CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

宮 直史ブログ−“信はたていと、愛はよこ糸”

岡崎嘉平太記念館(岡山・吉備高原)で出会ったメッセージに深い感銘を受けました。
『信はたていと、愛はよこ糸、織り成せ 人の世を美しく』(岡崎嘉平太氏)
・・・私も、皆様方とともに世の中を美しく織りあげていくことを目指して、このブログを立ち上げました。よろしくお願いします。


こんにちは!宮です

宮 直史さんの画像
★経営のための会計★
★経営のための会計★
ようおこし (^_^)
ようこそお越しくださいました。ありがとうございます。
「道しるべ」でお好きなカテゴリーをお選びいただき、お時間の許す限りごゆっくりおくつろぎください。
道しるべ★カテゴリー
Google

WWW このブログ
<< 2022年05月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
最新の記事
最新のコメント
https://blog.canpan.info/miya38ts/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/miya38ts/index2_0.xml
今こそすべて、天与の時に住む [2022年01月08日(Sat)]
ヴィクトール・フランクル『夜と霧の明け渡る日に』より――
「人生の意味と価値について」
人生の幸福を求めながらも現実に引き戻される人間について、
ラビンドラナート・タゴールは詩で次のように美しく表現しました。
私は寝て夢を見た
人生は喜びかもしれないと。
私は目を覚まして気づいた
人生は義務だったと。
私は働き、ついに気づいた
義務は喜びだったのだと。

人生は要するに義務であり、唯一の大きな責任なのです
そして人生には喜びもありますが
それ(喜び)手に入れようと努力するようなものではなく
「欲しい」と思って得られるようなものではなく
むしろ自然に向こうからやってくるものでなければなりません
結果が添えて与えられるものであるように、
喜びも自ずと与えられるものです。
幸福は目標ではないし、そうであってはならないし
またそういうことはありえません幸福は結果にすぎません
幸福は転がりこんでくるもので、
追求して手に入るものではありませんから、
幸福を求めるあらゆる人間の努力は失敗に終わるでしょう。
(…)
もうおわかりでしょうが、よくあるように、
人生の意味を自分から問うのは誤っています
人生の意味を問うことができるのは私たちではありません。
問いを投げかけているのは人生で、私たちは問われている側なのです!
答えなければならないのは、私たちのほうです
人生がつねに毎時間私たちに投げかけている「人生の問い」に
答えなければならないのは、私たち
です。
人生とは、問われることに他なりません
私たちは、答えるためにのみ、つまり人生の責任を負うためにのみ、
存在している
のです。こう考えると、
今私たちを不安にできるものは何もないことになります。
未来も私たちを不安にさせられませんし、
未来に何の見込みもないとしても、恐れることはありません
なぜなら現在こそがすべてで、
現在には、私たちに向けられているつねに新しい人生の問いが
含まれている
からです。ですから、
その時その時に私たちに期待されていることがすべてなのです。
未来において私たちが待っているものが何か
私たちは知ることができませんし、また知る必要はありません

自分の身に降りかかる運命を 
いずれかの形で自分なりにデザインできます。
可能であるなら「自分で運命を変える」。しかし、
それしか道がないのであれば「運命を潔く引き受ける」。
いずれの場合も、私たちは運命や不幸によって、精神的に成長できます
ヴィクトール・フランクル『夜と霧の明け渡る日に』

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧・新版』
ここで必要なのは、
生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、
むしろひたすら、
生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、
ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない

哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、
わたしたち自身が問いの前にたっていることを思い知るべきなのだ。
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる
わたしたちはその問いに答えを迫られている
考え込んだり言語を弄することによってではなく
ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される
生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、
生きることが各人に課す課題を果たす義務、
時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない


とかく、わたくしどもは、
結果を求めることばかり焦って、脚下がお留守になり
今日のつとめを怠りがちでありますが、そこに失敗の原因があります。
その日その日のつとめを堅実に果たしてゆけば、
未来の成功はおのずから席をあけて待っておる
のであります。
「太閤さんの心がけ」/山田無文『白隠禅師坐禅和讃講話

人間としての存在や人生の充実ということに関して言えば、
老いにつけ若きにつけ、
今、自分がおのれの命といかにかかわり
どのような姿勢で生きているかを問い(答え)続けるか否かが問題であり、
言い換えれば、毎日毎日が人生の一大事の連続なのであろう。
大西良慶、平櫛田中『人間ざかりは百五歳』

KIMG0611_2.JPG
ああ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。
ただどこまでも十力の作用は不思議です。
◆賢治の心 受け継ぎて/2021.11.26

全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、
さわやかな匂、夏のすずしい陰、月光色の芝生が
これから何千人の人たちに
本当のさいわいが何だかを教えるか数えられませんでした

宮沢賢治『虔十公園林』

松下幸之助『道をひらく』より――
「道」
自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。
広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなる時もあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、
ともかくもこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがいのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、
道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ
心を定め、懸命に歩まねばならぬ
それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる
深い喜びも生まれてくる。

朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな
うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、
そのいずれもなのかあなたは知らないからである。
コヘレトの言葉(11:6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)

涙と共に種を蒔く人は 
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も 
穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。
詩編(126:5〜6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)

――「時を待つ」を180度方向転換すると「時が待つ」
人は時間の中に住んでいるのではなく、時の中に住んでいる(岡潔)
時(時機、偶然、運命)は「いつ来るかわからない」が「待っている」
いつ来るかわからない時を、甘い希望や期待で待つのではなく
日々、そして時々刻々のつとめ「生きることの問い」を堅実に果たし、
「今こそすべて」で天が自分に与えた「時の中に住む」ひらめき
その結果として「喜びの歌」が待っているぴかぴか(新しい)

世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』



mampo.jpg
愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡

Thank you very much. この続きはまた明日本日四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
コメント