事でインドや東南アジア諸国を訪れ、「独立できたのは日本のお陰」といった声とともに、「発言しないから誤解される」、「日本として、もっとメッセージを出すべきだ」といった指摘を何度も受けた。積極的な発言こそ、この国を守る最大の武器である。(了)
虎頭要塞を訪ねて [2013年09月23日(Mon)]
本当の終戦は8月26日
玉砕の地、虎頭要塞


中国では第2次世界大戦の終結を1945年の8月26日としているそうだ。関東軍がソ満国境に築いた「虎頭要塞」を舞台にした旧ソ連軍と日本軍の攻防が終結したのが、この日だからだ。17日前の8月9日、突然、対日戦に参戦した旧ソ連軍は高度の兵器を装備した2個師団2万人、対する日本側は第15国境守備隊の兵員約1500人と開拓団員約1400人。兵員ばかりか武器の多くも南方戦線に送られ、日本軍は文字通り玉砕、生存者はわずかに53人だったとされている。

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第二次世界大戦終結地記念園

▼生存者はわずか53人
8月初旬、現地を訪れると、主陣地があった猛虎山一帯は黒龍江省の重要文化財として「第二次世界大戦終結地記念園」に整備され、「侵華日軍 虎頭要塞遺址博物館」と名付けられた地下要塞には観光客があふれていた。旧満州へのソ連軍の進行を阻止し、ウスリー江対岸のシベリア鉄道の遮断を目的に地下40bまで掘り下げられたという要塞は未発掘の部分も多く、遺骨も残されたまま。地下道を進むうち“無念”の声が聞こえてくるようで、先の敗戦をどう“総括”すべきか、いつもながらの戸惑いを覚えた。

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「8・26が対日最後一戦」の記述

今回、中ロ国境地帯を訪れるまでは、かつて関東軍が旧ソ連に対抗するため旧満州国の国境沿いの何ヶ所かに防衛用の軍事要塞を築いた、といった知識しかなかった。関連資料も、学徒兵として虎頭要塞に転属され、ハバロスクでの抑留生活を経て復員した岡崎哲夫氏の「秘録 北満永久要塞 関東軍の最期」(1964年・秋田書店)、2005〜07年にかけて行われた日中共同学術調査の日本側調査報告書「第二次世界大戦最期の激戦地 ソ満国境の地下に眠る関東軍の巨大軍事要塞」(発行・虎頭要塞日本側研究センター)など限られているようで、フリー百科事典・ウィキペディアの記述も少ない。

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41_榴弾砲の巨大な砲座跡

兵員、装備は南方戦線に

これらによると虎頭要塞は中ソ国境を流れるウスリー江沿いの猛虎山、虎北山、虎東山、虎西山、虎嘯山の5つの山の要塞からなり、1935年前後から建設が始まった。主陣地猛虎山でみると、鉄筋コンクリートで固められた地下要塞には銃眼や弾薬庫、通信司令室、戦闘司令室、発電所、食糧庫、井戸、調理室などが備えられ、1万人の兵員を3ヶ月養える食糧、被服、弾薬、燃料を蓄え、周辺には東洋最大といわれた口径41aの榴弾砲をはじめ各種要塞銃砲、対空高射砲、対戦車速射砲などが備えられていた。

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現在も頑丈な地下要塞

国境守備隊1個師団1万2千人が配備された。しかし、その後、南方戦線の悪化で兵員、軽砲など主要な武器・弾薬は南方に移され1945年春には国境守備隊も解体、ソ連軍参戦直前に第15国境守備隊が再編成されたが、その数は1500人弱、周辺から避難した開拓団員の中には女性や子供も多く、戦車、ロケット砲、戦闘機を装備したソ連軍の前になすすべもなく玉砕した。

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近くには虎園も

▼使者を斬殺

絶望的な戦いが進められる中、守備隊も8月15日の無条件降伏の玉音放送を聞いた。しかし戦闘司令官の大尉は謀略放送として信じず、3日後にソ連軍の軍使として訪れた日本人を斬殺した。岡崎氏は書籍の中で「玉音放送はうまく聞き取れず、それまで天皇がマイクロフォンの前に立つというようなことはなかったのだから、真偽の判断に迷ったのも無理はない」と記している。

第二次世界大戦終結地記念園を訪れると、整備された園内には中国語と英文を記述した掲示板が何本も立てられ、中国人の若者がはしゃぎながら記念写真を取っていた。虎頭要塞遺址博物館の地下道は大人が立って歩けるほどの大きさで、穀物庫や風呂の跡もあり、極めて堅牢なつくり。裏手に回ると、41a榴弾砲の巨大なコンクリート製の砲座跡が残されていた。

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虎林市繁華街 以前訪れたハバロスクの街並みとそっくりだった


