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四季折々の雑記

 30年以上在籍したメディアでは「公」の動きを、その後10年以上は「民」の活動を中心に世の中を見てきた。先行き不透明な縮小社会に中にも、時に「民の活力」という、かすかな光明が見えてきた気もする。そんな思いを記したく思います。


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”薄幸”の女性と川端康成 [2015年02月26日(Thu)]
笹川良一との少年時代
ハンセン病がつなぐ不思議な運命

 東京都内で1月末に開催された講演会「文芸で見るハンセン病」を傍聴して気になっていたことがある。「川端康成に支えられた作家」のサブタイトルが付された講演会は、自身のハンセン病体験を基に「いのちの初夜」を書いた北條民雄とノーベル文学賞作家川端康成の関係がメーンテーマとなった。

北条民雄イベント_表-247x350.jpg

1月30日に開催された「文芸で見るハンセン病」パンフ

北條は「いのちの初夜」が雑誌「文学界」に発表された翌年(1937年)、24歳で夭逝するが、川端は文学界への発表だけでなく、北條の死後も全集の出版に奔走し、ノンフィクション「火花」で北條の生涯を描いた作家高山文彦氏は、川端の姿を「異常なまでの尽力」と表現した。

話はやや外れるが、川端康成と日本船舶振興会(現・日本財団)初代会長の笹川良一は大阪府三島郡豊川村(現在は箕面市と茨木市に分村合併)の尋常高等小学校の同級生だった。工藤美代子氏の「悪名の棺 笹川良一伝」(幻冬舎)などによると、川端は1899年、大阪府大阪市北区此花町に生まれた。2歳の時に開業医だった父・栄吉、3歳の時に母・ゲンが亡くなり、祖父・三八郎と祖母・カネとともに原籍地の大阪府三島郡豊川村に移り1906年、豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した。

 笹川家は豊川村の西に位置する小野原、川端家は東の宿久庄にあり、「両家の距離は約1里で、ほぼ中間に小学校があるという位置関係」(「悪名の棺」)だったが、良一の父・鶴吉と三八郎が碁敵として親交があり、笹川良一と川端康成も頻繁に行き来し、川端が旧制茨木中学校(現大阪府立茨木高校)を卒業するまで親しい関係が続いたようだ。

 ここで登場するのが笹川良一とハンセン病との出会い。3男の笹川陽平・日本財団会長は著書で以下のように記している。
「父は、生家の近くに住む、ある美しい娘さんに思いを寄せていた。父の初恋だったようだ。その娘さんがある日とつぜん、失踪してしまった。噂によれば、『ハンセン病にかかった』というのが失踪の理由であった」、「このことに、若き日の父は大きな衝撃と同時に、怒りを覚えたようだ。・・こうして、青年だった父の胸に『いつか、きっとハンセン病をやっつけてやる』という決心が生まれた」(幻冬舎「残心」)。

「父の子供時代、家の近くにライの患者がいる家がありました。その家には美しい娘さんがいましたが、好きな人と結婚できず、悲嘆にくれて行方不明になりました。それを見て父は、『大きくなったらライをやっつけなくてはならない』と決心したのです」(「知恵ある者は知恵で躓く」クレスト社)。

 「父の子供時代」というのが何歳の時で、当時「美しい娘さん」がどの程度の歳か、同じ話が記載されている他の著作を見てもはっきりしないが、「好きな人と結婚できず」の記述からも10歳ぐらいは歳上で、笹川良一が抱いていたのは「初恋」というより、美しい年上の女性に対する「憧れ」に近い想いだったのではないか。

 一方「美しい娘さん」と川端康成の関係は一切触れられていない。しかし川端康成と笹川良一との交遊や狭い地域社会を考えれば、川端もこの女性の存在を知っていたと考えるのが自然だ。川端康成は両親に続いて小学校時代に祖母、姉を亡くし、15歳の時には祖父三八郎も亡くなり“孤児”となった。

「ひよわで感受性の強い子どもだった」(佐藤誠三郎著「笹川良一研究」・中央公論社)川端康成が孤独な日々の中で美しい娘さんの“薄幸”に傷つき、その後も永く“悲しい思い出”として記憶の中に持ち続けたのではないか。

 川端康成は北條民雄の他にも多くの若手作家を育てており、一連の「尽力」はもちろん北條の才能にほれ込んだのが一番のきっかけであろう。しかし高山氏が言うように異常なまでの支援の裏には、そんな関係もあったような気がしてならない。

 となると「美しい娘さん」は、一方で笹川良一を世界のハンセン病の制圧に走らせ、他方で川端康成を通じハンセン病作家・北條民雄を大成させたことになり、3者の関係に不思議な運命さえ感じる。

 笹川良一と川端康成は高等小学校卒業後、別々の道を歩み離れ離なれとなるが、戦後、交流を復活、「残心」には「(二人の間で)ハンセン病に関することや、・・ひょっとしたら、なつかしい故郷の話とともに、とつぜん行方不明となった父の初恋の女性のことも話題になったであろう」と記されている。

 「美しい娘さん」に対する川端康成の思いはあくまで筆者の想像である。しかし十分にあり得た話と考えている。(了)
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