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四季折々の雑記

 30年以上在籍したメディアでは「公」の動きを、その後10年以上は「民」の活動を中心に世の中を見てきた。先行き不透明な縮小社会に中にも、時に「民の活力」という、かすかな光明が見えてきた気もする。そんな思いを記したく思います。


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大震災追想 [2011年07月13日(Wed)]
石柱に残る「海抜1b12a」
何故ここに学校が、悲劇の大川小


全校児童108人のうち74人、教職員13人のうち10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の市立大川小。報道によれば、地震発生後、校庭に集めた児童をどこに避難させるか迷った結果、行動が遅れ、近くの高台へ移動する途中に津波に襲われたという。教師の対応に問題がなかったか議論されているが、訪れてみれば北上川の堤防脇にあるこの学校は海抜1b12a。結果論と言われるかもしれないが、こういう場所を学校用地に選んだことが何よりも問題ではなかったのかー。


海抜1b12aと記された石柱


学校自体も地域の避難場所になっていた。教師や父兄、児童には「学校にいれば安全」との思いがあったはずで、大津波が到来した時「こんなはずはない」「話が違う」といった戸惑いと無念の思いがあったはずだ。自然の力を甘く見たとは言わない。しかし、人間は自然の圧倒的な力を知りながら、時に心の片隅に置き忘れることがある。無残に破壊された大川小を前に、そうした失敗を長く後世に伝える記念碑として校舎は残される必要がある、と感じた。

 6月25日、大川小から約4`先にある廃校の体育館に設けられた「災害取得物預かり所」を訪れた。床いっぱいに瓦礫の中から見つかったアルバムやランドセル、靴、ノートなど思い出の品が並べられ遺族の引取りを待つ。その一角に上空から見た大川小の全景図があった。屋根をオレンジ色に塗った鉄筋2階建の校舎がL字型に配され、丸型の校庭とプールが併設されている。2005年の平成の大合併で石巻市立となったが、それ以前は河北町立の小学校。建設年月日は把握できていないが、超モダンな建物にこの学校の将来にかけた設計者の強い意欲が感じられた。


大津波に襲われた大川小校舎


大川小では25日も自衛隊や宮城県警の行方不明者捜索作業が続き、校門があった辺りだろうか、道路沿いに花を供えた慰霊碑が建てられ、そのすぐ近くに長さ1・5bほどの石柱が倒れていた。大津波で根元から折れたと見られる石柱には大合併以前の河北町立大川第一小学校の「地球上の位置」として緯度、経度とともに「海抜1メートル12センチ」と記されていた。

石柱の存在を教えてくれた黒澤司氏は被災地のボランティアリーダーとして活躍する。自身のブログで大川小について「北上川は日本有数の大河。津波に限らず水害の危険性もおおいに懸念される場所に、この小学校は建っていた」と指摘した上で、今回の惨事について「行政が安全な立地選定を怠った結果による人災だと思う」と記している。


災害取得物預かり所にあった全景図


地元関係者によると、この付近は河口(海)から約4`、北上川沿いの低地であるにもかかわらず何故か津波体験が少なく、今回の津波は1000年に一度といわれる貞観津波(869年)以来ではないか、という人もいる。惨事の後、校舎南側の杉山への避難の可能性について、低学年の児童が激しい余震が続く急斜面を登れたのか議論になっているが、結果論との非難を承知で言えば、あらかじめ階段かスロープを設け、まさかの時は杉山に避難すると決めておけば、これほどの惨事は免れたのではないかー。

現実に2階建て校舎を上回る10b超の大津波が押し寄せ、教師や児童が避難しようとした学校西方の新北上大橋高台も津波に埋もれた。杉山も、その気になれば何とか登れる傾斜と見えるが、当日は地震で斜面が崩れ雪も残っていたとされ、教師がここに避難するのをためらったのも分かるような気がする。そうでなくとも校舎に最も近い杉山の裾は3b近い高さのコンクリート壁で固められており登ることはできない。「ここに階段でもあれば・・」。勝手な想像を繰り返せば、そんな思いがした。

東日本大震災では、東電福島第一原子力発電所事故について当初は、想像を上回る津波が原因と言われ、このブログでもそう書いた。しかしその後、同原発の安全策は過去の地震・津波実績に比べてあまりに過小であり、自然災害より人災の性格が強いことが明らかになりつつある。酷な言い方になるが、大川小の惨事の背景にも同様の問題点を感じる。自然の力を過小評価すれば、いつか大きな付けとなって跳ね返ってくることを永く記憶に留める必要がある。そうでなければ犠牲者は救われない。(了)
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