船でウスリー江を溯ると、対岸のロシア側、さらに中国側にも監視塔があり、カメラの望遠レンズを通して見る限り、ロシア側に人影はなく、中国側は無人、中年の女性が床にロシア製のみやげ物を並べていた。

ウスリー江はアムール川の支流。中州である珍宝島(ロシア名・ダマンスキー島)の帰属など中国と旧ソ連の間で国境紛争が続いた当時の緊張感はなく、北3分の1が中国領、南3分の2がロシア領となっている興凱湖(ロシア名ハンカ湖)の中国側湖畔は海水浴場として賑わっていた。

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ウスリー江両岸に立つロシア(上)、中国(下)の監視塔

先の大戦の日本軍ゆかりの地を訪ねると、いつも思うことがある。あの大戦にどのような大儀があろうと、戦勝国が作った戦後の国際秩序の中で敗戦国が主張できる余地は極めて少なく、時には沈黙を余儀なくされるということだ。虎頭要塞に関しても、ロシアの南進を防ぐのが目的だったといっても中国人に理解されることはない。残された“不の遺産”のあまりの重みに言葉もない。(了)

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興凱湖畔は海水浴場になっていた


(追)今回の中ロ国境訪問は日本財団の事業に伴う出張の一環で、黒龍江省社会科学院のお世話になった。また「秘録 北満永久要塞 関東軍の最期」に関しては、出版から半世紀近くも経った今も秋田書店に4冊が保存されており、うち1冊を提供いただいた。著者の岡崎氏は1955年に起きた森永ヒ素ミルク中毒事件で長女が被災、全国被災者同盟協議会の委員長を務められたことも本書で初めて知った。
フィリピン残留2世国籍問題 [2011年08月29日(Mon)]
時間の経過に埋没させるな
比外務省の認証証書評価を


フィリピン残留日本人2世7人が8月、来日した。彼らは日本人を父に持ちながら、その身元が判明しないため日本国籍が取得できず、多くは無国籍状態で極貧の生活を余儀なくされている。しかし過去5回の訪日調査と同様、祖国に対する不満や注文は今回も出なかった。一方で戦後66年を経て“日本人の証”を手にしないまま故人となる2世も目立って増えた。このままでは問題は時間の経過の中に埋没する。国の名で行われた戦争に伴う犠牲は国の名で救済されなくてはならない。

焦点は日本側の評価

今回の訪日調査では、一行の一人、奥間パシータさんの父親・奥間萬蔵さんが沖縄県・伊是名島に健在であることが確認され、66年ぶりに喜びの対面をした。訪日調査で親子対面が実現したのは初めて。終戦時、31歳、働き盛りだった萬蔵さんは97歳、3歳の幼児だったパシータさんは69歳、歳月の長さをあらためて実感する対面となった。


比外務省の認証証書


今回の訪日調査では、もう一つ新たな“進展”があった。残留2世の父親が日本人であることを認めたフィリピン外務省の認証証書の発行である。認証は1995年から日本の外務省が進める実態調査の一環としてフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)やフィリピン日系人協会が現地で行った調査結果を基に「残留2世は日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれた」などと記している。当時の国籍法は日比両国とも父系主義を採っており、これによりフィリピン外務省は理屈上、残留2世が「日本人」であることを追認した形となり、今後は日本の司法、行政がこれをどう評価するかがの焦点となる。

残留日本人2世は戦争がなければフィリピン社会で幸せな生活を築いていた。彼らは間違いなく戦争の犠牲者である。同様に終戦前後の混乱で両親と離ればなれになった中国残留孤児の場合は日中両国政府が口上書を交換、該当者に孤児証明書を発行することで就籍手続きは大きく前進し、既に1350人が日本国籍を取得している。

自己意思残留は酷な決め付け

これに比べフィリピン残留二世の国籍取得が遅々として進まない背景には、次のような両者の違いが指摘されている。中国残留孤児が両親とも日本人であるのに対し、残留2世は父親だけが日本人。現地に渡った理由も、前者は国が進めた満蒙開拓だったのに対し、後者は個人の自由意思。さらに日中間は1972年まで国交がなかったが、フィリピンとは戦後も国交があり音信、渡航も自由だった。従って残留2世が現地に残ったのは「自己意思残留」に当たる。


沖縄の空


さらに中国残留孤児対策を進める根拠となった「中国残留邦人等の円滑な帰国の支援及び永住帰国後の自立の支援に関する法律」(支援法)は対象を「旧満州、旧ソ連、樺太に取り残された両親が日本人の子」に限定しており、フィリピン残留2世は対象にならない、との説明もされている。行政は法律や法令の執行機関であり、残留2世問題に対応するには支援法の改定か残留2世の救済に向けた新たな法律が必要といった指摘もある。

