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四季折々の雑記

 30年以上在籍したメディアでは「公」の動きを、その後10年以上は「民」の活動を中心に世の中を見てきた。先行き不透明な縮小社会に中にも、時に「民の活力」という、かすかな光明が見えてきた気もする。そんな思いを記したく思います。


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遅れる比残留2世の国籍取得 [2015年07月30日(Thu)]

われわれは“棄民か”と思ったことも
日系人連合会・カルロス前会長に聞く


フィリピン残留日系人2世の国籍取得問題で7月下旬、フィリピン日系人会の代表7人が来日、安倍晋三首相に早期解決を求める要望書を日系人ら約2万8000人の署名簿を添えて提出、安倍首相は「日本人としてのアイデンティティーを取得したいという思いは当然で、政府としても、しっかりと協力させていただきたい」と答えた。残留2世の平均年齢は既に76歳、“日本人の証”を求める彼らの願いは時間との戦いでもあり、戦争が国の名で行われた以上、それに伴う被害も国の名で回復される必要がある。一行の代表を務めたフィリピン日系人連合会のカルロス寺岡前会長(84)に国籍取得にかける思いを聞いた。

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「一時も早く全員に日本国籍を!」と訴えるカルロス寺岡前会長

―フィリピンに取り残された日系人について厚生省(現・厚生労働省)が初めて調査を行ったのは戦後40年近く経た1980年代後半、何故、これほど長い空白があったのでしょうか?

「日本人と名乗れる雰囲気はなかった」

現地に在住した日本人の多くは日本軍に軍属として徴用され死亡、生き残った人も米軍捕虜として収容された後、日本に強制送還されました。日本軍の敗色が濃くなる中、残された母と子(残留2世)の多くは、敗走する日本軍とともに山中を逃避行し、多くが米軍の空爆などで命を失ったのです。私も母や妹、弟ら8人で逃げ、途中で母ら5人が命を落としました。
反日感情が渦巻く中、「敵国人の子」としてゲリラの攻撃対象にもなり、誰もが日本名や父親との関係を示す写真や資料を捨て、日本人であることを隠してひたすら生きてきたのです。私自身は生き残った妹といったん父の出身地である山口県に戻りましたが、父の戸籍に自分や妹の名はなく日本国籍がないまま7年後、フィリピンに戻りました。
60年代にミンダナオ島のダバオに初の日系人会が結成されました。それまでは日本人と名乗れるような雰囲気ではなかったのです。そんな中で80年代に初めて厚生省が現地調査しました。どういう調査をしたのか、今でも知りません。後日、「フィリピンに取り残された日系人はいない」との結論になったと聞き、「われわれは日本政府からも見捨てられた“棄民”なのだ」とつくづく思いました。


―95年には外務省もフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)や日系人会に委託する形で調査に乗り出していますが?

「希望すれば日本に帰れた、というのはあまりに無責任」

戦後半世紀を経て、さすがにフィリピンの反日感情も和らいでいました。日系人会も10ヵ所以上で立ち上がり連合会もできました。その中で多くの残留2世が無国籍状態で悲惨な生活を強いられていることが次第に明らかとなり、あらためて調査する必要が出てきたのでしょう。56年7月の日比平和条約の締結で国交が回復しており、「希望すれば日本に帰れた」などという声もあるようですが、残留日系人が置かれた悲惨な状況を知らない、あまりに無責任な意見です。

―その調査の結果として外務省はフィリピン残留2世の総数を3545人、うち父親の身元が判明し日本国籍を取得した2世は1058人(311人は既に死亡)、父親は分かっているものの戸籍に2世の名が登載されていない、などの理由で国籍を取得できてない人1676人(同759人)、父親が日本人であることは分かっているが、その戸籍の所在が分からない2世811人(同529人)としていますが、この数字をどう見ますか?

「新しい証拠の発掘は不可能」

実質的な調査はPNLSCと日系人会が行っており、数字はこれまでに把握できた結果ということになりますが、個人的には、離島などに残されたままの残留2世や日本人であることを名乗り出ない2世もまだいると思います。いずれにしても残留2世の半数弱(1599人)が故人となり、父親が日本人と判明しながら国籍取得の夢を果たせないまま亡くなった残留2世も1288人に上っています。一刻も早く、国籍取得を加速させていただきたい。2006年以降217人が、新たに戸籍を設け日本国籍を取得する「就籍」の申し立てを東京家庭裁判所に行い157人が日本国籍を取得していますが、このままではとても間に合いません。日本人の証拠を自ら捨てざるを得なかった経過や70年の歳月の流れを前にすれば、これから新しい証拠を発掘するのは最早、不可能です。


―同じように終戦の混乱の中で現地に取り残された中国残留孤児の場合は、日中両国政府が協力して孤児名簿を作成、名簿に登載された孤児の就籍の審判を加速し、既に1250人が日本国籍を取得、帰国後も中国残留邦人支援法などで手厚い支援が行われています。中国残留孤児は国策により満蒙開拓団などに送り込まれた両親とも日本人の子、父親が自己意思でフィリピンに渡り現地の女性と結婚してできた残留2世とは立場が違うといった指摘もあるようですが、どう思いますか?

