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宮 直史ブログ−“信はたていと、愛はよこ糸”

岡崎嘉平太記念館(岡山・吉備高原)で出会ったメッセージに深い感銘を受けました。
『信はたていと、愛はよこ糸、織り成せ 人の世を美しく』(岡崎嘉平太氏)
・・・私も、皆様方とともに世の中を美しく織りあげていくことを目指して、このブログを立ち上げました。よろしくお願いします。


こんにちは!宮です

宮 直史さんの画像
★経営のための会計★
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ようこそお越しくださいました。ありがとうございます。
「道しるべ」でお好きなカテゴリーをお選びいただき、お時間の許す限りごゆっくりおくつろぎください。
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毎日毎日が人生の一大事の連続 [2022年01月31日(Mon)]
昨日(1/30)開催の大阪ハーフマラソンは、
諸事情あってDNS(didn't start)
前日、計測チップをゼッケンから取り外して大会事務局に送りました。

65歳の誕生日で高齢者デビュー戦の予定でしたが、
わが人生にとって初めてのDNS。
そして2月の北九州に続いて、3月の篠山も中止が決定です。

かつて、DNF(didn't finish)の屈辱は
翌年に奇跡のサブフォーで雪辱を果たしましたが、
今回のDNSも、ある意味、自分の「レジリエンス」が試されているひらめき
さてさて、どうする?

この秋は 雨か嵐か 知らねども
今日のつとめの 田草とるなり

朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな
うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、
そのいずれもなのかあなたは知らないからである。
コヘレトの言葉(11:6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)

とかく、わたくしどもは、
結果を求めることばかり焦って、脚下がお留守になり、
今日のつとめを怠りがちでありますが、
そこに失敗の原因があります。
その日その日のつとめを堅実に果たしてゆけば、
未来の成功はおのずから席をあけて待っておるのであります。
「太閤さんの心がけ」/山田無文『白隠禅師坐禅和讃講話』

人間としての存在や人生の充実ということに関して言えば、
老いにつけ若きにつけ、
今、自分がおのれの命といかにかかわり、
どのような姿勢で生きているかを問い続けるか否かが問題であり、
言い換えれば、毎日毎日が人生の一大事の連続なのであろう。
大西良慶、平櫛田中『人間ざかりは百五歳』

一大事と申すは、
今日ただ今の心なり。
それをおろそかにして翌日あることなし。
すべての人に、遠き事を思いて謀ることあれども、
的面の今を失うに心づかず。
正受老人(白隠禅師の師)

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為末大さんが手塚治虫『ブッダ』に影響を受けたと知り、
愛蔵版の全巻セットを中古で買い求めて読みました。

世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』


mampo.jpg
愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡

Thank you very much. この続きはまたいつか四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
己の行動が試されている [2022年01月26日(Wed)]
昨日(1/25)21時過ぎに配信された記事に目が留まりました。

記事の冒頭、大阪市阿倍野区の耳鼻咽喉科クリックが実名で登場。
PCR検査と同等の精度で10分程度で結果がわかる遺伝子検査をしてきたが、
検査に必要な試薬の納品が止まったので代わりに抗原検査キットを注文
しかし、必要な量の半分の約50人分しか納品されなかったとのこと。
そのため、これまで1日最大20人を検査してきたが、
キットに限りがあるので、症状の軽い患者ら5〜10人は断っている
それでも、今週中には試薬も検査キットも尽きる見込み。
院長は「『災害』なので仕方ないと半分諦めています」と話す。

んなあほな
たしか、大阪メトロ御堂筋線の昭和町駅や西田辺駅は、阿倍野区のはず。
その阿倍野区のクリニックで、
検査キットの在庫に限りがあるので軽症の患者は検査を受けられず、
そしてその在庫も今週中には尽きる。ということは、
症状が重い患者さんも検査を受けられなくなる。

私の手元には、症状がまったくないのに検査キットがある。
今週末に開催の大阪ハーフマラソンを走るために。

一方で、そのコース上の大阪市阿倍野区にあるクリニックでは、
今週中に検査キットの在庫が尽きて「災害なので仕方がない」。

記事を読んで、
『善きサマリア人のたとえ話』を思い出しました。

「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」について
律法学者が「わたしの隣人とはだれか」とイエスに尋ねたのに対して
イエスの答え(ルカ 10:25〜37)
―― 追い剝ぎに襲われて瀕死の状態になった人がいたのに、
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、
その人を見ると、反対側を通って行った
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、
その人を見ると、反対側を通って行った
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、
(…)