しかし、日本人の父から生まれた子供は日本国籍を有する、とした国籍法は残留2世問題が発生した終戦時に存在しており、支援法の制定はずっと後である。残留2世にとっては国籍法がすべてであったはずである。自己意思残留に至っては敗戦後、現地に残された2世が母親とともに「敵国人の子」として追われ、山野を逃避行する中で日本人の父との関係を裏付ける写真や婚姻証明書、出生証明書を捨てた悲惨な歴史を見れば、あまりに酷な決め付けである。

国としての正義

となればフィリピン外務省の認証証書を中国残留孤児の孤児証明書と同様に扱うことこそ問題を早期に解決する道である。日本政府が認証証書を公式に評価するなり、東京家裁が就籍の審判に積極的に認証証書を取り込む方法である。支援法の改正や新法の制定は、これまでも何度か指摘されたが本格的な議論にはならず、時間がかかり過ぎるからだ。日本の外務省も引き続き調査を支援する方針を明らかにしており、厚労省も終戦時、米軍施設に収容された軍人・軍属の名簿など手持ち証拠の提供など協力の姿勢と聞く。検討の余地は十分あるはずだ。

1995年の調査で残留2世と判明した約3000人のうち親の身元が未判明だったのは約900人。このうち64人が東京家裁で就籍が認められ、80人が係属中となっている。さらに約200人について日本財団の支援でPNLSCが就籍を申し立てるための調査票を整備する段取りだ。

残る約500人は既に故人となった。後は時間との戦いである。司法・行政の前向きの対応で残留二世が生あるうちに国籍を取得できるよう祈ってやまない。それが国としての正義と考える。(了)
比残留2世 [2011年01月13日(Thu)]
比2世の国籍問題にも通じる首相発言
「なぜ、こんなことに」


菅首相は2011年の年頭会見で、先の大戦で戦没した旧日本軍の軍人、軍属らの遺骨収集に関連して「御遺骨を家族の元に返すことは国の責任」と述べた。消費税を含めた税制改革や米軍普天間飛行場移設問題、解散・総選挙、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)など山積する重要課題の陰に隠れ報道対象にならなかったが、昨年12月に訪問した太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島での遺骨収集作業について「多くの遺骨が残されていることを知ったときに、なぜこんなことになっているんだろうと不思議に思いました」とも語った。



会見で首相は今年を明治維新、戦後に続き日本人全体が世界に向かって羽ばたく「新たな開国元年」としたいと述べたうえ、開国を進めるには「国民がおかしいと思っていることにしっかり取り組んでいく」として遺骨収集問題に言及した。当然、なされるべきことがなされないままでは国に求心力がなく、それでは新たな開国を進めるのは不可能、との認識と理解する。

国としての求心力の問題

先の大戦では約240万人の旧日本軍人、軍属らが死亡した。これまでに収容されたのは32万柱、引揚者らによる持ち帰り分を含めても114万柱が未収用で、首相が訪問した硫黄島も2万2千人の戦没者のうち収容されたのは約9千柱にとどまっている。遺骨を家族の元に返すのが国の責任であるのは言うまでもない。

戦後処理の関しては遺骨収集に限らず台湾日本兵や山西省残留日本兵、シベリア抑留者の補償問題など多くの課題が積み残しとなっている。首相は厚生省(現厚生労働省)担当大臣経験者として、こうした現実は当然把握されているはずである。そして積み残された課題の一つにフィリピン残留2世の国籍問題があることも承知されていると思う。

この問題に関しては以前にも触れたが、比残留2世は戦中戦後の混乱で「日本人の父」と離ればなれになり現地に取り残された。父系主義をとった当時の戸籍法からも彼らが「日本人」であることに間違いはない。ただし多くは日本の敗戦後、「敵国人の子」として母とともに山中の逃避行を続け、父との関係を裏付ける資料を失った。

家庭裁判所への「就籍」申し立てで日本国籍の取得を目指しているが、父との関係を裏付ける資料の薄さが大きな足かせとなっている。しかし死と同居した逃避行の中で多くの資料が失われたのは本人の責任ではない。日本人の子であることを隠すため自ら捨てざるを得なかった事情もある。残留2世の悲惨な現状が国家の名で行われた「戦争の結果」である以上、被害の救済も国の名で行うのがあるべき姿である。

政府の決断こそ

日本は戦後、世界第2の経済大国まで復興した。一連の戦後処理が徹底されぬまま何故、何故、現在に至ったのか理解に苦しむ面もある。とりわけ比残留2世の場合は就籍の審判で戦後65年も経てなお新たな裏付け証拠を求めるのは無理がある。日本財団が支援するNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」が改めて国籍取得に向けた名簿作りを進めているが、早期解決には中国残留孤児と同様、日比両国政府で日本人の子として認め合うことこそ必要であり、そのために必要なのは日本政府の決断である。

