人の心の悲しみがわかる
[2021年12月14日(Tue)]
日曜日(12/12)、宮崎で開催された青島太平洋マラソンに、
「伴走」で参加しました。

前日(12/11)宮崎ブーゲンビリア空港に到着

当日(12/12)の朝、大会コースの橘橋から

当日の朝、ホテルのフロントで
阪神タイガース背番号24番の横田慎太郎さんのユニフォームに
「伴走」のゼッケンをつけてスタート。

12月とは思えぬ暑さでしたが「完走」
翌日(12/13)は、宮崎から二両編成のワンマン列車に乗って都城へ。
「霧島ファクトリーガーデン」を訪れ、
色々と振り返って語り合いながらランチを美味しくいただいたり、
工場見学を楽しんだり、最高に贅沢な一日をまったり過ごしました。

工場から望む霧島

霧島焼酎神社の手水

100%のこだわり
多くの皆さんの支えで大会が無事に開催されたおかげで、
自分たちの力を出し尽くして「完走」を果たすことができ、
また、大会後の打ち上げの帰りに迂闊にも財布を落としたのですが、
親切にも交番に届けてくださった方がおられたおかげで、
最後まで楽しい旅を続けることができ、本当に心から感謝です。
そして昨夜(12/13)のNHK「逆転人生」に、横田慎太郎さんが登場。
色々と悲しみや辛さを味わってきた横田慎太郎さんだからこそ、
人の心の悲しみがわかるし、伝えられることがある。
これからの活躍がますます楽しみです。
岡潔『数学を志す人に』より――
「春宵十話」
「かぼちゃの生いたち」
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」で
東に行ったり、西に行ったり、南に行ったり、北に行ったりは、
いずれも、「喜び」でなく、「悲しみ」のあるところで、
賢治が「ソウイウモノニナリタイ」デクノボーとは、
「人の心の悲しみがわかる」ということなのかも…

足るを知る「吾唯足知」/龍安寺

「日々是好日」
松下幸之助『思うまま』より――
「歩一歩の歩み」

愚直に一歩、一歩、もう一歩
立ち止まってはいられない
「伴走」で参加しました。
前日(12/11)宮崎ブーゲンビリア空港に到着
当日(12/12)の朝、大会コースの橘橋から
当日の朝、ホテルのフロントで
阪神タイガース背番号24番の横田慎太郎さんのユニフォームに
「伴走」のゼッケンをつけてスタート。
12月とは思えぬ暑さでしたが「完走」