検査キットが届いたその日の夜のNHKニュースで、
検査キットの不足が報じられ、
岸田総理の国会答弁や大阪の吉村知事の記者会見なども知って、
それなりに問題意識を持ちましたが、

まだまだ甘く、他人事でした。
現場を知る」ことの大切さを学ぶとともに、
自分の行動が試されている」と受け止めました。

「この三人の中で、
誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」
「その人に憐れみをかけた人です」
行って、あなたも同じようにしなさい
ルカ(10:36〜37)/新約聖書(日本聖書協会・共同訳)

この記事を読んだのをきっかけに、昨夜から
マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を再読。
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「暴走する路面電車」(いわゆるトロッコ問題)など、
色々と考えさせられます。


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愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡

Thank you very much. この続きはまたいつか四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
足らない、手に入らないというのに [2022年01月25日(Tue)]
今週末(1/30)に開催予定の大阪ハーフマラソンの大会事務局から、
昨日、「健康管理チェックシート」と「抗原検査キット」が届きました。

一方で、同じ昨日(1/24)の夕方のNHKニュースによると、
「大阪府の吉村知事は、新型コロナの感染の急拡大で、
府内でも抗原検査のキットが不足しているとして、
国に対し速やかな供給を求めるととともに、
供給が増えなければ、
無料検査場の運用を停止する考えを示しました」とのこと。

うーん、考えさせられました。

私の手元に届いた「抗原検査キット」は、何のためなのか。
大会公式サイトのお知らせによると、
「新型コロナウイルス感染拡大の状況をうけ、
 参加者に安全に大会に参加いただくため」とのことですが、
一方で、大会主催者が安全に大会を開催するためでもあるのでしょう。
いずれにせよ「自分のため」です。

もしや、
それって「利己」?
その抗原検査キットに「利他」や「忘己利他」の心はあるか……

そういえば、2年前、コロナ感染の初期の頃にマスク不足が生じて、
コロナ最前線の医療現場でも「マスクの使いまわし」が起き、
危機的状況に「本当に必要な人のために」と報じられていたような……

いやいや、私の手元に届いた抗原検査キットは
「本当に必要な人のため」なのだろうか、
世の中には、自分なんかより
もっと「本当に必要としている人」がいるのではないか……

ニュースを見終えた後、薩摩焼酎をお湯割りにして、
河島英五の「時代おくれ」を口ずさむ
一日二杯の酒を飲み、さかなは特にこだわらず(…)
自分のことは後にする、ねたまぬように、 あせらぬように、
飾った世界に流されず〜♪

何はともあれ、ほかの大会のように開催が中止決定なら、
こんなことを考えることもなかったのですが、
主催者が開催に向けて努力していただいたおかげで、
色々と考えることができました。ありがたいことです。

さてさて、松下さんや稲盛さんなら、
どう考えて、どのように行動されるだろうか。

「思いやりの心で誠実に」
思いやりは、
利他の心」とも言い換えられます。つまり、
自分の利益だけを考えるのではなく
自己犠牲を払ってでも相手に尽くそうという、
美しい心のことです。
ビジネスの世界においても、この心が一番大切です

稲盛さんの講演での言葉
企業経営者でも政治家でも官僚でも、偉くなればなるほど、
率先して自己犠牲を払うべきなのです。
自分のことはさておき、
自分が最も損を引き受けるというような勇気がなければ、
人の上に立ってはならないのです。
いや、上に立つ資格そのものがないといえます。
自己犠牲を払う勇気のない人が上に立てば、
その下に住む人たちは不幸になります。

人間にはみんな欲望があります。
欲望があるけれども、それをできるかぎり抑えて、
公平無私な人でありたいと思う。
リーダーになったのだから、自分のことを考えるよりは、
まず社員たちのことを先に考えようと思う。
それは、自分のお腹が空いていても、
まずは子供たちに食べさせようとする母親の姿と同じです。
そういうものが「無私の心」なのです。

