CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«あの日から… | Main | 楢葉町会津美里出張所»
<< 2018年03月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
染井 敏
この夏、福島の高校生の舞台を東京で (08/07) 楢葉町応急仮設住宅 (宮里応急仮設住宅)
移動カフェ (03/14) ぴえ〜る☆
移動カフェ (03/13) 楢葉町応急仮設住宅 (会津美里町)
楢葉町きずな再生電子回覧板事業 (01/29) ナイス叶野
楢葉町きずな再生電子回覧板事業 (01/24) ボランティアセンター
春の嵐 (04/04) まんまるの気持ち
春の嵐 (04/04) ボランティアセンター
ならはっ子の一年 (03/15) usako
ならはっ子の一年 (03/14) まんまるの気持ち
あの日から… (03/12)
ならはっ子の一年 [2012年03月12日(Mon)]
H23・3・11…あの日、私たちの生活は180度一変してしまいました。
幼稚園の卒園式・小学校の卒業式を目前に控え…
4月からは新しい小・中・高・大学・新社会人への1歩を歩み出そうとしていた時、
東日本大震災・原発事故によって打ち砕かれてしまいました。

仲良しだったお友だち・大好きな先生たちとサヨナラも言えず、
突然離ればなれになってしまった子どもたち。小さな胸に、
たくさんの想いを募らせていた1年だったことでしょう。

見知らぬ町での避難・学校生活…たくさんの葛藤があったことと思います。

今回は、そんな子どもたちの声を載せてみました。


*「学校でさいしょはいじわるされたりしたけど、
休みじかんにあそぼうっていってくれました。
おべんきょうも、おしえてくれました。それで学校がすきになりました。
あと、かせつにもなれました。けど、ともだちがいわきにいっちゃうので
すこしさびしいとおもいました。」…佐土原 柊くん(小1)

*「3月11日、かえりのかいのとき、みんなつくえの下にもぐったから、
何でもぐるんだろうと思いながらもぐったしゅんかんに大きくゆれました。
みんなびっくりして、女の子はないて、男の子はなぐさめてくれました。
図工でつくったものもたおれておち、そとへひなんしました。
それから、体いくかんへひなんしました。
10日の日に、「1回体いくかんにとまってみたいな。」とおばあちゃんに言っていました。
そしたら次の日に、ほんとうに体いくかんにとまるようになっちゃいました。

これからも、元気いっぱいに生きていきたいと思います。」…佐土原 桜さん(小2)

*「3・11から1年がたった今、原発事故は収まらず、家に帰る事も出来ずにとても残念です。
あの日…友達とサヨナラも言えずバラバラになってしまい、とても悲しかったです。
中学校の入学式の時、楢葉の友達何人かと同じ学校だったので、少し安心しました。
でも今は、ほとんどがいわきに戻ってしまいとても寂しいです。

3.11の出来事を忘れないようにしたいです。
早く楢葉町に戻って、みんなとまた笑って過ごせたらいいなと思います。
今は、少しの辛抱だと思って、頑張りたいです。」…佐土原 楓さん(中1)

*「高田小学校で友達がたくさんできました。
学校でも楽しい思い出がたくさんできました。

つらいこともあったけど、楽しいこともありました。
たのしい思い出がたくさんできるように、
がんばっていこうと思います。」…川嶋 李胡さん(小5)

*「新鶴中学校にきまり、学校にかよったけど、仲良しの友達とも離れてしまったため、
がんばる気持ちがなくなってしまったが、そのあと新鶴中のみんなとも仲良くなり、
先生や友達のおかげで楽しい中学校生活をおくることができました。

念願の【いわき総合高校】にも合格でき、これからもいわきでがんばっていこうと思います。

会津の皆さん、ありがとうございました!!」…川嶋 紗矢さん(中3)


〜震災から1年〜
*「この一年を振り返ると、本当にあっという間に過ぎた一年間だったと思います。
そして多くの人々に支えられた一年でした。
助けてくれる人がいなければ、今こうして生活することはできませんでした。

今、私は大学で勉強していますが、
将来は私が、困っている人々を助けたいと思います。」…金子 彩芽さん(19才)

*「震災から一年が過ぎましたが、最初の数か月はとても長く感じていましたが、
後からはあっという間に過ぎたように感じました。それも物資の調達を毎日のようにして下さった方や、
避難所を提供して下さった方のおかげでした。
他にも、震災後には大勢の人に助けてもらいながら、
今日まで過ごしてきたので感謝したいと思います。

