安土城址に想う
[2012年08月05日(Sun)]
支度が行き過ぎていた?
家康饗応を巡る謎
7月末、10数年振りに安土城址を訪れた。炎天下の中、急な石段を天主跡に向かうと周りは激しいせみ時雨。大手門周辺が整備され、入場料が必要となった他はさほどの変化はなく、大手南面には以前と同様、緑豊かな水田風景が広がっていた。そんな中、近くの文芸の里・信長の館に足を運ぶと、天正10年(1582)、安土城で信長が徳川家康をもてなした際の「安土御献立」を福元したレプリカが展示され、「『将軍の御成りのようで支度が行き過ぎている』と信長が怒り、饗応(接待)役の明智光秀を小姓衆に打たせ、饗応役を解任した」「一般には、この時の仕打ちが原因で『本能寺の変』は引き起こされたとされている」といった説明が付されていた。
▼饗応 復元レプリカ
日本史の謎とされる本能寺の変は何が原因で起きたのか、家康饗応に端緒を求める指摘は、様々な説の一つとして常に登場する。ほんの数点の小説を読んだ知識しかないが、多くは「食材の魚が腐っていた」、あるいは「光秀が用意した京料理の薄味が塩辛い味付けを好む信長に合わなかった」など食材の選択や調理方法に原因を求めており、「料理が立派過ぎた」との説が一般的と言えるほど有力説とは知らなかった。
この時の饗応をめぐっては、信長が家康の毒殺を命じたのに光秀がこれを拒否したため信長の怒りをかった、などの説もあるようだが、残念がら真偽は分からないい。それでも“過剰接待”が原因とする今回の指摘は、「料理が腐っていた」といった通説に比べ説得性があるような気がする。
▼最大級の心配り
光秀は諸学に通じた当代一流の知識人であり慎重な性格だったといわれる。最大限の心配りで饗応役を務めたと思われ、食材の選択や料理方法に手落ちがあったとは考えにくいからだ。むしろ饗応に徹底を期すあまり「家康が盟友ではあっても、あくまで“弟分”であり自分より格下」とみる信長のプライドを結果的に傷つけた可能性の方があり得るように思われるからだ。レプリカの饗応メニューは「続群書類従」に基づき東京福祉大学・大学院理事長の中島範氏が中心となって復元した、とパンフレットで説明されており、学術的な成果と思われる。しかしメニューが当時の食文化の中でどの程度、贅沢な内容だったのか、この点に関しても判断できるような知識はない。
家康が安土に滞在したのは天正10年の5月15日から6日間。光秀は17日、家康饗応役を外され中国地方への出陣を命じられ、半月後の6月2日、本能寺に信長を襲った。主君・信長の度重なる非情な仕打ちに対する怨恨から光秀自身の野望、信長との理想の相違、さらには朝廷やイエズス会による陰謀まで諸説をめぐり専門化だけでなく歴史好事家も巻き込んだ熱心な議論が続いている。
▼石段の石仏に賽銭
冒頭で城址周辺に大きな変化はなかったと記したが、天主に続く大手道石段には石仏や墓石、石塔がいくつか使われ、司馬遼太郎の小説などにも登場する。今回は10数年前には見かけなかった目印が「石仏」に付され、石仏の上には賽銭のつもりか、見学者が10円玉や50円玉を置いていた。石仏や墓石は石不足を解消するため近隣から強制的に供出させ、無神論者・信長があえて人目につく大手道の石段に並べることで神をも恐れぬ強い意志を見せ付けた、と言われている。しかし目の前の賽銭を現代の感覚で眺めると、石仏を並べることで築城や城そのものの安全を祈願した、といった全く逆の解釈にも一理あるような気がするから不思議だ。
▼全山が聖地
今回の安土行きは滋賀県立安土城考古博物館が日本財団の支援を受けて開催する「天智天皇、信長の大船 そして うみのこ」の取材が目的。大沼芳幸副館長によると信長の死後、豊臣、徳川両時代とも城跡だけでなく標高199bの安土山全体が“信長の聖地”として保護されたという。その結果、石段や遺構が破壊されることなく残ったようで、1989年から始まった発掘調査では現在も新しい発見が続いている。
ちなみに信長の出身地は尾張、光秀は岐阜県の東濃。自分の故郷・岐阜にとって信長は“征服者”の一面を持つが、出身高校の応援歌には信長を「乱世の英雄」と称える一語があったと記憶する。石段を登り詰めると天主跡には人影もなく、その静けさが余計、自分のような素人にも勝手な想像を可能にしていると実感した。(了)