松下幸之助『素直な心になるために』より――
「広い愛の心」
お互い人間というものは、他の人が困っているのを見れば、
なにか手助けできることはしてあげよう、と考えるのが
自然の情ではないかと思います。
もちろん、他の人の難儀を見ても見ぬふりをする、
というような姿もときにはありましょう。
しかしそういう場合でも、なにか特別の事情がない限りは、
やはり内心ではできれば助けてあげたいとか、
だれか他の人が助けてあげればよいのにとか思っているのであって、
これはおもしろい、大いに難儀して苦しめばよい、
などとはまず考えないのではないでしょうか。
もともと人間というものは、互いに心を結びあって、
大切にしあい、生かしあい、許しあい、助けあって生きてゆこう
というような心をもっているのではないかと思うのです。
つまり、そういう広い愛の心、慈悲心というものを、
本来人間は備えているのではないかと思うのです。
しかしながら、
現実のお互い人間の姿というものをみると、、、


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愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡

Thank you very much. この続きはまたいつか四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
的面の今を失うなかれ [2022年01月17日(Mon)]
大きな犠牲と引き換えに「本当に大切なもの」を学びました。
あの日から27年目の朝を迎えるにあたって――

先日読んだ鷲田清一『「聴く」ことの力』の冒頭で、
阪神淡路大震災の後の炊き出しボランティアのシーンが登場し、
あの日のことを色々と思い出しました。

あの年も週明けでした。
14日は土曜日で、当時、関学の社会人大学院の1期生として学んでいて、
午前中に修了論文の発表会があり、学食でランチして打ち上げをしました。
翌15日は日曜日で、16日は成人の日の振替休日。
そして連休明けの17日の朝でした。

未来は不確実だ。
明日何が起きるかは誰にも分からない。それは、
この世に存在しているあらゆるものが変化し続けているからだ。
昔の人はその真理を、無常という言葉で表現した。
僕はそのことを、1995年に起きた阪神・淡路大震災で深く悟らされた。
(…)
人生は一度しかない。だからこそ何かを成し遂げたいと思う。
そしてこの世で何かを成し遂げるためには、
世界が無常であることをいつも心に刻んでおかなければならない
自分を叱咤するためにも、未来に適応するためにも
三木谷浩史『成功のコンセプト』

コロナ感染の拡大を受けて、
今月23日に開催予定の瀬戸内海タートル・フルマラソンが中止、
翌週の30日に開催予定だった愛媛マラソンも中止。
さらに3月の鳥取マラソンも中止が決定。

そんな報せに、自分がエントリーした大会が
開催されるか否か気にしたところでどうなるわけでなし。

丹後ウルトラマラソンのコース沿いにある木下酒造さんの玉川「福袋」。
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米の出来や天候といった自然条件に合わせて、
どの年も一からの心がまえで臨むのが酒造りの仕事。
ベテランの杜氏でさえ「毎年一年生」と言う所以です。
新酒があがるまで、造り手は緊張感でドキドキし、
飲み手は「今年はどんな酒が」の期待感でドキドキするものです。
そのドキドキ感を、開けてみてのお楽しみ、の思いをこめて
「福袋」と名づけました。

KIMG1012_2.JPG(瓶の裏ラベル)

毎年一年生」、「毎日が誕生日」、「日に新た」の心意気で
自らに壁や限界をつくらず、「進歩無限」でありたいものです。
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毎日が新しく、毎日が門出、毎日が誕生日ひらめき
Every day is a new beginning.

松下幸之助『続・道をひらく』より――
「転機」
今までの考え通りで、今までのやり方通りで、
それで事がすむならばよいけれど、
天地は日に新たであり、人の営みもまた日に新たである。
だからほんとうは、
昨日の考えは、きょうは一新されていなければならないし、
きょうのやり方は、明日にはもう一変していなければならない。
刻々に新しい考えを生み出し、刻々に新しいやり方で事に処していく

それが自然の理法に則した生成発展への道というものであり
そこに人間としての真の歓喜というものがある
その歓喜が失われたとき、
人の成長はとまり、社会の生成発展もとまる。
とまるだけならよいけれど、
とまるということはジリジリと崩壊するということである
人にとっても社会にとっても、まさに危機と言えよう
今まで通りではいけないのである。
今まで通りに安住してはいけないのである。
思いを一新しなければならぬ。やり方を一変しなければならぬ

