隻手音声
[2021年06月18日(Fri)]
Bunkamuraのミュージアムで開催された展覧会の会場で買い求めた
白隠の禅画の日めくりカレンダー、
本日(18日)の言葉は「隻手音声(せきしゅおんじょう)」です。
―― 両手を合わせてたたくと音がする。
サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』の扉にも登場します。
「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?」― 禅の公案 ―
日めくりの解説には
両手なら自分一人で鳴らせることもできるが、
片手は一人で鳴らすことはできない(二人ならできる)。
あるいは、現実と向き合い、耳をすまして声なき声を聴き取り、
目を見開いて目に見えないものを観よ!ということか。
「おのれにこそ、よるべをぞ獲ん」か、それとも「己こそ、寄るべなり」か
前者なら「そんな自分にこそ、えがたい拠り所を得られる」になり、
後者なら「そんな自分こそ、えがたい拠り所である」になるのでしょう。
(前者も「自分のえがたい拠り所」が自分なら、後者と同じか?)
いずれにせよ、かつての私は間違いなく後者でした。
「ライバルは昨日の自分」と自分で自分を鼓舞して叱咤激励。
今も「昨日より今日」と向上する意識は変わっていないつもりですが、
言葉のちょっとした違いに目が留まるようになってきたかもです。
どちらが正しいということではないのですが、
松下幸之助さんが説かれる
「互いの自主自立なくして共存共栄は成り立たない」
「自主自立の実力の上に共存共栄の花が咲く」は前者なのかもです。
「日々是好日」
愚直に一歩、一歩、もう一歩
立ち止まってはいられない
白隠の禅画の日めくりカレンダー、
本日(18日)の言葉は「隻手音声(せきしゅおんじょう)」です。
―― 両手を合わせてたたくと音がする。
では片手ではどのような音がするか、それを聞き届けよ
サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』の扉にも登場します。
「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?」― 禅の公案 ―
日めくりの解説には
信州伊那の那須野さん女は、隻手の公案に
「白隠の片手の声を聞くよりも、両手たたいて商ひをせよ」と答えた。
白隠はこれに対して
「商ひが両手たたいてできるなら、隻手の声は聞くに及ばす」
と言ったという。
「白隠の片手の声を聞くよりも、両手たたいて商ひをせよ」と答えた。
白隠はこれに対して
「商ひが両手たたいてできるなら、隻手の声は聞くに及ばす」
と言ったという。
両手なら自分一人で鳴らせることもできるが、
片手は一人で鳴らすことはできない(二人ならできる)。
あるいは、現実と向き合い、耳をすまして声なき声を聴き取り、
目を見開いて目に見えないものを観よ!ということか。
素直な心が働かなければ他人の声に耳を傾けようとしなくなる
耳を傾けようとしなければ衆知が集まらなくなる
松下幸之助『素直な心になるために』
耳を傾けようとしなければ衆知が集まらなくなる
松下幸之助『素直な心になるために』
ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。
いちばんたいせつなことは目に見えない。
サン=テグジュペリ『星の王子さま』
いちばんたいせつなことは目に見えない。
サン=テグジュペリ『星の王子さま』
昼間の星は見えなくとも、
だからといって存在しないわけではなく、確かにそこにある。
経済活動においても、見えない存在があることを、
つねに念頭に置いていることが大切ではないだろうか。
数字やデータに表れない情報、世界の本質に、
私たちは、もっと目を向けるべきなのだ。
みんなはデータにできるいくつかの指標を後生大事に、
忙しい中それだけを見ている。しかし
世の中には、データにできない大切なことがいっぱいあるのだ。
福原義春『美 ―「見えないものをみる」ということ』
だからといって存在しないわけではなく、確かにそこにある。
経済活動においても、見えない存在があることを、
つねに念頭に置いていることが大切ではないだろうか。
数字やデータに表れない情報、世界の本質に、
私たちは、もっと目を向けるべきなのだ。
みんなはデータにできるいくつかの指標を後生大事に、
忙しい中それだけを見ている。しかし
世の中には、データにできない大切なことがいっぱいあるのだ。
福原義春『美 ―「見えないものをみる」ということ』
おのれこそ おのれのよるべ
おのれを措きて 誰によるべぞ
よくととのえし おのれにこそ
まことえがたき よるべをぞ獲ん
おのれを措きて 誰によるべぞ
よくととのえし おのれにこそ
まことえがたき よるべをぞ獲ん
「ダンマパダ」160/友松圓諦『法句経』
己こそ己の寄るべ 己をおきて誰によるべぞ
良く整えし己こそ まこと得がたき寄るべなり
良く整えし己こそ まこと得がたき寄るべなり
「おのれにこそ、よるべをぞ獲ん」か、それとも「己こそ、寄るべなり」か
前者なら「そんな自分にこそ、えがたい拠り所を得られる」になり、
後者なら「そんな自分こそ、えがたい拠り所である」になるのでしょう。
(前者も「自分のえがたい拠り所」が自分なら、後者と同じか?)
いずれにせよ、かつての私は間違いなく後者でした。
「ライバルは昨日の自分」と自分で自分を鼓舞して叱咤激励。
今も「昨日より今日」と向上する意識は変わっていないつもりですが、
言葉のちょっとした違いに目が留まるようになってきたかもです。
どちらが正しいということではないのですが、
松下幸之助さんが説かれる
「互いの自主自立なくして共存共栄は成り立たない」
「自主自立の実力の上に共存共栄の花が咲く」は前者なのかもです。
自主経営というものは相手から与えられるものやない。
自主経営は自分でやるものである。
その自主性というものがあったときに、相手の力が生きて働く。
それが共存共栄に働くんだと、こう私は思うんですね。
「共存共栄と自主経営」/『松下幸之助の経営問答』
自主経営は自分でやるものである。
その自主性というものがあったときに、相手の力が生きて働く。
それが共存共栄に働くんだと、こう私は思うんですね。
「共存共栄と自主経営」/『松下幸之助の経営問答』
自力を中心でやっていく姿には、それだけ外部の信用も生まれ、
求めずして他力が集まってくるということもある。
これはいわば理外の理ともいうべきものかもしれないが、
そういうものが世間の一つの姿なのである。
「自主経営を心がけること」/松下幸之助『実践経営哲学』
求めずして他力が集まってくるということもある。
これはいわば理外の理ともいうべきものかもしれないが、
そういうものが世間の一つの姿なのである。
「自主経営を心がけること」/松下幸之助『実践経営哲学』
「日々是好日」
愚直に一歩、一歩、もう一歩
立ち止まってはいられない
Thank you very much. この続きはまたいつか
会計は算術ではなく、思想である
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。
会計は算術ではなく、思想である
会計情報という数字を介して、経営との対話がはじまる。