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四季折々の雑記

 30年以上在籍したメディアでは「公」の動きを、その後10年以上は「民」の活動を中心に世の中を見てきた。先行き不透明な縮小社会に中にも、時に「民の活力」という、かすかな光明が見えてきた気もする。そんな思いを記したく思います。


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戦後60年に思う [2005年10月31日(Mon)]
  
晴らされぬ“汚名”
山西省残留日本兵


 戦後60年目の秋―。戦後処理にかかわるひとつの訴訟が最高裁で終止符を打った。訴訟名は「山西省残留日本兵恩給訴訟」。原告は山西省で敗戦を迎えた後、国民党と共産党の内戦に巻き込まれ、抑留を経て帰国した元日本兵。「自己意思による残留」として恩給支給申請が棄却され、時に“逃亡兵”の汚名も受けた。原告が求めたのは恩給支給よりも「現地に残ったのはあくまで軍命であった」との“名誉回復”。敗戦直後の混乱の中での出来事とはいえ、国民党軍への参加が上官の意向、命令であったことは旧軍の鉄の規律からも想像に難くない。旧日本兵は国家の名で召集され、戦地に送られた。それに伴う損害や名誉は国家の責任で回復されなければならない。そうでなければ国家としての求心力は失われるー。上告審の結果を前にそんな思いを改めて強くする。

20051031-1.jpg

特務団として新たな戦争に

 上告審の原告は奥村和一さん(81)=東京都中野区=ら5人。昭和16年から20年にかけ旧日本軍に入隊、中国山西省で北支派遣軍第1軍(5万9千人)に所属し終戦を迎えた。国民党に降伏手続きを取り復員することになっていたが、日本の敗戦後、中国は国民党と共産党の内戦状態に。降伏相手の山西軍は国民党系の軍閥で、中共軍に比べ装備、軍力とも劣勢だった。
 
 山西軍からの強い働きかけ、工作もあって結局2563人の将兵が「特務団」を編成して現地に残留し「新たな戦争」に参加。最終的に約700人が中共軍の捕虜となり抑留を経て昭和28年から31年にかけようやく帰国を果たした。

恩給請求棄却
 
 この間の経過を戦後、旧軍の残務処理を進めた厚生省(現厚労省)の引揚援護局未帰還調査部が「山西軍参加者の行動と概況について」と題する報告書にまとめ、昭和31年、衆院の「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」に提出。山西軍に参加した残留兵について「旧日本軍による全員帰還の方針に応ぜず、自己の意思で残留した」と結論付けた。軍命令に反し勝手に行動したことになり、時に“逃亡兵”の汚名も受けた。

20051031-2.jpg

 恩給は原則として准士以上の旧軍人は13年以上、下士官以下は12年以上在職した場合に支給対象となる。残留兵の場合、終戦までの在職期間は長いケースで4年程度。山西軍への参加―抑留期間を旧日本軍の命令に基づく「軍務」と見ない限り支給要件は満たさない。報告書の「自己意思残留」の結論に従えば支給要件は満たさず、各都道府県への恩給請求は棄却処分となった。

 個別に国会への請願・陳情活動などを続けていた関係者は平成2年、全国に「全国山西省在留者団体協議会」(藤田博会長)を結成し、兵庫県浜坂町の天隣寺に現地での死亡者を追悼する碑=写真=を建立。ようやくまとまった運動に乗り出し、平成10年、恩給請求棄却処分の取り消しを求める行政訴訟を提起した。

 しかし平成16年4月に言い渡された一審・東京地裁判決は、ほぼ厚生省の報告書に沿って請求を棄却、東京高裁も今年1月これを支持し、舞台を最高裁に移した。最高裁も9月末「上告理由に当たらない」として上告を棄却した。法律審である最高裁で上告が認められるのは判例や法令解釈違反などがある場合に限られ、予想された結果でもあった。


軍命令か自己意思か

 訴訟の本質は、特務団への参加が「軍命令」であったのか「自己意思」であったのかー。一審判決は終戦後@派遣軍の総司令部は第1軍の将兵全員を帰還させる方針の下、特務団への参加は「あくまで本人の意志に基づいて決める問題。希望する者は除隊(召集解除)した後、応募すべき」との基本方針で対処したA21年3月には帰還に応じない将兵に対し「除隊・召集解除の措置が取られた」と認定、「あくまで本人の任意で残留した」と結論付けた。

 これに対し原告側は「除隊・召集解除の決定が本人に伝えられた事実はない」「特務団の実態は旧日本軍そのものであり、軍の指示・命令によらず勝手に所属や身分を異動し、軍籍を離れることはあり得ない」「上官の指示で特務団に志願したのであり、自己意思ではない」と反論していた。


断腸の思い

 山西省は北京の西方に位置し山岳部が多い。中共軍の勢力が強く、敗戦直後の通信連絡系統も十分機能していなかった。総司令部の指揮命令が十分行き届いていなかった可能性は高く、軍隊では通常、指揮命令を末端の兵隊ひとり一人に告知することもない。将校の中には国民党への参加に前向きな動きもあったとされ、上官の命令が絶対であったのはフィリピン・ルバング島から昭和49年、帰還した元日本陸軍少尉・小野田寛郎さんが「遊撃指揮・残置蝶者」の任務を命じた直属上官からの「任務解除命令」を帰還の絶対条件とした事実を見ても容易に推察できる。

 軍隊の規律は上官の命令を絶対とする指揮命令系統で維持される。敗戦直後の混乱期とはいえ、上官の命令が絶対であったのは規律の厳しさで知られた旧日本軍の仕組みから言っても想像に難くなくい。60年の歳月はあまりに長く、関係者の高齢化・死亡が目立つ。原告13人でスタートした訴訟もその後、4人が死亡、4人が病床に伏した。

 敗戦後、望郷の念に駆られた元日本兵が自己意思で現地に残るようなことが果たして有り得たかー。藤田さんは「恩給そのものが目的ではない。“逃亡兵”の汚名を晴らすのが目的だった。最高裁の結論は断腸の思い」と語っている。(了)
         
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Posted by:Ginayct  at 2006年03月27日(Mon) 05:51
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