日本も世界も、今日ただいまはそういうときなのである。
そういうきびしい転機に立っているのである。
危機とは転機の自覚のないことをいうのである

実行家として成功する人は、
自己を押し通す人、強く自己を主張する人と見られがちだが、
実は、反対に、彼には一種の無私がある。
空想は孤独でもできるが、実行は社会的なものである
有能な実行家は
いつも自已主張より物の動きの方を尊重しているものだ
現実の新しい動きが看破されれば、
直ちに古い解釈や知識を捨てる用意のある人だ。
物の動きに順じて自已を日に新たにするとは一種の無私である
小林秀雄『無私の精神』

松下幸之助『続・道をひらく』より――
「転機」
新しい年の新しい思いに、あれこれと心をふくらまし、
一年の計は元旦にありと、あれこれともり沢山の計画を立て、
ことしこそはと誓ってみたり決意をしてみたり。
そんなこんなの正月の夢も、いつのまにか日々の惰性に流されて、
ことしもやっぱりもとのもくあみ。もとのまま。
計画の立てかたが悪かったのか、力以上に望みすぎたのか、
それともしょせんは自分の意志が弱かったのか。
そんな迷いの末に、
いやいや世の中が悪いのだ、こんなはずではなかったのだと、
ついグチも出て、他に罪をかぶせて、なすべきこともつい怠りがち。
これもまた人の世の常ではあろうが
これでついウカウカの日々では、歳月があまりにも惜しい
今からでもおそくない
ともかくも今日が年のはじめで、あしたもまた年のはじめ
毎日が年のはじめで、だから毎日計画を立てなおして
毎日思いを新たにして、毎日誓いを立ててみて……。
グチは言うまい。今からでもおそくない
今からでもおそくないのである。

毎日が新しく、毎日が門出である。
日々是新なれば、すなわち日々是好日
素直で謙虚で、しかも創意に富む人は
毎日が明るく、毎日が元気
さあ、みんな元気で、新しい日々を迎えよう。
「日々是新」/松下幸之助『道をひらく』
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「日々是好日」

一大事と申すは、
今日ただ今の心なり。
それをおろそかにして翌日あることなし
すべての人に、遠き事を思いて謀ることあれども、
的面の今を失うに心づかず。
正受老人(白隠禅師の師)

とかく、わたくしどもは、
結果を求めることばかり焦って、脚下がお留守になり、
今日のつとめを怠りがち
でありますが、
そこに失敗の原因があります
その日その日のつとめを堅実に果たしてゆけば、
未来の成功はおのずから席をあけて待っておるのであります。
「太閤さんの心がけ」/山田無文『白隠禅師坐禅和讃講話』

人間としての存在や人生の充実ということに関して言えば、
老いにつけ若きにつけ、
、自分がおのれの命といかにかかわり
どのような姿勢で生きているかを問い続けるか否かが問題であり、
言い換えれば、毎日毎日が人生の一大事の連続なのであろう。
大西良慶、平櫛田中『人間ざかりは百五歳』

毎日が同じことのくりかえしのように思えることがある。
しかし、きのうよりはきょうの方が、それだけの体験を深め、
それだけ賢くなっているのである。
人生には、日とともに高まりはあっても、くりかえしはない
くりかえしと思ったとき、進歩への道をみずから閉ざす
くりかえしはないのである。
「春がきた」/松下幸之助『続・道をひらく』
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「梅一輪 一輪ほどの暖かさ」/北野天満宮(2022.1.10)

朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな
うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは
そのいずれもなのかあなたは知らないからである。
コヘレトの言葉(11:6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)

涙と共に種を蒔く人は 
喜びの歌と共に刈り入れる
種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も 
穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る
詩編(126:5〜6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)

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「暫時不在如同死人」
暫時も在らざれば死人に如同す 
一瞬たりとも、わが主人公たる本心が
お留守になるならば、死人も同じことだ

(白隠の禅画の日めくりカレンダーより「17日」)

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愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡

Thank you very much. この続きはまたいつか四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
私の今年の一文字「時」 [2022年01月08日(Sat)]
年始恒例の私の漢字一文字、ことしは「時」です。
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―― 天与の「時」を強く正しく生きるひらめき

私は心の中で言った。
「神は正しき者も悪しき者も裁かれる。
天の下では、すべての出来事に、すべての業に時がある。」
コヘレトの言葉(3:17)

