70年を経てなお語り継がれる不思議
[2019年09月11日(Wed)]
ビルマ・南機関とインド・藤原機関
独立に果たした役割を今も評価
日本人が忘れ去った存在について、外国で高い評価を聞き驚くことがある。旧日本軍の特務機関だった「南機関」と「F(藤原)機関」もその一つであろう。前者はミャンマー国軍の原点でもある「ビルマ独立義勇軍」(BIA)を育て、後者は「インド国民軍(INA)」の創設に尽力し、ともに両国が長い英国支配から脱する原動力となった。戦後70年以上経た現在もその貢献が語り継がれ、親日的な両国の対日観にも繫がっている。
以前、このコラムでも触れたが、8月末から9月上旬にかけ日本・ミャンマー将官級交流プログラム(日本財団主催)でタン・トゥン・ウー中将を団長とするミャンマー将官団10人が来日、8月26日に過去5回と同様、静岡県浜松市にある南機関の機関長・鈴木啓司大佐(当時)の墓を訪れたのを受け、改めて記しておきたいと思う。
南機関は1940年、中国・重慶の蒋介石政権に対する連合国からの軍事物資輸送ルート(援蒋ルート)のうち、ビルマルートの遮断を目的に大本営陸軍部が設置、鈴木大佐は後にビルマ国民に「建国の父」と仰がれるオンサン(アウンサン)将軍=アウンサン・スー・チー国家顧問の父=ら30人を海南島で訓練しBIAを結成した。組織はビルマ国防軍(BDA)、ビルマ国民軍(BNA)などに形を変えながら苦難の末、48年1月に独立を果たした。
鈴木大佐の墓前で敬礼するミャンマー国軍将官団一行
南機関は旧日本軍(南方軍および第15軍)と意見対立しながらも最後までビルマ独立運動を支援したといわれ、ビルマ政府は81年、鈴木大佐未亡人ら南機関関係者7人にアウンサン勲章を贈っている。旧日本軍の影響はミャンマー国軍に今も色濃く残り、3月の国軍記念日には軍艦マーチが演奏されるほか、日本語の訓練用語も多く使われている。
ミャンマー将官団が訪れた鈴木大佐の墓は、「ビルマゆかりの碑」とともに浜名湖を一望する舘山寺大草山の頂上にあり、鈴木大佐やオンサンらがこの地でビルマ独立の秘策を練ったと伝えられる。一行が来日した際、東京都内のホテルで行われた歓迎レセプションで将官の一人に感想を求めると、「われわれは昔も今も(南機関に)恩を感じ、国民の多くも日本の協力に好感を持っている」と語った。
一方のF機関は1940年、陸軍参謀本部がマレー半島の情報収集を目的に設置。機関長だった藤原岩市少佐(当時)による「F機関-アジア解放を夢みた特務機関長の手記-」(出版社・バジリコ)などによると、日本軍の進撃で取り残されたインド兵などを中心にINAが組織され、シンガポールが陥落した42年2月には、英軍部隊に所属していたインド兵約5万人を前に藤原少佐が大演説を行い、自らの力で自由と独立を戦い取るよう呼び掛け、インド兵に熱狂と感動を呼んだ、とされている。
藤原少佐が暮らしたコヒマ近郊の民家
藤原少佐は同4月に南方戦線を離れるが、44年3月に始まったインパール作戦では、ビルマ方面軍第15軍、31師団が進攻したインド・ナガランド州の州都コヒマの近郊に約1000人の部隊と布陣、作戦にはインド独立の英雄チャンドラ・ボース率いるINAも参加したが圧倒的な装備を誇る英軍の前に大敗した。しかし独立運動は終戦後さらに勢いを増し、インドは47年、独立を勝ち取った。
日本財団の支援で完成したインパール平和資料館の開館式が行われた6月末、藤原少佐らが展開したコヒマ郊外の村を訪ねると、古老が「日本がわれわれを解放してくれると信じた。メイジャー・フジワラ(藤原少佐)は村人と気さくに話し誰もが好感を持った」と語り、出てきた子供も「コンニチワ」と日本語であいさつした。親から教えてもらったそうで、「われわれが今あるのは日本のお陰」と繰り返し、藤原少佐が地元女性と暮らした古い民家にも案内してくれた。
南機関、藤原機関の活動は英国に勝つための諜報工作であり、そのまま肯定的に評価するのは難しい。ただし、軍の方針に反してまで独立運動を支援した鈴木大佐やインド兵を熱狂させた藤原少佐の大演説を見ると、二人にはミャンマー、インドの独立に向けた強い信念と情熱があったように思う。ともすれば内向きが指摘される戦後外交を前にすると、あの時期にどうして、このような動きが可能だったのか、不思議な気さえする。