静かに時を待ち、自分を磨く
[2022年01月07日(Fri)]
松下幸之助『道をひらく』より――
「時を待つ心」
唐木順三『詩とデカダンス』より――
「考え、待つということ」
松下幸之助『道をひらく』より――
「道」
――「時を待つ」ときの姿勢が問われる

愚直に一歩、一歩、もう一歩
「時を待つ心」
何ごとをなすにも時というものがある。
時 ―― それは人間の力を超えた、目に見えない大自然の力である。
いかに望もうと、春が来なければ桜は咲かぬ。
いかにあせろうと、時期が来なければ事は成就せぬ。
冬が来れば春はま近い。桜は静かにその春を待つ。
それはまさに、大自然の恵みを心から信じきった姿といえよう。
わるい時がすぎれば、よい時は必ず来る。
おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。
あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。
時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。
だが何もせずに待つことは僥倖を待つに等しい。
静かに春を待つ姿は、一瞬の休みもなく力をたくわえている。
たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。
時を得ぬ人は静かに待つがよい。
大自然の恵みを心から信じ、時の来るを信じて、
着々とわが力をたくわえるがよい。
着々とわが力をたくわえる人には、時は必ず来る。時期は必ず来る。
待てといわれればなおあせるのが人情である。
だが、自然の理はわがままな人情には流されない。
冷たいのではない。静かに時を待つ人には、暖かい光を注ぐのである。
おたがいに時を待つ心を養いたい。
時 ―― それは人間の力を超えた、目に見えない大自然の力である。
いかに望もうと、春が来なければ桜は咲かぬ。
いかにあせろうと、時期が来なければ事は成就せぬ。
冬が来れば春はま近い。桜は静かにその春を待つ。
それはまさに、大自然の恵みを心から信じきった姿といえよう。
わるい時がすぎれば、よい時は必ず来る。
おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。
あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。
時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。
だが何もせずに待つことは僥倖を待つに等しい。
静かに春を待つ姿は、一瞬の休みもなく力をたくわえている。
たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。
時を得ぬ人は静かに待つがよい。
大自然の恵みを心から信じ、時の来るを信じて、
着々とわが力をたくわえるがよい。
着々とわが力をたくわえる人には、時は必ず来る。時期は必ず来る。
待てといわれればなおあせるのが人情である。
だが、自然の理はわがままな人情には流されない。
冷たいのではない。静かに時を待つ人には、暖かい光を注ぐのである。
おたがいに時を待つ心を養いたい。
世の中には成るものと成らないものがある。
いくら時を待っても人間の力ではどうしようもないこともある。
しかし、たとえ成るものであっても、
時が来ないために成らないという場合が少なからずある。
ですから、つらく、苦しいというときにも、
いたずらにあせることなく、静かに時を待ち、自分を磨いてゆく。
そうした姿が人間として尊く、大切なことではないか。
そして、そうした人たちには、必ずや春の陽光が暖かくふりそそぐ。
「春を待つ心」/松下幸之助『人生談義』
いくら時を待っても人間の力ではどうしようもないこともある。
しかし、たとえ成るものであっても、
時が来ないために成らないという場合が少なからずある。
ですから、つらく、苦しいというときにも、
いたずらにあせることなく、静かに時を待ち、自分を磨いてゆく。
そうした姿が人間として尊く、大切なことではないか。
そして、そうした人たちには、必ずや春の陽光が暖かくふりそそぐ。
「春を待つ心」/松下幸之助『人生談義』
唐木順三『詩とデカダンス』より――
「考え、待つということ」
「待つ」ということにはかなりの緊張と心の修練が必要である。
たえず自分の問題を考えつづけているという状態が必要なのだが、
今日来るか、明日来るかという待ち方は、実は
ほんとうに待つのではない。
むずかしく言えば、待たないように待つことが、待つことの極意である。
緊張して待機するというのと違って、いわば等閑に待つのである。
時が熟し、時節到来するのを、待たないように待つというのが、
修行というものであろう。
訪れるもの、よびかけ来るものは、いつ来るかわからない。
そのいつ訪れるかわからないものが、いざ来たという場合、
それに心を開き、手を開いて迎え応ずることのできるような姿勢が
待つということであろう。
邂逅という言葉には、偶然に、不図出会うということが含まれていると
同時に、その偶然に出会ったものが、実は会うべくして会ったもの、
運命的に出会ったものということをも含んでいる。
そういう出会いのよろこびは、それを自身で味わったひとでないと
解しがたく、伝えがたいであろう
たえず自分の問題を考えつづけているという状態が必要なのだが、
今日来るか、明日来るかという待ち方は、実は
ほんとうに待つのではない。
むずかしく言えば、待たないように待つことが、待つことの極意である。
緊張して待機するというのと違って、いわば等閑に待つのである。
時が熟し、時節到来するのを、待たないように待つというのが、
修行というものであろう。
訪れるもの、よびかけ来るものは、いつ来るかわからない。