人は時間の中に住んでいるのではなく、
時の中に住んでいるのである。
岡潔

旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)の「コヘレトの言葉」より――
見よ、私が幸せと見るのは、
神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み
また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。
それこそが人の受ける分である。
神は、富や宝を与えたすべての人に、そこから食べ、
その受ける分を手にし、その労苦を楽しむよう力を与える
これこそが神の賜物である。
人は人生の日々をあまり思い返す必要はない
神がその心に喜びをもって応えてくれる
(5:17〜19)

朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな
うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、
そのいずれもなのかあなたは知らないからである。
コヘレトの言葉(11:6)

知恵ある者の口から出る言葉には恵みがあり
愚かな者の唇は身を滅ぼす
その口から出る言葉は愚かさで始まり 悪しき無知で終わる。
愚かな者は多くを語るが やがて何が起こるかは誰も知らない
(10:12〜14)

夢が多ければ、
ますます空しくなり 言葉も多くなる。
神を畏れよ
コヘレトの言葉(5:6)

私は知っている 
神を畏れる人々には 神を畏れるからこそ幸せがあると。
悪しき者には 神を畏れることがないゆえに幸せはない。
その人生は影のようで、生き長らえることがない。
コヘレトの言葉(8:12〜13)

聞き取ったすべての言葉の結論。
神を畏れ、その戒めを守れこれこそ人間のすべてである
神は善であれ悪であれ
あらゆる隠されたことについて すべての業を裁かれる
(12:13〜14)

愚かな者は労苦したところで疲れるだけだ。
町に行く道さえも知らない
(10:15)

松下幸之助『道をひらく』より――
「道」
自分には自分に与えられた道がある天与の尊い道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道
広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなる時もあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、
ともかくもこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがいのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても
道はすこしもひらけない
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ
心を定め、懸命に歩まねばならぬ
それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる
深い喜びも生まれてくる。

涙と共に種を蒔く人は 
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も 
穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。
詩編(126:5〜6)

世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』



人生においてはカメのような、歩一歩のあゆみが大切だと思う。
速度を多少速めるのはよいが、
二歩三歩いっぺんに飛ぼうとすれば往々にして失敗することにもなろう。
「歩一歩の歩み」/松下幸之助『思うまま』
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旧豊郷小学校

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愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡

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会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
今こそすべて、天与の時に住む [2022年01月08日(Sat)]
ヴィクトール・フランクル『夜と霧の明け渡る日に』より――
「人生の意味と価値について」
人生の幸福を求めながらも現実に引き戻される人間について、
ラビンドラナート・タゴールは詩で次のように美しく表現しました。
私は寝て夢を見た
人生は喜びかもしれないと。
私は目を覚まして気づいた
人生は義務だったと。
私は働き、ついに気づいた
義務は喜びだったのだと。

人生は要するに義務であり、唯一の大きな責任なのです
そして人生には喜びもありますが
それ(喜び)手に入れようと努力するようなものではなく
「欲しい」と思って得られるようなものではなく
むしろ自然に向こうからやってくるものでなければなりません
結果が添えて与えられるものであるように、
喜びも自ずと与えられるものです。
幸福は目標ではないし、そうであってはならないし
またそういうことはありえません幸福は結果にすぎません
幸福は転がりこんでくるもので、
追求して手に入るものではありませんから、
幸福を求めるあらゆる人間の努力は失敗に終わるでしょう。
(…)
もうおわかりでしょうが、よくあるように、
人生の意味を自分から問うのは誤っています
人生の意味を問うことができるのは私たちではありません。
問いを投げかけているのは人生で、私たちは問われている側なのです!
答えなければならないのは、私たちのほうです
人生がつねに毎時間私たちに投げかけている「人生の問い」に
答えなければならないのは、私たち
です。
人生とは、問われることに他なりません
私たちは、答えるためにのみ、つまり人生の責任を負うためにのみ、
存在している
のです。こう考えると、
今私たちを不安にできるものは何もないことになります。
未来も私たちを不安にさせられませんし、
未来に何の見込みもないとしても、恐れることはありません
なぜなら現在こそがすべてで、
現在には、私たちに向けられているつねに新しい人生の問いが
含まれている
からです。ですから、
その時その時に私たちに期待されていることがすべてなのです。
未来において私たちが待っているものが何か
私たちは知ることができませんし、また知る必要はありません

自分の身に降りかかる運命を 
いずれかの形で自分なりにデザインできます。
可能であるなら「自分で運命を変える」。しかし、
それしか道がないのであれば「運命を潔く引き受ける」。
いずれの場合も、私たちは運命や不幸によって、精神的に成長できます
ヴィクトール・フランクル『夜と霧の明け渡る日に』

