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宮 直史ブログ−“信はたていと、愛はよこ糸”

岡崎嘉平太記念館(岡山・吉備高原)で出会ったメッセージに深い感銘を受けました。
『信はたていと、愛はよこ糸、織り成せ 人の世を美しく』(岡崎嘉平太氏)
・・・私も、皆様方とともに世の中を美しく織りあげていくことを目指して、このブログを立ち上げました。よろしくお願いします。


こんにちは!宮です

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未知なる道を探索して歩き進む [2021年11月15日(Mon)]
民族学博物館で開催中の特別展「さわる!触の大博覧会」
KIMG0277_2.JPG

『図録』の総論(広瀬浩二郎「未開の知に触れる」)より――
アントニオ猪木がプロレスを引退する時に朗読した「道」という詩がある。
「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。
 踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。
 迷わず行けよ。行けばわかるさ。」
アントニオ猪木は格闘家としてさまざまな挑戦を続けてきた。
異種格闘技戦など、「道なき道=未知なる道」を歩んできたともいえる。
挑戦することによって自分は成長してきたのだという自負が
「道」の詩に凝縮されている。猪木の生き方(行き方)は、
確認型ではなく探索型だろう。(以下、略)


遠藤周作『影に対して』で、主人公の母が
主人公に宛てた手紙に記した言葉を思い出しました。
――「海の砂浜は歩きにくい。
歩きにくいけれどもうしろをふりかえれば、
自分の足あとが一つ一つ残っている。
そんな人生を母さんはえらびました
あなたも決して アスハルトの道など歩くような
つまらぬ人生を送らないで下さい。」

なお、アントニオ猪木が引退式で朗読した「道」という詩ですが、
清沢哲夫氏の詩の改変とのこと。ご参考までに
「道」
此の道を行けば どうなるのかと 危ぶむなかれ
危ぶめば 道はなし
ふみ出せば その一足が 道となる その一足が 道である
わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ

(初出は昭和26年10月『同帰』、清沢哲夫「無常断章」より)
◆レファレンス事例詳細/国立国会図書館

民博で開催中の特別展「さわる!触の大博覧会」に
先週の日曜日(11/7)に行ってきましたが、
一昨日の土曜日(11/13)に再び出かけました。

前回は「単独」で鑑賞でしたが、
二度目の今回は、伴走練習の仲間で全盲の視覚障害者をお誘いし、
「さわる」達人とご一緒だったので、
前回以上に多くの気づきを得て、とても有意義でした。
以下、そのメモ...φ(.. )

「さわる」に三つあり
 ★「見てさわる」
 ★「見ないでさわる」
 ★「見えないからさわる」

★「見てさわる」・・・ 広瀬先生が説かれる「確認型」の鑑賞
★「見えないからさわる」・・・「探索型」の鑑賞(無視覚流鑑賞

両者は根本的に違う。
「確認型」は、まず「視覚」によって情報を得て、
既に得た情報をさわって確認する。
いわば「追認」であり、視覚によって情報を得たことで
「分かったつもり」になって思考停止。新たな知覚が働かない。

視覚によって得た情報で「分かったつもり」になり、
さわれるのに「さわらない」。
分かったつもりで「分かったわけじゃない」のに行動しない

インプットされた知識は増えるが、新たな気づき(発見)は生まれない
「新たなインプット」に対して「新たなアウトプット」がない、
ということは、生産性が低いどころか、まったくゼロ

たとえば、「等身大の木彫りの人物彫刻」が展示されていることは、
見れば分かる(視覚で認知)。
そして、展示の説明書きを見て読むことで、
その彫刻が「耳なし芳一」であることを知る。なるほどと納得し、
耳なし芳一ってどんな物語だったっけ、作者は小泉八雲だったよね、
などなど、展示された彫刻とは直接関係のない話に展開。

さらに展示の説明書き(墨字であれ点字であれ)を注意深く読むと、
その木彫りの彫刻について右手だけが素材が違うことを知る。
「へぇー、そうなんだ」と知り、右手を「さわって確認」するか、
それとも「さわらず」に通り過ぎて次の展示に進むか。

「さわれば分かり、さわらなければ分からないことがある」のに、
読んで得た知識で「分かったつもり」になって行動せず、モッタイナイ
一方、右手だけさわって素材の違いを確認し、
なるほどと納得して「分かったつもり」になるのも、モッタイナイ

展示の説明書きや音声ガイドが提供する情報に頼ることなく、
「虚心坦懐」に「素直な心」で展示物に向き合う
と、
右手だけさわって終わることはない(はず)。

展示物の全体をくまなくさわって「探索」し、
右手の素材の違いとは別の新たな気づきに出会う(発見)。

たとえば、頭をさわれば坊主頭であることに気づき、
そして耳のないことに気づく。さらによく注意してさわる(触察)と、
ただ耳がないのではなく、耳が引きちぎられていることに気づく。

「耳なし芳一」だから坊主頭で、目が見えないから杖をついていて、
そして右手だけ素材が違うことは、展示の説明書きを見ることで分かるし、
さわることで「確認」できるが、それ以上の気づき(発見)はない。

新たな気づき(発見)は「探索」から生まれる
そして、出展作品のタイトル「てざわりの旅」になるほどと納得する。

民博では、初代館長の梅棹忠夫さんの方針で、
展示品の多くはガラスケースに入れられずに露出して展示され、
一方、展示の解説の説明書きは「必要最小限」にとどめられている。
――「あえて不親切」

博物館というところは、知的欲望を開発する場なのです。
『梅棹忠夫のことば』(小長谷有紀編)

美術展でも、せっかくの作品を尻目に殺して、
説明書きに目を向けて読んだり、
音声ガイドに耳を傾けたりする人のなんと多いことか・・・(自戒)

