「この子らを世の光に」(糸賀一雄)
[2013年01月14日(Mon)]
私が糸賀先生のことを知ったのは、昨年末に読んだ『あきないと禅』(春秋社)です。
先生の最後の講義「愛と共感の教育」から引用して紹介されていました。
糸賀先生の生き様に心惹かれた私は、先生の本を図書館で借りて読みました。
そして、先生の最後の講義録を出版社(中川書店・福岡)から取り寄せて読みました。
先生の本(『この子らを世の光に』)、そして最後の講義録を読んで感じたのは、
実践なき言葉は空虚で、共感することはなく、魂を揺さぶりません。―― 自省
共感することで自覚し、自覚することで責任を負い、新たな行動が生まれる。
「自覚するということは責任を負うということ」との先生の言葉に納得です。
以下、『この子らを世の光に』(柏樹社刊)
より写経
最後に、本書のあとがきから
先生の最後の講義「愛と共感の教育」から引用して紹介されていました。
……
やがて意識が回復されると、繰りかえし繰りかえして、おっしゃったことは、
「もう少しだったのに、もう少しだからやりましょう。大丈夫、大丈夫……この子らを世の光に……」
そのお声は、もう力強く気魄がこもっていました。よほど、「この子らを世の光に」という言葉のもつ重い意味をお話になりたかったのでしょう。
その「を」が「に」と逆になれば、この子どもたちは憐れみを求める可哀そうな子どもになってしまいます。しかし、この子らは、みずみずしい生命にあふれ、むしろまわりの私たちに、そして世の人々に、自分の生命のみずみずしさを気づかせてくれるす素晴らしい人格そのものであるのだということを、おっしゃりたかったのだと思います。
この子らこそ「世の光」であり、「世の光」たらしめるべく、私たちは努力せねばならないのだということを、園長先生は最後に、そして一番訴えられたかったのでしょう。
やがて意識が回復されると、繰りかえし繰りかえして、おっしゃったことは、
「もう少しだったのに、もう少しだからやりましょう。大丈夫、大丈夫……この子らを世の光に……」
そのお声は、もう力強く気魄がこもっていました。よほど、「この子らを世の光に」という言葉のもつ重い意味をお話になりたかったのでしょう。
その「を」が「に」と逆になれば、この子どもたちは憐れみを求める可哀そうな子どもになってしまいます。しかし、この子らは、みずみずしい生命にあふれ、むしろまわりの私たちに、そして世の人々に、自分の生命のみずみずしさを気づかせてくれるす素晴らしい人格そのものであるのだということを、おっしゃりたかったのだと思います。
この子らこそ「世の光」であり、「世の光」たらしめるべく、私たちは努力せねばならないのだということを、園長先生は最後に、そして一番訴えられたかったのでしょう。
糸賀一雄の最後の講義 -愛と共感の教育-(中川書店)p.69〜70
糸賀先生の生き様に心惹かれた私は、先生の本を図書館で借りて読みました。
そして、先生の最後の講義録を出版社(中川書店・福岡)から取り寄せて読みました。
先生の本(『この子らを世の光に』)、そして最後の講義録を読んで感じたのは、
「使命感」の高さ、
「情熱」の強さ、
そして、日々の「実践」
「情熱」の強さ、
そして、日々の「実践」
実践なき言葉は空虚で、共感することはなく、魂を揺さぶりません。―― 自省
共感することで自覚し、自覚することで責任を負い、新たな行動が生まれる。
「自覚するということは責任を負うということ」との先生の言葉に納得です。
以下、『この子らを世の光に』(柏樹社刊)

自分もこの問題は以前から真面目に考えていた。一辺の義理や興味で、この社会事業に乗り出すべく自分は余りに分別をもちすぎている。自分がこの事業にのり出すとすれば、それは、一生の問題でなければならない。そして、一生つづく情熱の問題でなければならない。情熱は収容の対象である子ども達に対して、そしてこの事業そのものに対して。そして祖国再建への最も具体的な道であるとするこの事業に対する信念が問題である。自分は静かに考えさせられた。(同書p.7)