そのいつ訪れるかわからないものが、いざ来たという場合、
それに心を開き、手を開いて迎え応ずることのできるような姿勢が
待つということであろう。
邂逅という言葉には、偶然に、不図出会うということが含まれていると
同時に、その偶然に出会ったものが、実は会うべくして会ったもの、
運命的に出会ったものということをも含んでいる。
そういう出会いのよろこびは、それを自身で味わったひとでないと
解しがたく、伝えがたいであろう
とかく、わたくしどもは、
結果を求めることばかり焦って、脚下がお留守になり、
今日のつとめを怠りがちでありますが、そこに失敗の原因があります。
その日その日のつとめを堅実に果たしてゆけば、
未来の成功はおのずから席をあけて待っておるのであります。
「太閤さんの心がけ」/山田無文『白隠禅師坐禅和讃講話』
結果を求めることばかり焦って、脚下がお留守になり、
今日のつとめを怠りがちでありますが、そこに失敗の原因があります。
その日その日のつとめを堅実に果たしてゆけば、
未来の成功はおのずから席をあけて待っておるのであります。
「太閤さんの心がけ」/山田無文『白隠禅師坐禅和讃講話』
松下幸之助『道をひらく』より――
「道」
自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。
広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなる時もあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、
ともかくもこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがいのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、
道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。
広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなる時もあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、
ともかくもこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがいのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、
道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。
朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな。
うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、
そのいずれもなのかあなたは知らないからである。
コヘレトの言葉(11:6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)
うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、
そのいずれもなのかあなたは知らないからである。
コヘレトの言葉(11:6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)
涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も
穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。
詩編(126:5〜6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も
穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。
詩編(126:5〜6)/旧約聖書(日本聖書協会・共同訳)
――「時を待つ」ときの姿勢が問われる
人は時間の中に住んでいるのではなく、時の中に住んでいる(岡潔)
時(時機、偶然、運命)は「いつ来るかわからない」が「待っている」
いつ来るかわからない時を「待たないようにして待つ」期待しないで待つ
夜明けはまだか、ゴールはまだか、今日か明日か、と待つのではなく、
時が来る(時が待っている)のを心から信じて「静かに待つ」
今なすべきことに集注(夢中、無心、無欲)して今日のつとめを果たし、
着々と力をたくわえて自分を磨き、高めていく
その結果として「喜びの歌」が待っている
時(時機、偶然、運命)は「いつ来るかわからない」が「待っている」
いつ来るかわからない時を「待たないようにして待つ」期待しないで待つ
夜明けはまだか、ゴールはまだか、今日か明日か、と待つのではなく、
時が来る(時が待っている)のを心から信じて「静かに待つ」
今なすべきことに集注(夢中、無心、無欲)して今日のつとめを果たし、
着々と力をたくわえて自分を磨き、高めていく
その結果として「喜びの歌」が待っている

世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』
個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』

愚直に一歩、一歩、もう一歩

Thank you very much. この続きはまた明日
会計は算術ではなく、思想である
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。

会計は算術ではなく、思想である

会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。