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧・新版』
ここで必要なのは、
生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、
むしろひたすら、
生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、
ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない

哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、
わたしたち自身が問いの前にたっていることを思い知るべきなのだ。
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる
わたしたちはその問いに答えを迫られている
考え込んだり言語を弄することによってではなく
ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される
生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、
生きることが各人に課す課題を果たす義務、
時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない


とかく、わたくしどもは、
結果を求めることばかり焦って、脚下がお留守になり
今日のつとめを怠りがちでありますが、そこに失敗の原因があります。
その日その日のつとめを堅実に果たしてゆけば、
未来の成功はおのずから席をあけて待っておる
のであります。
「太閤さんの心がけ」/山田無文『白隠禅師坐禅和讃講話

人間としての存在や人生の充実ということに関して言えば、
老いにつけ若きにつけ、
今、自分がおのれの命といかにかかわり
どのような姿勢で生きているかを問い(答え)続けるか否かが問題であり、
言い換えれば、毎日毎日が人生の一大事の連続なのであろう。
大西良慶、平櫛田中『人間ざかりは百五歳』

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ああ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。
ただどこまでも十力の作用は不思議です。
◆賢治の心 受け継ぎて/2021.11.26

全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、
さわやかな匂、夏のすずしい陰、月光色の芝生が
これから何千人の人たちに
本当のさいわいが何だかを教えるか数えられませんでした

宮沢賢治『虔十公園林』

松下幸之助『道をひらく』より――
「道」
自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。
広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなる時もあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、
ともかくもこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがいのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、
道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ
心を定め、懸命に歩まねばならぬ
それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる
深い喜びも生まれてくる。

朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな
うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、
そのいずれもなのかあなたは知らないからである。
コヘレトの言葉(11:6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)

涙と共に種を蒔く人は 
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も 
穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。
詩編(126:5〜6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)

――「時を待つ」を180度方向転換すると「時が待つ」
人は時間の中に住んでいるのではなく、時の中に住んでいる(岡潔)
時(時機、偶然、運命)は「いつ来るかわからない」が「待っている」
いつ来るかわからない時を、甘い希望や期待で待つのではなく
日々、そして時々刻々のつとめ「生きることの問い」を堅実に果たし、
「今こそすべて」で天が自分に与えた「時の中に住む」ひらめき
その結果として「喜びの歌」が待っているぴかぴか(新しい)

世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』



mampo.jpg
愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡

Thank you very much. この続きはまた明日本日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
静かに時を待ち、自分を磨く [2022年01月07日(Fri)]
松下幸之助『道をひらく』より――
「時を待つ心」
何ごとをなすにも時というものがある。
時 ―― それは人間の力を超えた、目に見えない大自然の力である。
いかに望もうと、春が来なければ桜は咲かぬ。
いかにあせろうと、時期が来なければ事は成就せぬ。
冬が来れば春はま近い。桜は静かにその春を待つ。
それはまさに、大自然の恵みを心から信じきった姿といえよう。 
わるい時がすぎれば、よい時は必ず来る。
おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るのを待つ
あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。
時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。
だが何もせずに待つことは僥倖を待つに等しい
静かに春を待つ姿は、一瞬の休みもなく力をたくわえている
たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。
時を得ぬ人は静かに待つがよい。
大自然の恵みを心から信じ、時の来るを信じて、
着々とわが力をたくわえるがよい

着々とわが力をたくわえる人には、時は必ず来る。時期は必ず来る
待てといわれればなおあせるのが人情である。
だが、自然の理はわがままな人情には流されない。
冷たいのではない。静かに時を待つ人には、暖かい光を注ぐのである。
おたがいに時を待つ心を養いたい。

世の中には成るものと成らないものがある。
いくら時を待っても人間の力ではどうしようもないこともある。
しかし、たとえ成るものであっても
時が来ないために成らないという場合が少なからずある
ですから、つらく、苦しいというときにも、
いたずらにあせることなく、静かに時を待ち、自分を磨いてゆく
そうした姿が人間として尊く、大切なことではないか。
そして、そうした人たちには、必ずや春の陽光が暖かくふりそそぐ。
「春を待つ心」/松下幸之助『人生談義』