凡ての人がこの事業の重大性を認めている。しかし果たして誰人が自ら進んで、この事業に当たろうというのか。私にとっては、もはや、ただ前進あるのみという決定的な問題となってしまっている。自分の中にたぎり湧く情熱は、もはや如何なる冷却にあおうとも冷えることのできぬ状態に達しているのである。私は自分の将来の進路として官吏生活が如何にあきたらぬものであるかを、もう問うまい。自己一身の進路として、あれこれの選択をなす対象として、この事業を考えることは冒涜ではないだろうか。可哀想な、忘れられ捨てられた子たちへのひたむきな愛情が、それが国家の将来の課題を解決するための一助ともなるに違いないのだが、この愛情が、ひたむきにこの事業に注がれねばならなくなったという一事のみで十分である。そのための前途に横たわるであろう幾多の困難は、恐らく私をふるいたたせこそすれ、私の意志を豪もゆるがすことはできないだろう。おおげさだが、ちょうど、初代キリスト教徒が、あの迫害の中で敢然として信仰の表白に身を挺したごとく、私は自分の心の中に、子どもたちへの愛を通じて、神への、キリストへの信仰が漸く感じられようとしているのである。久しく忘れていた神のこと、キリストのこと、私は私なりに復活しようとしている。私は信仰をえて、しかる後愛の事業に突進するのではない。私を推進せしめるものは、只私の身内に湧出する情熱である。しかもこの情熱は何処より来たり、何処へ連れゆかんとするのであろうか。私はそれを説明することができない。(同書p.12〜13)
およそひとつの仕事が歴史のなかでその位置を占めるためには、なんとたくさんの要素がはたらいているものであろうか。そこには、支えや協力だけでない。若い芽をつみとろうとする暴力、悪意、ねたみなど人間的なあまりにも人間的な臭気さえ立ちこめるものである。そういう背景や環境のなかで、ひとりの人間が、そして多くの同志たちが、戦い、結合を深め、支えあって仕事がすすめられる。しかし、同志といわれ、内わのものといっても生ま身の人間である。考え方や生き方の相違があり、発展がある。喜びもあれば絶望もある。われわれは何時も、はじめにもどり、めざすものは何であったか、自らに問い、人にも問い、確かめあって、今日まで辿ってきたのであった。(同書p.19)
それにしても、私たちはその経営をなんとしても独立自営にもっていきたかった。公的な援助をうけないというのではない。また一般の寄附を排除するというのでもない。ただ自分たちの額に汗して生活を支えるという基本的な構えのないところに、社会事業の発展はないというふうに、私たちは確信していたのである。そういうことがじっさいに可能かどうか。それは三津浜学園でも石山学園でも、これまでの3年間の経験では自信のないことであった。しかし、理想としては民間の社会事業が、この生産性を確保していないことには、思いきった仕事ができないのではないか。それは経営的な経済の問題ばかりではない。お布施で生きている人間が、子どもたちの社会的な自立の根性を養ってやることができるものであろうか。この世のなかに何のたよるものもなく、風呂敷ひとつもあるかなしの天涯の孤児たちに、ひとりでりっぱに世の中に生きていくのだとはげます資格があるといえるだろうか。お布施にすがったり、月給にたよっていて、何ができるというのか。こういった反省が強く迫ってくるのであった。寄付にたよれば卑屈になり、公費にたよれば官権におさえつけられることにもなろう。この自前の生産性を求めるのは、理想であるかも知れない。したがって理想に到達するまでの現実は寄付にも公費にも依存しなければなるまい。しかしそれだからといって卑屈になったりおさえつけられたりすることはまっぴらごめんである。そういった願いを私たちは抱いていたのである。そこでこの気持を「趣意書」には盛りこんでおくことにした。そのほか従来の社会事業が陥りやすかったいくつかの問題点をこの際しっかりと見詰めてみることにした。教育、医学、心理学、生産、経営、職業養成などといった諸問題がうかびあがってきた。
9月28日の夜、私は一気に原稿用紙13枚に、近江学園設立の趣意書を書き上げた。その主なところを次にかかげてみよう。(同書p.58〜59)
しかしこの事件は、私たちに、いろいろな意味で、大きな教訓であった。
ひとつには、どんなに自分が正しいからといっても、ただやりまくればよいといったものではなく、「鳩のごとく柔和に蛇のごとく慧(さと)く」あらねば、思わぬ障害をまねくものであるということ。そしてもうひとつは、迫害のきびしい時は、同志の結合はいよいよ固くなる反面、それと矛盾するようであるが、分裂の危機も同時にはらんでいるものであるということである。平穏無事のときにはわからなかった人間性が、四面楚歌という極限状況のときには、はっきりとあらわれてくるものである。そこに数多い職員のひとりひとりの主体性の問題が横たわっているのである。(同書p.138〜139)