今現在も、今までと違う環境で生活しているので苦労することも多々ありますが、
良い経験だと思って、これからもがんばりたいと思います。
そして、今後自分も復興に取り組んで前みたいな福島県にしていきたいと思います。」…金子 大輝くん(17才)

*「僕は、震災で友達と離ればなれになりとても悲しい一年でしたが、
今年は良い年であることを願います。」…金子 真広くん(中3)

*「まだ実感しませんが1年がたちます。
また3・11に地震がくるんじゃないかと思う時があり、怖くてしょうがありません。
もう地震がこないといのるしかありません。」…金子 蒼汰くん(中1)

*「震災から一年がたちました。
毎日大きな地震がくるんじゃないかと、ちょっと怖いです。

もどれる日がいつくるのかと思います。」…金子 知生くん(中1)  

*「ならはにかえりたいな…
きりんは、みんなでいたい。」…金子 季琳ちゃん(4才)

*「昨年の震災から1年。
避難生活は、未知の生活で本当に困った事を思い出します。

今、会津美里町の仮設住宅で暮らしていますが、住めば都で沢山の人たちに支えられ、
沢山の人たちの温かさに助けられ今日まで家族で頑張る事ができました。
この知らぬ土地、会津で子供たちが成長し、
私たち大人が支える事ができればと思う今日この頃です。
1日も早く帰りたい楢葉に…と思いますが、私たち家族は、
この会津に残り子供たちの成長を見守りたいです。

何年後に帰れるかわからないけど…また帰れたらいいなと…。
でも、今はこの目の前の事で…精一杯です。」…金子 沙登美さん

*「ならはから、しょうわ村にひなんして、会津みさと町にひなんしてきました。
会津にきて、新つるのお友だちとも友だちになれました。

夏休みがおわったら、いわきに行くけれど、みんなのことはわすれません。
いわきにいかないお友だちもいるけど、ときどきあそびにくるこもいるから、
そのときにたくさんあそびたいです。」…横田 歩夢さん(小2)

〜大じしんから一年がたって〜
*「わたしは、あいづみさと町のかせつじゅうたくにいます。
大じしんはとてもこわかったけど、いろんなところにいっぱいひなんして、
あいづについてからは、友だちもできたし、みさと町の人にささえてもらっているので
さびしくありません。
遠くにいるならはの友だちにスキー教室の話をしたら、「いいなー」と言われました。
毎日本当に楽しく元気にすごしています。

わたしは、時々ならはの自分の家がどうなっているのか見たいと思うこともあります。
今はまだ見に行けないけれど、安全になってほうしゃのうがなくなったら
見に行きたいと思います。」…名島 実季さん(小2)

〜あの大震災から一年が経って〜
*「私は小学校最後の一年間を会津の新鶴小学校で過ごしています。

私は原発事故で避難していますが、一番怖いのは地震です。
震度6強は、日本が割れてしまったのではないかと思ったほど大きいゆれだったし、
津波でもたくさんの人が亡くなったからです。
だけど「この大地震がなかったら、新鶴小の子と友達になれなかったんだな」と思うと、
ちょっと複雑です。
会津では、友達も先生も美里町の人もみんなあったかく、
私たちにとても親切にしてくれます。

学校の体育では、初めてスキーを体験しました。
避難中なのに充実した毎日を送れるのも、会津のみなさんのおかげです。
本当にありがとうございます。

これから私たちはどうなっていくかわかりませんが、
会津にいられる間は会津についてよく学び、
いつか楢葉の友達に教えてあげたいと思います。」…名島 桃香さん(小6)


*・楢葉に帰りたい? → ・帰りたくない
 ・楢葉の思い出は? → ・友達と遊んだ事
 ・会津の思い出は? → ・スキー、弟が生まれた事
 ・会津にいて良かった事は? → ・外で遊べる
 ・放射能気になる? → ・気にならない
 ・四年生になったら何をがんばる? → ・全部の勉強、お母さんの手伝い
…山内 かりんさん(小3)《質問はお母さん》


〜3・11の震災について〜
*「3月11日に起こった「東日本大震災」。
僕たちが住む楢葉町を含め、東日本全体が大変な被害にあいました。
今では、思い出したくないことがたくさんあります。でも、宮城県をはじめ、
津波で辛い思いをしている人のことを思うと、
いつまでもくよくよしていてはいけないと思いました。

僕は今、楢葉から遠く離れた「会津美里町」にいます。
新しい学校にも慣れ、ごく普通に暮らしています。
ときどきテレビで震災のことを放送されると、当時のことを思い出して心が痛みます。