唐木順三『詩とデカダンス』より――
「考え、待つということ」
「待つ」ということにはかなりの緊張と心の修練が必要である。
たえず自分の問題を考えつづけているという状態が必要なのだが、
今日来るか、明日来るかという待ち方は、実は
ほんとうに待つのではない

むずかしく言えば、待たないように待つことが、待つことの極意である。
緊張して待機するというのと違って、いわば等閑に待つのである。
時が熟し、時節到来するのを、待たないように待つというのが、
修行というものであろう。
訪れるもの、よびかけ来るものは、いつ来るかわからない
そのいつ訪れるかわからないものが、いざ来たという場合
それに心を開き、手を開いて迎え応ずることのできるような姿勢が
待つということ
であろう。
邂逅という言葉には、偶然に、不図出会うということが含まれていると
同時に、その偶然に出会ったものが、実は会うべくして会ったもの
運命的に出会ったものということをも含んでいる
そういう出会いのよろこびは、それを自身で味わったひとでないと
解しがたく、伝えがたいであろう

とかく、わたくしどもは、
結果を求めることばかり焦って、脚下がお留守になり、
今日のつとめを怠りがちでありますが、そこに失敗の原因があります。
その日その日のつとめを堅実に果たしてゆけば
未来の成功はおのずから席をあけて待っておるのであります。
「太閤さんの心がけ」/山田無文『白隠禅師坐禅和讃講話』

松下幸之助『道をひらく』より――
「道」
自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。
広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなる時もあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、
ともかくもこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがいのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、
道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ
心を定め、懸命に歩まねばならぬ
それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる
深い喜びも生まれてくる。

朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな
うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、
そのいずれもなのかあなたは知らないからである。
コヘレトの言葉(11:6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)

涙と共に種を蒔く人は 
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も 
穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。
詩編(126:5〜6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)

――「時を待つ」ときの姿勢が問われる
人は時間の中に住んでいるのではなく、時の中に住んでいる(岡潔)
時(時機、偶然、運命)は「いつ来るかわからない」が「待っている」
いつ来るかわからない時を「待たないようにして待つ」期待しないで待つ
夜明けはまだか、ゴールはまだか、今日か明日か、と待つのではなく
時が来る(時が待っている)のを心から信じて「静かに待つ」
今なすべきことに集注(夢中、無心、無欲)して今日のつとめを果たし
着々と力をたくわえて自分を磨き、高めていく
その結果として「喜びの歌」が待っているぴかぴか(新しい)


世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』



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愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡

Thank you very much. この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
人は自分の時さえ知らない [2022年01月06日(Thu)]
旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)より――
「コヘレトの言葉」
天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある
生まれるに時があり、死ぬに時がある。
植えるに時があり、抜くに時がある。
殺すに時があり、癒やすに時がある。
壊すに時があり、建てるに時がある。
泣くに時があり、笑うに時がある。
嘆くに時があり、踊るに時がある。
石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。
抱くに時があり、ほどくに時がある。
求めるに時があり、失うに時がある。
保つに時があり、放つに時がある。
裂くに時があり、縫うに時がある。
黙すに時があり、語るに時がある。
愛するに時があり、憎むに時がある。
戦いの時があり、平和の時がある。
人が労苦したところで、何の益があろうか
私は、神が人の子らに苦労させるよう与えた務めを見た
神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた
だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない
(3:1〜11)

私は知った。
一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に人の子らに幸せはない
また、すべての人は
食べ、飲み あらゆる労苦の内に幸せを見いだす

これこそが神の賜物である。
(3:12)

私は心の中で言った。
神は正しき者も悪しき者も裁かれる
天の下では、すべての出来事に、すべての業に時がある。」
(3:17)

太陽の下、私は振り返って見た。
足の速い者のために競走があるのでもなく
勇士のために戦いがあるのでもない。
知恵ある者のためにパンがあるのでもなく
聡明な者のために富があるのでもなく
知者のために恵みがあるのでもない。
時と偶然は彼らすべてに臨む。
人は自分の時さえ知らない

不幸にも魚が網にかかり 鳥が罠にかかるように
突然襲いかかる災いの時に 人の子らもまた捕らえられる。
(9:11〜12)

あなたは悪に過ぎてはならない。愚かであってはならない
あなたの時ではないのに、どうして死んでよかろう。
(7:17)