日本人のフィリピン移民は1903年(明治36年)に始まった。当時、この国を統治した米国が避暑地として海抜1500bのルソン島バギオの開発に乗り出し、ここに通じるベンゲット道路の建設工事に従事するためだ。移民者は1903年と04年だけで5千人に上ったとされ、そのまま現地に残った移民者が日系人社会を形作っていく。

日本の敗戦に伴いバギオやミンダナオ島ダバオなど各地で確実に地歩を固めつつあった日系人社会は崩壊した。戦争がなければフィリピン社会の一員として大きな尊敬を集める存在になっていたはずである。近年、日系人社会が再興されつつあるとはいえ、出自が判明しないまま無国籍状態で暮らしてきた比残留2世の戦後はあまりに悲惨であり、老境を迎え多くが日本人の証を手にすることなく故人になりつつある。日本国籍の取得は日本人を父親に生まれた彼らの権利であり、生あるうちにこれに応えることこそ首相の言う「国の責任」であると思う。

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今後も折に触れ、残留2世問題を取り上げたいと思う。それに先立ち戦前のフィリピンにおける日系人社会がどのような社会だったのか、名簿作成に向けた有識者会議のメンバーで写真家でもある古屋英之助さん(77)=横浜市神奈川区=の証言と古屋さんが日系人会の活動紙に寄せた「松籟(しょうらい)の子」「少年の見た戦場 記憶にたどるルソンの残像」から拾った。

豊かな生活


戦前のバギオでの日系人誕生会=元バギオ日本人小学校同窓生提供=

古屋さんはルソン島北部の高原都市バギオの生まれ。熱帯地方には珍しく松林に囲まれた近代的な避暑地でフィリピンの夏の首都、「松の都」とも呼ばれた。当時の在留邦人は約600人。古屋さんは写真技師を営む父と母、それに弟の4人暮らし。大正時代には商業や農業、建築、鉱山など幅広い分野に日系人が根を張り、日本人男性と現地の女性の間に生まれた2世を含め約150人が日本人学校に通った。男子生徒の制服はカーキー色の木綿の半そでに半ズボン、女子は白のブラウスに紺色のスカート。当時の写真に見る在留邦人の生活は豊かで、父親の正之助さんは初代大統領のアギナルド将軍とも親交があった。

メーンストリートにはあった日本人経営のホテルでは自由に日本食も食べられた。映画館では黒澤明監督の「姿三四郎」や美男俳優長谷川一夫、喜劇王エノケン(榎本健一)らの主演作品、さらにミッキーマウスやピノキオ、白雪姫などデイズニー作品も上映され、ジュースやコーラを片手にポップコーンを頬張りながら映画を見たり、父とゴルフや洋弓を楽しんだ思い出もあるという。

そんな生活も小学2年だった1941年12月の開戦で一変、尋常小学校は国民学校に変わり、英語の教科も廃止となり、父親は軍属として戦場に。敗色が深まるにつれゲリラの襲撃や米軍の空爆が激しくなり開戦から3年、日本軍とともに古屋さん母子3人も雨季の山岳地帯へ避難した。昼間は米軍機の機銃掃射が激しく、徒歩による夜間の逃避行。食糧不足に高熱と下痢、迫り来る死の恐怖―。古屋さんは「少年が見た戦場」で「飢えは空腹よりずっと恐ろしい。空腹は胃袋が満たされれば解消するが、飢えは腹いっぱい食べても生理的なひもじさが持続する異常な状態」と書き記している。

山中の逃避行

同行者がばたばたと倒れ絶望的な逃避行を続けるうち、妻子が行き倒れになって死んだらしい、とのうわさを聞き、せめて骨だけでもと探しにきた父と奇跡的に再会。終戦後の収容所生活を経て1945年11月に母子3人、やや送れて父親も帰国した。フィリピン在留邦人の中では稀有と言っていいほどの“幸運”に恵まれたケースであろう。

父親、さらに「母親が倒れたら子供は生きていけない。子供を死なせてしまった母親は生き甲斐を失い、結局、一家全滅となる」と気丈に兄弟を守り抜いた母親も既に他界し、旧満州から引き上げた妻博美さん(72)と当時の記録作りや残留2世の国籍取得支援を進めている。

「仮に第2次世界大戦が起きず、日本とアメリカとフィリピンが仲良く平和を保ち続けていたとしたら、バギオ市民である日本人はこの地域で、どのような生活基盤を築いていたのだろうか」。「松籟の子」に古屋さんがつづった感慨である。(了)

 
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