各種の分析データを含めて「情報の多さ」が本当によいことか自問。
―― 過多な情報や過去の経験などの先入観に囚われて
分かったつもりで思考停止では、
知的欲望の開発」も「未知の探索」もなされず、
新たな気づき(発見)は生まれない。

ならば、新たな気づきを得るには、情報が少ない方がいいのか。
「否」
情報が多いことが問題ではなく、過多な情報に囚われて
得た情報で分かったつもりになる自分に問題あり。
―― 問われるのは、得た情報に対してパッシブ(受け身)か、
それとも、アクティブ(未知の探索)か

ここにあるものを手がかりにここにないものを想う
その<想像>という心のたなびきが
どんどん短くなっているようにおもう

何かの情報やイメージが眼の前に現れたときに、
それをとくに吟味することもなく額面どおりに受け入れる
逆にあたまからそれにふれることを拒み、撥(は)ねつける
それにすぐさま同意する、あるいは反撥する
それに対して適切な距離というものがとれない。
それがどうしてそのようなかたちで現れてきたのか、
それがわたしにはすぐに見えない遠くのひとにとって
どのような意味をもつのかに、うまく想いをはせることができない。
鷲田清一『想像のレッスン』

★「見ないでさわる」・・・ まぶたを閉じたり、
アイマスクをしたりで「見えない世界」を疑似体験することで、
見えるありがたさをあらためて知るとともに、
見えない世界に生きる人が抱えておられる様々なご苦労を知る。
そして、ハンディキャップを超越して頑張る人たちの姿に深い感銘を受ける。

見て分かったつもりで「さわらない」よりは
「見てさわる」方がさわることで何らかの確認ができるし、
そこに新たな気づきが生まれるかもしれない。さらに、
「見ないでさわる」と別の新たな気づきが生まれるかもしれない。
が、疑似体験に満足しているだけで、果たして
その気づきから「知的欲望の開発」や「未知の探索」に踏み出せるか


今回の特別展に参加したことで生まれた新たな問題意識に対して、
誰もが幸せになる「ユニバーサル」について広瀬先生が説かれるように、
・「人に優しい」の上から目線でなく「人が優しい」とか、
・「障害/健常」の二項対立でなく「障害者・見常者」とか、
・ 障害と健常を隔てる「/」か、障害と見常を相互につなぐ「・」か
などなど、色々と自分の意識の中で注意して心がける必要ありです。

今回は、さわる達人と一緒に鑑賞することで、
「視覚」と「触覚」の違いがよく分かりましたが、
その一方で、触覚の「限界」も実感でき、
また、「群盲象を評す」といった諺が意味するところも納得です。
KIMG0309_2.JPG
―― ゴッホの「ひまわり」や、壁一面の大きな作品もさわれますが……

また、特別展の関連イベントにも参加。
前回は、70年代にTV放送の瞽女さんのドキュメンタリー映像を視聴。
そして今回は「身体で聴く土の音」に参加。
陶器で作られた様々な音具(おんぐ)を
叩いたり、転がしたりして奏でる土の音を「身体で聴く
触覚が手で触るだけではない」を実感。

色々と有意義で、実りの秋に相応しい収穫の多い一日でした。

下のYouTube動画「仏像触察映像」は、
国宝の正しいさわり方(作法と技法)のレクチャービデオ。


今回の特別展でも、会場に入ってまず最初に、
国宝の興福寺仏頭をたっぷり「触察」できます(観察でなく触察)。

「歴史にさわる」、「風景にさわる」、「音にさわる」、、
――「さわるとわかる、わかるとかわる!

ということは、
さわらなけれは分からない、わからないと変われないひらめき
―― それでも、さわらず、分かったつもりで通り過ぎていきますか?

「ぼくはきっとできるとおもう。
なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから。」
宮沢賢治『ポラーノの広場』

KIMG0268_2.JPG
(11/7)
KIMG0271_2.JPG

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「星とたんぽぽ」金子みすゞ
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ

散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ

じゃあ秘密を教えるよ。
とてもかんたんなことだ。
ものごとはね、心で見なくてはよく見えない
いちばんたいせつなことは、目に見えない
サン=テグジュペリ『星の王子さま』(河野万里子訳)

「アラユルコト」ヲ
「ジブンヲカンジョウニ入レズ」ニ
「ヨク」「ミ」「キキ」シ「ワカリ」
ソシテ「ワスレズ」
東ニ・・・アレバ「行ッテ」・・・
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「雨ニモマケズ手帳」(佛立ミュージアムの展示)

あらゆることを(好き嫌い、得手不得手、個人集団社会自然宇宙)
自分を勘定に入れず(私心なく、無私、忘己利他、自他不二、自他一如)
よく(世間の常識や過去の経験など先入観や思い込みに囚われず)
見る(素直な心で物事の実相をありのままに見る)
聞く(虚心坦懐、謙虚に耳を傾ける)
分かる(相手の立場に立って理解する)
・そして忘れず(自らの心に深く受け止め)
・さらに「行って」なすべきことをなす

いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。
一歩一歩がゴールであり、
一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない。
(坂村真民さんが好きなゲーテの言葉)

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足るを知る「吾唯足知」/龍安寺

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「日々是好日」

松下幸之助『思うまま』より――
「歩一歩の歩み」
人生においてはカメのような、歩一歩のあゆみが大切だと思う。
速度を多少速めるのはよいが、二歩三歩いっぺんに飛ぼうとすれば
往々にして失敗することにもなろう。
P1010032.JPG旧豊郷小学校足跡

mampo.jpg
愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡
立ち止まってはいられない

Thank you very much. この続きはまたいつか四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
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