「父の国と母の国の戦い」

フィリピン移民は、1903年にルソン島の山岳地帯の道路建設の契約労働者として3000人近い日本人が移住したのが始まりで、その後、ダバオを中心にした麻農園の開拓などで移民が増え、最盛期には全体で3万人、ダバオには2万人の日本人町も形成され豊かな生活をしていました。戦争ですべてが崩壊したのです。逃亡生活の中で教育を受ける機会もなく、長い間、どん底の生活を余儀なくされています。どちらも戦争の犠牲者であり、残留2世は父親だけが日本人という指摘も父系主義を採った当時の国籍法から、本人の国籍問題には何の影響もありません。それに残留2世にとって、あの戦争は父の国と母の国の戦いでした。その分、生き延びるのも大変だったのです。

―日本国籍を取得できていない残留2世の多くは長い間、無国籍状態にあるようですが、日常生活に支障はないのですか?

「日常生活は一種の“なり済まし”」

残留2世の子や孫はフィリピンで生まれフィリピン国籍を持っています。従って家族の中で残留2世だけが無国籍ということになりますが、日常生活では一種の“なり済まし”ということになるでしょうか、収入があれば税金を支払い、政府のサービスも受け、選挙で投票もできます。ただしパスポートの取得は無国籍では難しく、晴れて日本国籍を取得すると、これまで70年間、無国籍のまま違法に滞在したということで罰金問題も出てくるようです。現に日本国籍を取得して母国を訪問しようとしたところ300万円を超す罰金の支払いを求められた残留2世もいます。それこそ長年、問題を放置した結果であり、残留2世に求められてもできない相談です。日比両政府の間で早急に解決していただきたい。

―今回の訪日で安倍首相も協力を約束し、外務省も現在、PNLSC、日系人会に委託して進めている「フィリピン残留日系人2世名簿」の作成に当たり、今後は在フィリピン大使館員を調査に立ち会わせ、就籍の審判では名簿とともに調査に立ち会った旨を証明する書類を提出するとしています。家裁の裁判官が、これを持って“中国残留孤児と同様、日本政府が残留2世の身元を保証した”と解釈すれば、就籍の審判が加速する可能性も期待できる。この点をどう受け止めていますか?

「誰もが日本人として死にたいと願っています」

これまではPNLSCや日本財団の支援がほぼすべてでした。今回、安倍首相に直接、会っていただき、日本政府も積極的に対応していただけるのではないかと希望を膨らませています。フィリピンに帰国して同胞にもその旨、報告したい。日本人を父親として生を受けながら、日本国籍を取得できていない人は、判明しているだけでも1199人に上ります。誰もが日本人の血を誇りに思い、日本人として死にたいと願っています。残された時間は多くありません。日本での3世、4世の就労にも影響します。対応を急いでいただくよう切にお願いします。

[カルロス寺岡氏]
1930年12月、山口県・大島町出身の日本人男性とフィリピン人の母の3男としてルソン島のバギオで生まれた。父は大戦が始まる4ヵ月前、結核で死亡。その後、長兄は日本軍憲兵隊に、次兄はフィリピンゲリラに殺害され、バギオが陥落した45年4月、14歳で母と妹2人に弟、叔母と2人のいとこの計8人で日本軍の後を追ってルソン島の山中に逃げた。
5ヶ月に及ぶ逃避行の中で母と妹、弟、叔母、いとこの5人が米軍の砲弾などに倒れた。生き残った3人が戦争終結後の9月、米軍捕虜収容所に収容され、妹のマリエさんといったん日本に渡った後、21歳でフィリピンに戻り、98年、マリエさんとともに、ようやく日本国籍を取得した。1998年から12年間、フィリピン日系人連合会会長、95年から15年間、在バギオの名誉総領事も務めた。 (宮崎正)


比残留2世国籍取得問題(日本財団ブログ)
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