――終戦の翌年、昭和21年9月の先生の日記の一節、先生は当時32歳です。
凡ての人がこの事業の重大性を認めている。しかし果たして誰人が自ら進んで、この事業に当たろうというのか。私にとっては、もはや、ただ前進あるのみという決定的な問題となってしまっている。自分の中にたぎり湧く情熱は、もはや如何なる冷却にあおうとも冷えることのできぬ状態に達しているのである。私は自分の将来の進路として官吏生活が如何にあきたらぬものであるかを、もう問うまい。自己一身の進路として、あれこれの選択をなす対象として、この事業を考えることは冒涜ではないだろうか。可哀想な、忘れられ捨てられた子たちへのひたむきな愛情が、それが国家の将来の課題を解決するための一助ともなるに違いないのだが、この愛情が、ひたむきにこの事業に注がれねばならなくなったという一事のみで十分である。そのための前途に横たわるであろう幾多の困難は、恐らく私をふるいたたせこそすれ、私の意志を豪もゆるがすことはできないだろう。おおげさだが、ちょうど、初代キリスト教徒が、あの迫害の中で敢然として信仰の表白に身を挺したごとく、私は自分の心の中に、子どもたちへの愛を通じて、神への、キリストへの信仰が漸く感じられようとしているのである。久しく忘れていた神のこと、キリストのこと、私は私なりに復活しようとしている。私は信仰をえて、しかる後愛の事業に突進するのではない。私を推進せしめるものは、只私の身内に湧出する情熱である。しかもこの情熱は何処より来たり、何処へ連れゆかんとするのであろうか。私はそれを説明することができない。(同書p.12〜13)
――同じく、昭和21年9月の先生の日記の一節です。
およそひとつの仕事が歴史のなかでその位置を占めるためには、なんとたくさんの要素がはたらいているものであろうか。そこには、支えや協力だけでない。若い芽をつみとろうとする暴力、悪意、ねたみなど人間的なあまりにも人間的な臭気さえ立ちこめるものである。そういう背景や環境のなかで、ひとりの人間が、そして多くの同志たちが、戦い、結合を深め、支えあって仕事がすすめられる。しかし、同志といわれ、内わのものといっても生ま身の人間である。考え方や生き方の相違があり、発展がある。喜びもあれば絶望もある。われわれは何時も、はじめにもどり、めざすものは何であったか、自らに問い、人にも問い、確かめあって、今日まで辿ってきたのであった。(同書p.19)
――本書が出版されたのが昭和40年9月、近江学園20年の記録です。「明日」に向かって「初心」に立ちかえって考えることの意義を受け止めました。
それにしても、私たちはその経営をなんとしても独立自営にもっていきたかった。公的な援助をうけないというのではない。また一般の寄附を排除するというのでもない。ただ自分たちの額に汗して生活を支えるという基本的な構えのないところに、社会事業の発展はないというふうに、私たちは確信していたのである。そういうことがじっさいに可能かどうか。それは三津浜学園でも石山学園でも、これまでの3年間の経験では自信のないことであった。しかし、理想としては民間の社会事業が、この生産性を確保していないことには、思いきった仕事ができないのではないか。それは経営的な経済の問題ばかりではない。お布施で生きている人間が、子どもたちの社会的な自立の根性を養ってやることができるものであろうか。この世のなかに何のたよるものもなく、風呂敷ひとつもあるかなしの天涯の孤児たちに、ひとりでりっぱに世の中に生きていくのだとはげます資格があるといえるだろうか。お布施にすがったり、月給にたよっていて、何ができるというのか。こういった反省が強く迫ってくるのであった。寄付にたよれば卑屈になり、公費にたよれば官権におさえつけられることにもなろう。この自前の生産性を求めるのは、理想であるかも知れない。したがって理想に到達するまでの現実は寄付にも公費にも依存しなければなるまい。しかしそれだからといって卑屈になったりおさえつけられたりすることはまっぴらごめんである。そういった願いを私たちは抱いていたのである。そこでこの気持を「趣意書」には盛りこんでおくことにした。そのほか従来の社会事業が陥りやすかったいくつかの問題点をこの際しっかりと見詰めてみることにした。教育、医学、心理学、生産、経営、職業養成などといった諸問題がうかびあがってきた。
