昨日の為に働くか、明日の為に働くか
[2021年11月28日(Sun)]
彼等の労作は、
明年の為めに今年働き、明日の為めに今日労するものではない。
昨年の為めに今年働き、昨日の為めに今日労する者である。
豈(あに)憐れむべき境遇ではないか。
鈴木東蔵『農村救済の理論及び実際』p.15

明年の為めに今年働き、明日の為めに今日労するものではない。
昨年の為めに今年働き、昨日の為めに今日労する者である。
豈(あに)憐れむべき境遇ではないか。
鈴木東蔵『農村救済の理論及び実際』p.15

この本の著者「鈴木東蔵」は、下の集合写真で後列中央のひげの男性で、
その向かって右のネクタイ姿は「宮沢賢治」です。
(さらに向かって右は「偶然居合わせた魚屋さん」とのこと)
(別ウィンド表示)
撮影は昭和6(1931)年3月で、
当時、鈴木東蔵は39歳で、宮沢賢治は34歳です。
宮沢賢治は1933年9月21日に37歳で亡くなっているので、
この写真は宮沢賢治が亡くなる2年半前に撮影されたものです。
当時、賢治は病気療養中の身でしたが、
縁あってこの工場(東北砕石工場)で働き、
タンカル(炭酸カルシウム)とネーミングしたり、
広告文を作ったり、自ら名刺を持って営業の出張したり…
ところが、不思議なことに、
晩年の賢治がこの工場で頑張っていたことはあまり書かれていません。
たとえば、門井慶喜さんの直木賞受賞作の『銀河鉄道の父』でも、
農学校を退職して羅須地人協会を立ち上げて一人暮らしの話は登場しますが、
その後の東北砕石工場での賢治の奮闘努力や
父政次郎のもろもろの金銭的支援や精神的な支えについて
書かれていません。
宮沢賢治のイメージが崩れるからなのか、
あの「雨ニモマケズ」の詩が「手帳」に書かれたのも、
この当時のことと言われるのに、不思議です。
私自身、東北砕石工場での宮沢賢治について知りませんでした。
賢治の弟の宮沢清六さんが書かれた『兄のトランク』を読むまでは…
その工場のために働く決心を固め、昭和六年の春から、
その東北砕石工場の技師として懸命に活動をはじめた。
宮沢清六『兄のトランク』
その東北砕石工場の技師として懸命に活動をはじめた。
宮沢清六『兄のトランク』
まさに、先ほど紹介した集合写真が撮られた時期です。
また、宮沢賢治の石碑について、
最初に建てられたのは羅須地人協会の詩碑「雨ニモマケズ」ですが、
二番目に建てられた「まづもろともに」を知りました。
第二次大戦後の混沌、虚脱の中にあった東山の青年たちが、
東北砕石工場との関係で縁があった宮沢賢治の精神を指標として
村の復興を願い、賢治の碑を建立しようと企画した。
それが全村あげての運動となったという。
碑文の選定と揮毫は谷川徹三に依頼し、町を見下ろす高台に建立された。
東北砕石工場との関係で縁があった宮沢賢治の精神を指標として
村の復興を願い、賢治の碑を建立しようと企画した。
それが全村あげての運動となったという。
碑文の選定と揮毫は谷川徹三に依頼し、町を見下ろす高台に建立された。
まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて
無方の空にちらばらう
しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』
無方の空にちらばらう
しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』
そして、谷川徹三の『宮沢賢治の世界』を読み、
当初は出かける予定のなかった一関市東山町松川の東北砕石工場を
今回の「宮沢賢治を訪ねてイーハトーブ岩手県を巡る旅」の
最初の目的地に、急遽、変更しました。
前知識で、デクノボーのモデルと言われる斎藤宗次郎に興味を持ち、
花巻の街中ぶらり散策で「求康堂跡」を訪ねたり、
花巻博物館で過去に開催された「斎藤宗次郎−花巻時代の足跡−」の
図録を買い求めて読んだりしました。
確かに、斎藤宗次郎の生き様も素晴らしいものがありますが、
私の中で「デクノボー」は宮沢賢治そのものであり、
鈴木東蔵と出会ってからの賢治の生き様に
「よだかの星」を彷彿させるものを受け止めました。
宮沢賢治『よだかの星』より――
よだかは、実にみにくい鳥です。
(…)
よだかはもうすっかり力を落してしまって、
はねを閉じて、地に落ちて行きました。
そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくというとき、
よだかは俄かにのろしのようにそらへとびあがりました。
そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲うときするように、
ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。
それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。
その声はまるで鷹でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、
みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、
いぶかしそうにほしぞらを見あげました。
夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。
もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。
よだかはのぼってのぼって行きました。
(…)
そしてよだかの星は燃えつづけました。
いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。
(…)
よだかはもうすっかり力を落してしまって、
はねを閉じて、地に落ちて行きました。
そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくというとき、
よだかは俄かにのろしのようにそらへとびあがりました。
そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲うときするように、
ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。
それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。
その声はまるで鷹でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、
みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、
いぶかしそうにほしぞらを見あげました。
夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。
もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。
よだかはのぼってのぼって行きました。
(…)
そしてよだかの星は燃えつづけました。
いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。
当時の宮沢賢治が使用していた手帳に書き留められていた詩が
胸を打ち、魂を揺さぶられます。
あらたなる
よきみちを得しといふことは
たゞあらたなる
なやみのみちを得しといふのみ
このことむしろ正しくて
あかるからんと思ひしに
はやくもこゝにあらたなる
なやみぞつもりそめにけり
あゝいつの日かか弱なる
わが身恥なく生くるを得んや
野の雪はいまかゞやきて
遠の山藍のいろせり
よきみちを得しといふことは
たゞあらたなる
なやみのみちを得しといふのみ
このことむしろ正しくて
あかるからんと思ひしに
はやくもこゝにあらたなる
なやみぞつもりそめにけり
あゝいつの日かか弱なる
わが身恥なく生くるを得んや
野の雪はいまかゞやきて
遠の山藍のいろせり
手帳にはタンカルの採算のことなども書かれていますし、
鈴木東蔵と交わされた書簡は最後まで仕事のことを気にかけています。
(↓)展示されていた書簡の複製のうち一番最後、亡くなる前月
昭和8年8月4日(書簡No.482)
まさに、「よだか」であり、「デクノボー」です。
当時の「東北砕石工場」に興味を持ってネットで検索すると、
鈴木東蔵が本を出版していたことを知り、
国立国会図書館のデジタルコレクションを確認すると、
以下の二冊の本が公開されていました。
『農村救済の理論及び実務』(大正6(1917)年出版)
『理想郷の創造』(対象9(1920)年出版)
早速、『農村救済の理論及び実際』を読みましたが、