しかし、当時のことは掘り起こさず、前向きに生きて行こうと思います。」…大和田 充樹くん(中1)

*「ぼくは3月11日に東日本大震災が起きた日、ぼくはちょうど学校の授業が終わり帰る頃でした。地震が起きた時、先生や友達と校庭の中央に地震がおさまるのを待っていました。
けれども地震は強くなる一方で、友達のお母さんやおばあちゃん達が体育館に避難してきました。それから1日が過ぎ、放射能が危ないということでいわき市に避難しました。
ぼくたちは、お父さんの実家に4日くらいいました。
それからいわきの中央台南に移動し、バスで会津美里町に向かいました。
約2時間バスにゆられながら、会津に到着しました。
そこからは、農村環境改善センターに行きました。
知り合いもいれば、全く知らない人もいて少しおどろきがあり、
知らない人たちとも仲良くなり、何も困らず生活できました。
そしてある日、自分の学校の教頭先生が会いに来てくれました。
それから数日たったとき震度3弱の地震が起きました。

 4月になって新鶴小学校に転校してクラスのみんなに紹介された時、
心臓がバクバクでした。それから友達と仲良くなって、学校生活が楽しくなりました。
それから、大川荘というホテルに移動になりました。

この1年間は、最悪の1年でもあり、最高の1年でもありました。
震災・津波で亡くなった方も大勢いて、悲しいと思いました。

これからも嫌なことがたくさんあると思うけど、みんな一緒に頑張ろうと思います。
だれかのために頑張ろうと思います。」…坂本 聖季くん(小5)

*「僕は震災が起きた3月11日の日は、まだ学校にいました。
その時はちょうど外に出ていたので、ロッカーなどが倒れてきてけがをすることはありませんでした。
その日は道路が陥没していたので家に帰れなかったので、学校の体育館に避難しました。
夜ご飯は水が出なかったので、買ってきた水で作ったごはんを食べました。
少しかたくて食べづらかったのですが、これしか食べるものがなかったので
我慢して食べて寝ようとしましたが、寝ている間もずっと余震があって、
ほとんど夜中も余震に反応して起きてしまって、眠れませんでした。

次の日の朝ごはんはふつうのお米でおにぎりが1人1個でした。
いつもなら普通に食べて何も特に感じないのですが、普通のごはんが食べられただけでもうれしかったです
。朝ごはんを食べてから少ししたら、ある1人の友達が原発から放射線がもれてるらしいよ≠ニきかされた時は、うそだろと思っていましたが、テレビで放射線がもれているということをやっていたので、本当だったんだと思いびっくりしました。
その後すぐに役場の人がきて、いわきの小・中学校に逃げて下さいと言われ、
車で急いでいわきに向かいました。
でも、僕のお母さんの車はガソリンが少ししかなく、
どこにあるかも分からない小・中学校へ行くより、お父さんの実家がいわきだったので
お父さんの実家に行きました。
途中でガソリンがなくなりそうだったのですが、
なんとか給油できたので無事実家に行くことができました。
お父さんの実家では、僕のおばあちゃん(お父さんのお母さん)が世話してくれて、
おかげで生活することができました。
後からお父さんと、お母さんのおじいちゃんとおばあちゃんが合流して2・3日過ごしていたら、楢葉町で会津に行くことになったので、夜にいわきのおばあちゃんたちにお礼を言って中央台南の小学校に行って、そこで寝ました。
次の朝、バスに乗って会津に向かいました。2時間くらいバスに乗って、会津に着きました。
そこから農村環境改善センターで避難生活をしました。
最初は、慣れない避難生活でしたが、食事のことは作ってくれたりしたので助かりました。
あと、生活で必要なポットや紙コップなど、車がなかったので歩いて買いに行きました。
歩いて買いに行くのは大変でしたが、頑張って行きました。
それから1ヶ月して学校が始まる時に、高田中学校に入学させてもらいました。
最初はなかなか慣れる事ができなくて困っていた時に1年4組のみんなが仲良くしてくれたので、なんとか学校生活が送れました。
それから大川荘というホテルに移動しました。
個人の家族の部屋なので、うるさい人もいなく静かに勉強できたり、
いろいろ好きなことができました。改善センターでは、あやめ荘という温泉に行っていたのですが、大川荘では毎日入れるので良かったです。
次に仮設住宅に移って、今までは決まっていたローテーションのご飯でしたが、
お母さんの手料理が食べられるようになって良かったです。