9月28日の夜、私は一気に原稿用紙13枚に、近江学園設立の趣意書を書き上げた。その主なところを次にかかげてみよう。(同書p.58〜59)
――以下、趣意書の抜粋が先生の解説とともに続きますが、ただただ感銘です。
しかしこの事件は、私たちに、いろいろな意味で、大きな教訓であった。
ひとつには、どんなに自分が正しいからといっても、ただやりまくればよいといったものではなく、「鳩のごとく柔和に蛇のごとく慧(さと)く」あらねば、思わぬ障害をまねくものであるということ。そしてもうひとつは、迫害のきびしい時は、同志の結合はいよいよ固くなる反面、それと矛盾するようであるが、分裂の危機も同時にはらんでいるものであるということである。平穏無事のときにはわからなかった人間性が、四面楚歌という極限状況のときには、はっきりとあらわれてくるものである。そこに数多い職員のひとりひとりの主体性の問題が横たわっているのである。(同書p.138〜139)
――設立後2周年を迎えた昭和23年の秋に生じた最大の試練。その後も様々な艱難辛苦を経験されながら自らの思いを高め、深めていかれました。
最後に、本書のあとがきから
「世の光」というのは聖書の言葉であるが、私はこの言葉のなかに、「知的障害といわれる人たちを世の光たらしめることが学園の仕事である。知的障害な人たち自身の真実な生き方が世の光となるのであって、それを助ける私たち自身や世の中の人々が、かえって人間の生命の真実に目覚め救われていくのだ」という願いと思いをこめている。近江学園20年の歩みとは、このことを肌身に感じ確かめさらに深く味わってきた歩みといえるのである。(同書p.301)
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。
そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、
あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイ 5:14〜16)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ 1:1〜5)
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。
そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、
あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイ 5:14〜16)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ 1:1〜5)
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
◆この子らを世の光に/ラストメッセージ(第6集)/NHKスペシャル
ラストメッセージの第4集は、私が尊敬する植村直己さん、
(このブログのプロフィールを参照)
第5集は、“信はたていと、愛はよこ糸”の岡崎嘉平太さん、
(ブログのタイトル下の挨拶を参照)
そして糸賀一雄さん、共感できる人との出逢いに心から感謝!
54歳でそのご生涯を閉じられた先生の見事な生き様にひきかえ、
今月の誕生日で56歳になる我が人生を深く反省です。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
◆この子らを世の光に/ラストメッセージ(第6集)/NHKスペシャル
ラストメッセージの第4集は、私が尊敬する植村直己さん、
(このブログのプロフィールを参照)
第5集は、“信はたていと、愛はよこ糸”の岡崎嘉平太さん、
(ブログのタイトル下の挨拶を参照)
そして糸賀一雄さん、共感できる人との出逢いに心から感謝!
54歳でそのご生涯を閉じられた先生の見事な生き様にひきかえ、
今月の誕生日で56歳になる我が人生を深く反省です。