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宮 直史ブログ−“信はたていと、愛はよこ糸”

岡崎嘉平太記念館(岡山・吉備高原)で出会ったメッセージに深い感銘を受けました。
『信はたていと、愛はよこ糸、織り成せ 人の世を美しく』(岡崎嘉平太氏)
・・・私も、皆様方とともに世の中を美しく織りあげていくことを目指して、このブログを立ち上げました。よろしくお願いします。


こんにちは!宮です

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主もなく客もなく、真の主客合一 [2021年07月01日(Thu)]
朝ランの道すがら、千里の氏神さま「上新田天神社」で、
西田幾多郎の言葉に出合いました。
IMG-9642.jpg
「物を知るにはこれを愛さねばならず、
 物を愛すにはこれを知らねばならない」。

西田幾多郎『善の研究』の
最終編の第4編「宗教」の最終章の第5章「知と愛」より――
(…)
我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である
自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである。
我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。
月を愛するのは月に一致するのである。
親が子となり子が親となり
ここに始めて親子の愛情が起るのである。
親が子となるが故に
子の一利一害は己の利害のように感ぜられ、
子が親となるが故に
親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。
我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなる程
愛は大きくなり深くなる

親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすすむ。
仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。
斯の如く知と愛とは同一の精神作用である
それで物を知るにはこれを愛せねばならず、
物を愛するのはこれを知らねばならぬ

数学者は自己を棄てて数理を愛し数理其者と一致するが故に、
能く数理を明にすることができるのである。
美術家は能く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に
没することに由りて甫めて自然の真を看破し得るのである。
また一方より考えて見れば、
我はわが友を知るが故にこれを愛するのである。
境遇を同じうし思想趣味を同じうし、
相理会するいよいよ深ければ深い程同情は益々濃かになる訳である。
しかし愛は知の結果、知は愛の結果というように、
この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない
知は愛、愛は知である
たとえば我々が自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識である
自己を忘れ、ただ自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている
この時が主もなく客もなく、真の主客合一である
この時が知即愛、愛即知である
数理の妙に心を奪われ寝食を忘れてこれに耽ける時、
我は数理を知ると共にこれを愛しつつあるのである。
また我々が他人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく
他人の感ずる所を直に自己に感じ、共に笑い共に泣く
この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである
愛は他人の感情を直覚するのである。
池に陥らんとする幼児を救うに当りては
可愛いという考すら起る余裕もない

人の心に棲むことによって、人もこう思うだろう、
そうすればこういうものをつくれば喜んでくれるだろうし、
売れるだろうと言うことが出てくる。
それをつくるために技術が要る。すべて人間が優先している
本田宗一郎『ざっくばらん』

人を動かすことのできる人は、
他人の気持ちになることのできる人である。
そのかわり、他人の気持ちになれる人というのは自分が悩む
自分が悩まない人は、他人を動かすことができない
本田宗一郎『私の手が語る』

人の心に棲むということを、ここでは宗一郎は
他人の気持ちになることのできる」と表現している。同じことである。
他人の気持ちを「外から観察する」のではない
人間として「その人になってみる」
「内側に自分で棲んでみる」のであるその違いは大きい
伊丹敬之『人間の達人 本田宗一郎』

山田無文『自己を見つめる』より――
川端康成さんが、道元禅師のお歌を引用して講演なさった
美しい日本の私
――この演題そのものにも深い意味があると、わたくしは思います。
国鉄が宣伝している「ディスカバー・ジャパン」、
あのポスターには「美しい日本と私」と書かれておりますが、
それじゃいかんのです
「と」じゃない、「の」でなければならんのです
川端さんの「美しい日本の私」は、
「美しい日本」と「私」は別もんじゃない
美しい日本がそのまま私、私がそのまま美しい日本だということです。
「の」一字にこめられた深い意味がそこにあるのです。
親と子じゃない、親の子です、子の親です。
夫と妻じゃいかん。夫の妻、妻の夫です。
先生と生徒じゃいかん。生徒の先生、先生の生徒です。
社長と社員もいかん。社員の社長、社長の社員と、
すべてこれでなければならんのです。
日本はむかしから「天皇と人民」とは一度もいわなんだ。
天皇の人民、人民の天皇です。そのように、
社会の私、私の社会、日本の私、私の日本となって、
世界の私、私の世界、人類の私、私の人類というように、
対立を超えた純粋な人間性を自覚していかねばならんのであります。
人類がなければ私はない。世界がなければ私はない
人類が、世界が、私という存在を証明してくれているのです。
だから世界を愛し、人類を愛し、その世界の中で人類とともに生きていく
―― そういう偉大なる人間性こそが「真実の自己」だとわかることが、
人生でもっとも大切なこと
なのです。

---------------
(A)「美しい日本の私」よりも、「と」のほうがよかったんですか。
(F)「の」では、美しい日本の中に自分が囲われている感じ。
(A) 要するに、美しい日本と、旅人としての自分は対等であると。

対等の旅人の客人(第三者の他人)か、
それとも、真の主客合一(真実の自己)か、
―― その違いは大きいひらめき

隻手の声は確かに聞けるのです。
聞こえてこなければならんのです。
つまり、自我を捨てよということです。
どこまでも自我で聞こうとするかぎり
両手の音しか聞こえないのは当然です。
山田無文『自己を見つめる』
IMG-9527.jpg

毎日の生活の中において
そのものそのものになりきっていくことが禅であります。
学校で勉強すること、会社で働くこと、
三度の食事をいただくこと、いましているそのことに、
いつも無念夢想となって打ち込んでいく
ならば、
立派に坐禅を実践していると申せましょう。
山田無文『自己を見つめる』


IMG-9307.jpg
「日々是好日」

mampo.jpg
愚直に一歩、一歩、もう一歩足跡
立ち止まってはいられない

Thank you very much. この続きはまたいつか四つ葉
会計は算術ではなく、思想である位置情報
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
 
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