自分が主体になって「一燈照隅」
[2022年04月09日(Sat)]
ヴィクトール・フランクル『夜と霧の明け渡る日に』より――
自らが主(自分が主体)となり、
自分の心「を」照らされたり、照らしたりではなく、
自分の心「が」周りすべてを照らしてゆくよう、
日々、「一燈照隅」
で何ごとも懸命に誠実に取り組む。
その結果として、喜びが与えられ、幸福が転がりこんでくる。

花の終わった梅に、小さな実が


愚直に一歩、一歩、もう一歩
人生の幸福を求めながらも現実に引き戻される人間について、
ラビンドラナート・タゴールは詩で次のように美しく表現しました。
人生は要するに義務であり、唯一の大きな責任なのです。
そして人生には喜びもありますが、
それ(喜び)は手に入れようと努力するようなものではなく、
「欲しい」と思って得られるようなものではなく、
むしろ自然に向こうからやってくるものでなければなりません。
結果が添えて与えられるものであるように、
喜びも自ずと与えられるものです。
幸福は目標ではないし、そうであってはならないし、
またそういうことはありえません。幸福は結果にすぎません。
幸福は転がりこんでくるもので、
追求して手に入るものではありませんから、
幸福を求めるあらゆる人間の努力は失敗に終わるでしょう。
(…)
人生の意味を自分から問うのは誤っています。
人生の意味を問うことができるのは私たちではありません。
問いを投げかけているのは人生で、私たちは問われている側なのです!
答えなければならないのは、私たちのほうです。
人生がつねに毎時間私たちに投げかけている「人生の問い」に
答えなければならないのは、私たちです。
人生とは、問われることに他なりません。
私たちは、答えるためにのみ、
つまり人生の責任を負うためにのみ、存在しているのです。
(…)
未来に何の見込みもないとしても、恐れることはありません。
なぜなら現在こそがすべてで、
現在には、私たちに向けられているつねに新しい人生の問いが
含まれているからです。ですから、
その時その時に私たちに期待されていることがすべてなのです。
未来において私たちが待っているものが何か、
私たちは知ることができませんし、また知る必要はありません。
ラビンドラナート・タゴールは詩で次のように美しく表現しました。
私は寝て夢を見た
人生は喜びかもしれないと。
私は目を覚まして気づいた
人生は義務だったと。
私は働き、ついに気づいた
義務は喜びだったのだと。
人生は喜びかもしれないと。
私は目を覚まして気づいた
人生は義務だったと。
私は働き、ついに気づいた
義務は喜びだったのだと。
人生は要するに義務であり、唯一の大きな責任なのです。
そして人生には喜びもありますが、
それ(喜び)は手に入れようと努力するようなものではなく、
「欲しい」と思って得られるようなものではなく、
むしろ自然に向こうからやってくるものでなければなりません。
結果が添えて与えられるものであるように、
喜びも自ずと与えられるものです。
幸福は目標ではないし、そうであってはならないし、
またそういうことはありえません。幸福は結果にすぎません。
幸福は転がりこんでくるもので、
追求して手に入るものではありませんから、
幸福を求めるあらゆる人間の努力は失敗に終わるでしょう。
(…)
人生の意味を自分から問うのは誤っています。
人生の意味を問うことができるのは私たちではありません。
問いを投げかけているのは人生で、私たちは問われている側なのです!
答えなければならないのは、私たちのほうです。
人生がつねに毎時間私たちに投げかけている「人生の問い」に
答えなければならないのは、私たちです。
人生とは、問われることに他なりません。
私たちは、答えるためにのみ、
つまり人生の責任を負うためにのみ、存在しているのです。
(…)
未来に何の見込みもないとしても、恐れることはありません。
なぜなら現在こそがすべてで、
現在には、私たちに向けられているつねに新しい人生の問いが
含まれているからです。ですから、
その時その時に私たちに期待されていることがすべてなのです。
未来において私たちが待っているものが何か、
私たちは知ることができませんし、また知る必要はありません。
自分が主体になって、
自分の心が書物の方を照らしてゆく。
心が照らされるのではなくて、
心がすべてを照らしてゆくような学問をしなければならない。
安岡正篤『哲学としての東洋思想』
自分の心が書物の方を照らしてゆく。
心が照らされるのではなくて、
心がすべてを照らしてゆくような学問をしなければならない。
安岡正篤『哲学としての東洋思想』
自らが主(自分が主体)となり、
自分の心「を」照らされたり、照らしたりではなく、
自分の心「が」周りすべてを照らしてゆくよう、
日々、「一燈照隅」

その結果として、喜びが与えられ、幸福が転がりこんでくる。
世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』
個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』

花の終わった梅に、小さな実が


朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな。
うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、
そのいずれもなのかあなたは知らないからである。
コヘレトの言葉(11:6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)

うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、
そのいずれもなのかあなたは知らないからである。
コヘレトの言葉(11:6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)

愚直に一歩、一歩、もう一歩

Thank you very much. この続きはまたいつか
会計は算術ではなく、思想である
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。

会計は算術ではなく、思想である

会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。