私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。
それがその人の受ける分なのだから。
彼の後に起こることを 一体誰が彼に見せることができようか
(3:22)

やがて何が起こるかを知る者は一人もいない
確かに、何が起こるかを 
誰が人に告げることができるだろう。
(8:7)

朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな
うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、
そのいずれもなのかあなたは知らないからである。
(11:6)

――「人は自分の時さえ知らない」
……自分の時は神のみぞ知るのであれば、
  神でもないのに「時は今」なんて思うのはおこがましいということか
「すべての出来事に、すべての業に時がある」
いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり(道元禅師)
「一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に人の子らに幸せはない」
人は時間の中に住んでいるのではなく、時の中に住んでいる(岡潔)
「朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな」

世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』



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愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡

Thank you very much. この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
人は時の中に住んでいる [2022年01月05日(Wed)]
岡潔『日本の国という水槽の水の入れ替え方』の「日本民族」より――
人は時間の中に住んでいるのではなく、
時の中に住んでいるのである

時には現在、過去、未来の別がある
未来はわからない。希望を持てるが不安も抱かざるを得ない。
それが突然、現在になる。そうすると
いっさいが明らかになる代わりにいっさい変えることができない。
それがたちまち過去になる。そうすると
いっさいが記憶としか思えなくなる。
ところが、道元禅師は「時は過ぎ去るとのみ学すべからず、
かくの如く学しぬれば間隙ありぬべし
」といっている。
そして「有時」ということをいっている。
時には内容の空粗な時とぎっしりつまっている時とある。
そのぎっしりつまっているときは、あのときの自分はああだし、
このときの自分はこうだしというようになるが、
それは何も矛盾ではないといっている。
時間とは時のごく簡単な一つの性質をとり出したものである。

いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり
「有時」/道元禅師『正法眼蔵』

岡潔・小林秀雄『人間の建設』より――
素朴な心に返って、時とはどういうものかと見てみますと、
時には未来というものがある。
その未来には、希望を持つこともできる。しかし不安も感じざるを得ない。
まことに不思議なものである。そういう未来が、これも不思議ですが、
突如として現在に変る。現在に変り、さらに記憶に変って過去になる。
その記憶もだんだん遠ざかっていく。これが時ですね。
時あるがゆえに生きているというだけでなく、
時というものがあるから
生きるという言葉の内容を説明することができるのですが、
時というものがなかったら、
生きるとはどういうことか説明できません。
そういう不思議なものが時ですね。

岡潔『数学する人生』より――
「こころ」
自然以外に心というものがある。
たいていの人はそう思っている。その心はどこにあるかというと、
たいていの人は、自分とは自分の肉体とそのうちにある心であると
思っているらしい。口に出してそういったことを聞いたことはない。
しかし無意識のうちにそう思っているとしか思えない。
そうすると肉体は自然の一部だから、人はふつう心は自然のなかにある、
それもばらばらに閉じ込められてある、と思っているわけである。
しかし少数ではあるが、こう思っている人たちもある。
自然は心のなかに在る、それもこんなふうにである、
―― 心の中に自然があること、なお大海に一漚(おう)の浮かぶがごとし
(…)
私にはすべては「そうであるか、そうでないか」の問題ではなく
それで心が安定して心の喜びも感じられるかどうか」の問題なのだと思う。
宗教的方法を許容しないかぎり、それより仕方がないのではなかろうか。

人は本来、物質的自然の中に住んでいるのではなくて
魚が水の中に住んでいるように、心の中に住んでいます
岡潔『数学する人生』

―― 今まで「時間」と「時」の違いを意識していなかったが、
「時間」や「時刻」は時計で測れるもので、
「時」は時計で測れない心象(時期、時機、時季など)とか、
さらには「生き方」「生きる姿勢」などを含み、
心の中に自然(銀河系)があり、
人は心(時)の中に住んでいるということか

世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』



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愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡

Thank you very much. この続きはまた明日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
時は今 [2022年01月04日(Tue)]
2022年、輝かしき新春を迎え、
皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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千里の氏神様・上新田天神社(2021.12.31)
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実家の氏神様・阿比太神社(2021.12.31)
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除夜の鐘・法華寺(2021.12.31)
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迎春の生け花(母・数え年93歳)
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「あたらしき力わきくる心地して朝日の光あふぎみるかな」
香淳皇后御歌

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愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡

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会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。