翌日(12/13)は、宮崎から二両編成のワンマン列車に乗って都城へ。
「霧島ファクトリーガーデン」を訪れ、
色々と振り返って語り合いながらランチを美味しくいただいたり、
工場見学を楽しんだり、最高に贅沢な一日をまったり過ごしました。
工場から望む霧島
霧島焼酎神社の手水
100%のこだわり
多くの皆さんの支えで大会が無事に開催されたおかげで、
自分たちの力を出し尽くして「完走」を果たすことができ、
また、大会後の打ち上げの帰りに迂闊にも財布を落としたのですが、
親切にも交番に届けてくださった方がおられたおかげで、
最後まで楽しい旅を続けることができ、本当に心から感謝です。
そして昨夜(12/13)のNHK「逆転人生」に、横田慎太郎さんが登場。
色々と悲しみや辛さを味わってきた横田慎太郎さんだからこそ、
人の心の悲しみがわかるし、伝えられることがある。
これからの活躍がますます楽しみです。
岡潔『数学を志す人に』より――
「春宵十話」
いま、たくましさはわかっても、
人の心の悲しみがわかる青年がどれだけあるだろうか。
人の心を知らなければ、
ものごとをやる場合、緻密さがなく粗雑になる。
粗雑というのは対象をちっとも見ないで
観念的にものをいっているだけということ、つまり
対象への細かい心くばりがないということだから、
緻密さが欠けるのは
いっさいのものが欠けることにほかならない。
人の心の悲しみがわかる青年がどれだけあるだろうか。
人の心を知らなければ、
ものごとをやる場合、緻密さがなく粗雑になる。
粗雑というのは対象をちっとも見ないで
観念的にものをいっているだけということ、つまり
対象への細かい心くばりがないということだから、
緻密さが欠けるのは
いっさいのものが欠けることにほかならない。
「かぼちゃの生いたち」
人が喜んでいるということは割合に早くわかるが、
一番わかりにくいのは人が悲しんでいる、
あるいは悲しむだろうということで、
これは容易にはわからない。しかしこれがわからないと、
道義の根本を、表層的にではなく、根源的に教えることができない。
それがわかるようになるのは、
だいたい、小学校の3,4年ごろだと思う。
また、人が悲しむようなことをする行為をにくむ、
これが正義心の始まりだが、
これも同じ年ごろで教えられると思う。
しかし、人の悲しみがわかるといっても、
そのわかるという言葉の内容だが、徹底的にわかると、
人が悲しんでいると自分も悲しくなる。
人の悲しみを自分も悲しいという形で受け取るようになる。
これは十代では無理であって、二十歳以後だと思う。
一番わかりにくいのは人が悲しんでいる、
あるいは悲しむだろうということで、
これは容易にはわからない。しかしこれがわからないと、
道義の根本を、表層的にではなく、根源的に教えることができない。
それがわかるようになるのは、
だいたい、小学校の3,4年ごろだと思う。
また、人が悲しむようなことをする行為をにくむ、
これが正義心の始まりだが、
これも同じ年ごろで教えられると思う。
しかし、人の悲しみがわかるといっても、
そのわかるという言葉の内容だが、徹底的にわかると、
人が悲しんでいると自分も悲しくなる。
人の悲しみを自分も悲しいという形で受け取るようになる。
これは十代では無理であって、二十歳以後だと思う。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」で
東に行ったり、西に行ったり、南に行ったり、北に行ったりは、
いずれも、「喜び」でなく、「悲しみ」のあるところで、
賢治が「ソウイウモノニナリタイ」デクノボーとは、
「人の心の悲しみがわかる」ということなのかも…
年始恒例の私の漢字一文字、ことしは「伴」でした。

伴走の「伴」ですが、「同伴」や「随伴」のように
お供する、付き従う、主従関係のイメージありますが、
私が「伴走」を通じて学んだ伴のイメージはパートナーでした。
◆私の今年の一文字「伴」/2021.1.3
しかし、今回の伴走で、私の「伴」の理解が変わりました。
この続きはまた明日
◆ふたりが修羅場/2021.12.15

伴走の「伴」ですが、「同伴」や「随伴」のように
お供する、付き従う、主従関係のイメージありますが、
私が「伴走」を通じて学んだ伴のイメージはパートナーでした。
◆私の今年の一文字「伴」/2021.1.3
しかし、今回の伴走で、私の「伴」の理解が変わりました。
この続きはまた明日
◆ふたりが修羅場/2021.12.15
私は人というものが何より大切だと思っている。
私たちの国というのは、この、
人という水滴を集めた水槽のようなもので、
水は絶えず流れ入り流れ出ている。
これが国の本体といえる。
ここに澄んだ水が流れ込めば、水槽の水は段々と澄み、
濁った水が流れ込めば、全体が段々に濁ってゆく。
それで、どんな人が生まれるかということと、
それをどう育てるかということが、
何より重大な問題になる。
「60年後の日本」/岡潔『数学を志す人に』
私たちの国というのは、この、
人という水滴を集めた水槽のようなもので、
水は絶えず流れ入り流れ出ている。
これが国の本体といえる。
ここに澄んだ水が流れ込めば、水槽の水は段々と澄み、
濁った水が流れ込めば、全体が段々に濁ってゆく。
それで、どんな人が生まれるかということと、
それをどう育てるかということが、
何より重大な問題になる。
「60年後の日本」/岡潔『数学を志す人に』
足るを知る「吾唯足知」/龍安寺

「日々是好日」
いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。
一歩一歩がゴールであり、
一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない。
(坂村真民さんが好きなゲーテの言葉)
一歩一歩がゴールであり、
一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない。
(坂村真民さんが好きなゲーテの言葉)
松下幸之助『思うまま』より――
「歩一歩の歩み」

愚直に一歩、一歩、もう一歩

立ち止まってはいられない
Thank you very much. この続きはまたいつか
会計は算術ではなく、思想である
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。

会計は算術ではなく、思想である

会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。