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(特非)NPOみなと しほがま 光源氏が愛したまち『塩竈』より

 「紫式部の著した源氏物語」 塩釜(塩竈)は、東北で最も長い歴史を積み重ねてきた町です。そして古来より、美しいものの代名詞・歌枕として多くの歌に詠まれている地でもあります。源融(みなもとのとおる)は、「源氏物語」の主人公「光源氏」のモデルの一人といわれ、今から千年以上も前に、千賀ノ浦(塩釜湾)の風光明媚な風景をこよなく愛したといわれています。この塩釜の地から、「海、みなとに育まれてきたまち塩竈の歴史、文化を発掘し、広く市民等への普及を図り、そして郷土への愛着心を育み、海、みなとを生かした活気あるまちづくりを進める特定非営利活動団体のブログです。
 なお、「塩釜」と「塩竈」どちらも同じ「しおがま」です。


丹六園さんのご紹介(塩竈の歴史的建造物 1)

[2009年11月14日(Sat)]
 本日は、塩竈の歴史的景観を作っている歴史的建造物の調査、保存等の活動を行っている「歴史的建造物保存部会」から、これまでの活動の一端をご紹介します。
  
第1回目となる今回は、宮町にある丹六園さんと塩竈の銘菓「志ほがま」等の由来などをご紹介したいと思います。

 丹六園を営む丹野家は、古い由緒を持つ菓子商「古梅園」の分家で、200年くらい前までは白坂(現、本町公民館入口付近)で五十集屋(海産物商)を営んでいたとされます。
 その後、宮町の現在地に移転し、幕末には塩竈を代表する商家のひとつとなりました。
 明治以後は肥料商も営み、戦後は茶舗として、また塩竈の銘菓「志ほがま」を製造販売しています。
現当主で11代目となり代々「丹野六右衛門」を襲名、当地では丹六さんと呼ばれ親しまれています。
 銘菓「志ほがま」は、和菓子の世界では軟落雁を「しおがま」と総称し、今では全国で製造されておりますが、もとは江戸時代の塩竈の土産品であった南京糖に由来するといわれています。丹野家によれば仙台藩主の塩竈神社参拝の折、古梅園の「志ほがま」がお茶うけとして出されていたと伝わっています。
 当時の地誌「奥鹽地名集」では、塩竈の産物として南京糖を上げ、西町の越後屋(三井家)が製造していたと記しています。
 銘菓「志ほがま」は通信販売も行っていますので、「軟落雁」発祥地の味を堪能してみたい方は直接「丹六園」さんにお問い合わせください。

 江戸時代、五十集(いさば)問屋で廻船問屋でもあった丹野家には、百余点もの古文書が残されています。仙台湾で獲れた魚が塩竈に一手に水揚げされ、馬の背に積まれて仙台城下に向かった「肴の道」の歴史や、江戸や三陸との交易の歴史を今日に伝えいます。
 また、丹六園さんの建物は、大正3(1914)年に建てられました。材料のほとんどは江戸時代の建物の材料を再利用したとされ、建物には塩竈の町屋建築の特徴とされる軒下の出桁(だしげた)がみられます。
 丹六さんへの道順は、右側の関連ブログ「海商の館・亀井邸」の道順「本塩釜駅からのルート」上にありますので、そちらをご覧ください
 今後も、折を見て市内にある歴史的建造物をご紹介したいと思います。

※出桁・・・・壁にとりついた腕木の上に出桁と呼ばれる軒先の桁を支え、その出桁が屋根の垂木(たるき)を受ける構成となっています。本来は、軒を深くするための構造でしたが、建物正面から見たときに、梁の木口・桁が整然と並び、美しいことから町屋の外観として普及しました。

関連HP みやぎ食材王国
     http://www.foodkingdom-miyagi.jp/tokusan/02_14/tanroku.html 

Posted by NPOみなとしおがま at 17:06 | 歴史的建造物 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
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