家康饗応を巡る謎
天主に続く大手道
7月末、10数年振りに安土城址を訪れた。炎天下の中、急な石段を天主跡に向かうと周りは激しいせみ時雨。大手門周辺が整備され、入場料が必要となった他はさほどの変化はなく、大手南面には以前と同様、緑豊かな水田風景が広がっていた。そんな中、近くの文芸の里・信長の館に足を運ぶと、天正10年(1582)、安土城で信長が徳川家康をもてなした際の「安土御献立」を福元したレプリカが展示され、「『将軍の御成りのようで支度が行き過ぎている』と信長が怒り、饗応(接待)役の明智光秀を小姓衆に打たせ、饗応役を解任した」「一般には、この時の仕打ちが原因で『本能寺の変』は引き起こされたとされている」といった説明が付されていた。
▼饗応 復元レプリカ
日本史の謎とされる本能寺の変は何が原因で起きたのか、家康饗応に端緒を求める指摘は、様々な説の一つとして常に登場する。ほんの数点の小説を読んだ知識しかないが、多くは「食材の魚が腐っていた」、あるいは「光秀が用意した京料理の薄味が塩辛い味付けを好む信長に合わなかった」など食材の選択や調理方法に原因を求めており、「料理が立派過ぎた」との説が一般的と言えるほど有力説とは知らなかった。
石段に使われた石仏と賽銭
この時の饗応をめぐっては、信長が家康の毒殺を命じたのに光秀がこれを拒否したため信長の怒りをかった、などの説もあるようだが、残念がら真偽は分からないい。それでも“過剰接待”が原因とする今回の指摘は、「料理が腐っていた」といった通説に比べ説得性があるような気がする。
▼最大級の心配り
光秀は諸学に通じた当代一流の知識人であり慎重な性格だったといわれる。最大限の心配りで饗応役を務めたと思われ、食材の選択や料理方法に手落ちがあったとは考えにくいからだ。むしろ饗応に徹底を期すあまり「家康が盟友ではあっても、あくまで“弟分”であり自分より格下」とみる信長のプライドを結果的に傷つけた可能性の方があり得るように思われるからだ。レプリカの饗応メニューは「続群書類従」に基づき東京福祉大学・大学院理事長の中島範氏が中心となって復元した、とパンフレットで説明されており、学術的な成果と思われる。しかしメニューが当時の食文化の中でどの程度、贅沢な内容だったのか、この点に関しても判断できるような知識はない。
人気もなく静かな天主跡
家康が安土に滞在したのは天正10年の5月15日から6日間。光秀は17日、家康饗応役を外され中国地方への出陣を命じられ、半月後の6月2日、本能寺に信長を襲った。主君・信長の度重なる非情な仕打ちに対する怨恨から光秀自身の野望、信長との理想の相違、さらには朝廷やイエズス会による陰謀まで諸説をめぐり専門化だけでなく歴史好事家も巻き込んだ熱心な議論が続いている。
信長の館
▼石段の石仏に賽銭
冒頭で城址周辺に大きな変化はなかったと記したが、天主に続く大手道石段には石仏や墓石、石塔がいくつか使われ、司馬遼太郎の小説などにも登場する。今回は10数年前には見かけなかった目印が「石仏」に付され、石仏の上には賽銭のつもりか、見学者が10円玉や50円玉を置いていた。石仏や墓石は石不足を解消するため近隣から強制的に供出させ、無神論者・信長があえて人目につく大手道の石段に並べることで神をも恐れぬ強い意志を見せ付けた、と言われている。しかし目の前の賽銭を現代の感覚で眺めると、石仏を並べることで築城や城そのものの安全を祈願した、といった全く逆の解釈にも一理あるような気がするから不思議だ。
▼全山が聖地
今回の安土行きは滋賀県立安土城考古博物館が日本財団の支援を受けて開催する「天智天皇、信長の大船 そして うみのこ」の取材が目的。大沼芳幸副館長によると信長の死後、豊臣、徳川両時代とも城跡だけでなく標高199bの安土山全体が“信長の聖地”として保護されたという。その結果、石段や遺構が破壊されることなく残ったようで、1989年から始まった発掘調査では現在も新しい発見が続いている。
ちなみに信長の出身地は尾張、光秀は岐阜県の東濃。自分の故郷・岐阜にとって信長は“征服者”の一面を持つが、出身高校の応援歌には信長を「乱世の英雄」と称える一語があったと記憶する。石段を登り詰めると天主跡には人影もなく、その静けさが余計、自分のような素人にも勝手な想像を可能にしていると実感した。(了)