生きている時間をいかに有効に使うか
[2021年09月11日(Sat)]
本田宗一郎『スピードに生きる』より――
(1961年刊、今から60年前の本です)
自分に与えられた「時間」が生きているか、お陀仏か、
「生きている時間」を有効に使う(「お陀仏な時間」では使えない)
そのために時間をカネで買うというより「時間を稼ぐ」
その源は「アイデア・創意工夫」であり、知識でなく「知恵」
−−「知識(経験)は死んでいる。過去のものだ。
惰眠を貪っている場合ではない
「生死事大、光陰可惜、無常迅速、慎勿放逸」
ミヒャエル・エンデ『モモ』より――
6章「インチキで人をまるめこむ計算」
12章「モモ、時間の国につく」
(1961年刊、今から60年前の本です)
(…)
現代がなぜスピード化されたか、それはいうまでもなく
時間の浪費こそ、最大の贅沢だからであろう。
とにかく、私たちは体を消耗しないで、
短時間に有効な仕事をしなければならない。
自転車にバイクをつけるのも
然りであって、決して贅沢品とはいえない。
また最近、医学の発達は
人生50年を15,6年延長したといわれるが、しかし、
ただ単に「お前100までわしゃ99まで」生きたところで、
それだけでは幸福とはいえない。
ほんとうの幸福は、生きている時間をいかに有効に使うかによって、
これが幸福の意味になるし、
またそこにその人の価値が表れてくるわけである。
一つのネクタイやネックレースの如何よりも、
時間の浪費こそ最大の贅沢であることを私たちは忘れてはならない。
現代がなぜスピード化されたか、それはいうまでもなく
時間の浪費こそ、最大の贅沢だからであろう。
とにかく、私たちは体を消耗しないで、
短時間に有効な仕事をしなければならない。
自転車にバイクをつけるのも
然りであって、決して贅沢品とはいえない。
また最近、医学の発達は
人生50年を15,6年延長したといわれるが、しかし、
ただ単に「お前100までわしゃ99まで」生きたところで、
それだけでは幸福とはいえない。
ほんとうの幸福は、生きている時間をいかに有効に使うかによって、
これが幸福の意味になるし、
またそこにその人の価値が表れてくるわけである。
一つのネクタイやネックレースの如何よりも、
時間の浪費こそ最大の贅沢であることを私たちは忘れてはならない。
ほんとうの幸福は、
生きている時間をいかに有効に使うかによって、
これが幸福の意味になるし、
またそこにその人の価値が現れてくるわけである。
本田宗一郎『スピードに生きる』
生きている時間をいかに有効に使うかによって、
これが幸福の意味になるし、
またそこにその人の価値が現れてくるわけである。
本田宗一郎『スピードに生きる』
自分に与えられた「時間」が生きているか、お陀仏か、
「生きている時間」を有効に使う(「お陀仏な時間」では使えない)
そのために時間をカネで買うというより「時間を稼ぐ」
その源は「アイデア・創意工夫」であり、知識でなく「知恵」
−−「知識(経験)は死んでいる。過去のものだ。
智慧は生きている。今のものであり、将来のものだ」本田宗一郎
惰眠を貪っている場合ではない
「生死事大、光陰可惜、無常迅速、慎勿放逸」
何も生死の問題だけではありません。
私達にはそれぞれ成すべき「道」があり「目的」があるはずです。
それに向かって雑用心する事なく邁進すべきです。
私達にはそれぞれ成すべき「道」があり「目的」があるはずです。
それに向かって雑用心する事なく邁進すべきです。
ミヒャエル・エンデ『モモ』より――
6章「インチキで人をまるめこむ計算」
とてもとてもふしぎな、
それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。
すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、
そのことを考えてみる人はほとんどいません。
たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、
それをいっこうにふしぎとも思わないのです。
この秘密とは ―― それは時間です。
時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、
はかってみたところであまり意味はありません。
というのは、だれでも知っているとおり、
その時間にどんなことがあったかによって、
わずか1時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、
ほんの一瞬と思えることもあるからです。
なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。
そして人のいのちは心を住みかとしているからです。
------------------
時間をケチケチすることで、
ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、
だれひとり気がついていないようでした。
じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、
日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、
だれひとりみとめようとはしませんでした。
------------------
けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。
そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。
それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。
すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、
そのことを考えてみる人はほとんどいません。
たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、
それをいっこうにふしぎとも思わないのです。
この秘密とは ―― それは時間です。
時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、
はかってみたところであまり意味はありません。
というのは、だれでも知っているとおり、
その時間にどんなことがあったかによって、
わずか1時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、
ほんの一瞬と思えることもあるからです。
なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。
そして人のいのちは心を住みかとしているからです。
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時間をケチケチすることで、
ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、
だれひとり気がついていないようでした。
じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、
日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、
だれひとりみとめようとはしませんでした。
------------------
けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。
そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。
12章「モモ、時間の国につく」
「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、
足るを知る「吾唯足知」/龍安寺
「日々是好日」
愚直に一歩、一歩、もう一歩
立ち止まってはいられない
きわめて不完全ながらもまねて象(かたど)ったものなのだ。
光を見るためには目があり、
音を聴くためには耳があるのとおなじに、
人間には時間を感じとるために心というものがある。
そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、
その時間はないもおなじだ。
ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、
鳥の声が耳の聞こえない人にはないもおなじなようにね。
でもかなしいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、
なにも感じとれない心をもった人がいるのだ」
光を見るためには目があり、
音を聴くためには耳があるのとおなじに、
人間には時間を感じとるために心というものがある。
そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、
その時間はないもおなじだ。
ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、
鳥の声が耳の聞こえない人にはないもおなじなようにね。
でもかなしいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、
なにも感じとれない心をもった人がいるのだ」
人間には時間を感じとるために心というものがある。
その心が時間を感じとらないようなときには、
その時間はないもおなじだ。
心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、
なにも感じとれない心をもった人がいるのだ。
ミヒャエル・エンデ『モモ』
その心が時間を感じとらないようなときには、
その時間はないもおなじだ。
心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、
なにも感じとれない心をもった人がいるのだ。
ミヒャエル・エンデ『モモ』
足るを知る「吾唯足知」/龍安寺
「日々是好日」
愚直に一歩、一歩、もう一歩
立ち止まってはいられない
Thank you very much. この続きはまたいつか
会計は算術ではなく、思想である
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
会計は算術ではなく、思想である
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。