震災から1年という月日が経ちました。この1年間は、みんなで助け合って頑張って生活してきたと思います。会津に来た僕たちに支援して下さって、本当に感謝しています。
学校でも、クラスのみんなも先生方も優しく、
他の子たちと変わらないように接してくれ本当にありがとうございます。
これからは、いわきに出来る楢葉町の中学校に行って、
楢葉の時の友達も全員戻ってくるわけではありませんが、
ごくわずかな人数でも勉強や部活に頑張っていこうと思います。
北小の友達とも仲良くしながら、学校生活以外にも、普段の生活もお母さんを困らせるようなことはせずに、一生懸命やっていこうと思います。

この震災があって、今まで普通に使っていた水も温かいご飯も普通に生活出来ていた事が出来なくなって初めて物の大切さや、普通に生活出来ている事がどんなに幸せな事かがわかった1年でした。」…坂本 愛弥くん(中1)


*「明るくいきましょ。後ろを振り向かず、前を見て進みましょう。」…清 孝広くん(高1)

〜あれから一年〜
*「2011・3・11 PM14:46 あの悪夢の日から一年がたった。
あの時俺は、自転車に乗ってブラブラしていた。急にグラグラし始めた途端だ、
バランスボールにでも座っているような感覚…まさにこれが『東日本大震災』

急いで自宅に戻ると屋根から瓦が落ち始め、俺のばあちゃんも下敷きになりそうになった。
姉がばあちゃんを押し、倒れこんだが何とか無事だった。
家の中に入ってみたが、何もかも落っこちてぐちゃぐちゃの状態!何がなんだかわかんない状況になった。
愛犬のミッキーを抱きかかえ車の中に入ってしばらく地震の落ち着きを待った。
頭の中は真っ白になったが、お父さんやお母さん、14:16頃の電車に乗りいわきに向かった兄のことが心配になった。
姉が携帯で連絡を取ってもつながらず、本当に心配だった。
しばらくして、叔父さんたちが心配して駆けつけてくれとても安心した。
この日は、みんなで一部屋に固まって寝た。一晩地震は続いた。怖かった。
この夜仕事で、お父さんは帰って来れなかった。

次の日、いわきの方に避難するよう放送が入り、ここからが避難の日々だった。
俺はいわき・茨城・東京・会津と転々とする。その間、家族もそれぞれに別行動だった。
俺が両親と一緒に住めるようになったのは、約三ヶ月後だった。
安心感とうれしさがこみ上げた。恥ずかしいけど…。
いろいろあった。出会いもあり別れもあり、たくさんの人にお世話になり、心配したり、悩んだり、涙が出たり、いっぱい笑ったり、友だちが出来たりいろいろあった。
本当に、全国の人に支えてもらったな!感謝です!

今は、会津の仮設に両親と祖母4人で生活している。
ばあちゃんは認知症なので大変なことばかりだが、協力して助けていきたいと思っている。
楢葉にいたときはこんなばあちゃんでなかったのになぁと思うとがっかりする…。
そして、地震だけならとっくに楢葉に帰って元の生活が出来てたのに。悔しいです!

俺は、4月から新鶴中3年だ。たくさんの方に支えてもらい今の自分があると思う。
この一年で俺なりに恩返しをしながら、楽しく思い出多い毎日にしていきたい。
友だち・先生方・地域の方々・野球部の仲間・父兄の方々などなど…。
みなさんにお世話になりながら、成長させてください!

これから先、まだまだ困難なことばかりと思うが、成長して乗り越えたいと思っている。
両親はもちろん、91歳のばあちゃんを守っていかねば。 《俺はこういう人間だ!!》
もう、こんな思いは誰にもさせたくない!してはいけない!と思う。
*がんばっぺ〜ならは*」…松本 宗之くん(中2)




子どもたちも精一杯生きています。
なかには、精神的にギリギリの子もいます。

どうか、福島の子どもたちをけなすような事を言わないでください。
…そう願わずにはいられません…

未来あるこの子たちの為に…福島に希望の灯が灯ることを祈っています。


コメントする
コメント
コメントありがとうございます(*^-^*)

子どもたちも、精一杯生きています。
これからも、よろしくお願いします(^-^) 《sa》
Posted by: ボランティアセンター  at 2012年03月15日(Thu) 12:32

いろんな気持ちを抱えて頑張ってきた楢葉の子どもたち。
心に迫るものがありました・・
これからもずっと応援しているよ。
Posted by: usako  at 2012年03月14日(Wed) 21:44