冒頭に紹介した言葉も、
松下幸之助さんが「借入の返済は過去の経営」と説いたように、
稲盛和夫さんが「金策に走り回って自転車操業しているようでは
本当の経営を行っているとは言えない」と説いたように、
間違いなく、真理です。
そのほかも含めて、素晴らしい内容の本でした。
100年以上も前に出版された本ですが、
この記事の最初に紹介した集合写真より14年前だから、
鈴木東蔵は当時まだ25歳です。
岩手毎日新聞に掲載したものをまとめて本として出版というから、
実際に書いたのはさらに若い。
尋常高等小学校を卒業後、家庭の事情で旧制中学に進学できず、
村役場の用務員として働きながら学び続け、
そしてこれだけの本を20歳代前半で世に出したというからスゴイです。
こんな志高い鈴木東蔵だからこそ、宮沢賢治と出会い、
そして、宮沢賢治は「デクノボー」になり
「よだかの星」として「今でもまだ燃えている」のでしょう。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』


自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』
以下、ご参考までに
◆『宮沢賢治と東北砕石工場の人々』の著者、伊藤良治氏の連載記事
「この土を この人たちが この石灰で」/日本石灰協会
・宮澤賢治と炭酸石灰(1)
・宮澤賢治と炭酸石灰(2)
・宮澤賢治と炭酸石灰(3)
・宮澤賢治と炭酸石灰(4)
◆宮沢賢治が技師として働いた町/東北地質調査業協会
◆賢治、再び石へ向かう/星空紀行/NHK
◆『宮沢賢治と東北砕石工場の人々』の著者、伊藤良治氏の連載記事
「この土を この人たちが この石灰で」/日本石灰協会
・宮澤賢治と炭酸石灰(1)
・宮澤賢治と炭酸石灰(2)
・宮澤賢治と炭酸石灰(3)
・宮澤賢治と炭酸石灰(4)
◆宮沢賢治が技師として働いた町/東北地質調査業協会
◆賢治、再び石へ向かう/星空紀行/NHK
宮沢賢治を訪ねて(2021.11/17〜21)

◆未知なる道を探索して歩き進む/2021.11.15
◆永久の未完成、終わりはない/2021.11.24
◆鹿踊りの、ほんとうの精神/2021.11.25
◆芸術をもてあの灰色の労働を燃せ/2021.11.25
◆すべてのいのちはつながっている/2021.11.25
◆銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱/2021.11.25
◆グスコーブドリのまち・一関市東山町/2021.11.25
◆きれいにすきとおった風をたべ/2021.11.26
◆下ノ畑ニ居リマス/2021.11.26
◆賢治さんのお墓にお参り/2021.11.26
◆賢治の心 受け継ぎて/2021.11.26
◆岩手山を望む(御所湖)/2021.11.26
◆ごく強力な鬼神たちの棲みか/2021.11.26
◆岩手山銀河ステーション天文台/2021.11.26
◆よだかの星は今でも燃えています/2021.11.26
◆すべてはつながっている「自他不二」/2021.11.27
足るを知る「吾唯足知」/龍安寺

「日々是好日」
いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。
一歩一歩がゴールであり、
一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない。
(坂村真民さんが好きなゲーテの言葉)
一歩一歩がゴールであり、
一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない。
(坂村真民さんが好きなゲーテの言葉)
松下幸之助『思うまま』より――
「歩一歩の歩み」

愚直に一歩、一歩、もう一歩

立ち止まってはいられない
Thank you very much. この続きはまたいつか
会計は算術ではなく、思想である
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。

会計は算術ではなく、思想である

会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。