たくさんのわたし[
2015年03月30日(Mon)]
起業の学校福島キャンパス開校について、今日の朝日新聞名古屋版に掲載していただきました。
私自身の言葉が足りない部分も、言葉が過ぎている部分もあると思いますが(記者さんはとても真摯に取材してくださいました)どうか意が伝わりますように。
そして、掲載自体とてもありがたいことですが、名古屋版なので、福島の方にダイレクトに情報が届くわけではありません。まだまだ福島からの反応は少なく、己の発信力のなさを痛感している次第。どうか、いくつかの縁をたどりながら、この情報が、福島でこの情報を必要としている方のもとに届きますように。
というわけで、今朝はコンビニで朝日新聞を買ってみました。
せっかくなので、他のページも読んでいたら、4月1日から鷲田清一さんの「折々のことば」というコラムがはじまることに伴うインタビュー記事が載っていました。
<備忘録がわりにちょっと引用>
・「ことば」は、今までとは違う自分に変わるための手がかり
・おのれ自身の端緒がたえず更新されていく経験(メルロポンティの言葉)
・本当に糧になるのは、異なる見方に気づかせてくれることば
・ことばの意味がすぐにはわからなくてもいい
今日、ちょうど対人支援をしている友人と話していて、支援におけるヒアリングと取材することの共通点は、聴く側(支援者だったり、インタビュアーだったり)の可塑性みたいなものじゃないか、という話がでました。
相手の興味や、特性や、癖や、その他いろんなことに合わせて、聴く側が変化していく。それが、「おのれの端緒がたえず更新されていく」ということなのかな?
記事にあった言葉は、なんだかそのことと響きあうような気がしました。
そうそう、10年以上前に、イシス編集学校で学んだときに、一番好きだったのが「たくさんのわたし」というお題でした。
「わたしは○○な△△である」という文章をとにかくたくさんつくるというもの。
メタファーなども使ってもよくて、例えば、「わたしは大喰らいなハツカネズミである」とか「わたしはにっこりと微笑む刃物である」とか、夢中になってつくった覚えがあります。
(ちなみに、このお題で松岡正剛校長から「禅機にとんだ回答」と褒められた(←ちょっと自慢)ことが成功体験として刻まれていることも、このお題の印象深さに影響していると思います(単純ですみません)
今にして思えば、これは言葉で自分自身を開放していくプロセスだったのかもしれません。
「わたし」はひとつではなくて、しかも絶えず更新されていくもの。
この感覚が、今でも自分のことを支えてくれている、と心から思います。
私自身の言葉が足りない部分も、言葉が過ぎている部分もあると思いますが(記者さんはとても真摯に取材してくださいました)どうか意が伝わりますように。
そして、掲載自体とてもありがたいことですが、名古屋版なので、福島の方にダイレクトに情報が届くわけではありません。まだまだ福島からの反応は少なく、己の発信力のなさを痛感している次第。どうか、いくつかの縁をたどりながら、この情報が、福島でこの情報を必要としている方のもとに届きますように。
というわけで、今朝はコンビニで朝日新聞を買ってみました。
せっかくなので、他のページも読んでいたら、4月1日から鷲田清一さんの「折々のことば」というコラムがはじまることに伴うインタビュー記事が載っていました。
<備忘録がわりにちょっと引用>
・「ことば」は、今までとは違う自分に変わるための手がかり
・おのれ自身の端緒がたえず更新されていく経験(メルロポンティの言葉)
・本当に糧になるのは、異なる見方に気づかせてくれることば
・ことばの意味がすぐにはわからなくてもいい
今日、ちょうど対人支援をしている友人と話していて、支援におけるヒアリングと取材することの共通点は、聴く側(支援者だったり、インタビュアーだったり)の可塑性みたいなものじゃないか、という話がでました。
相手の興味や、特性や、癖や、その他いろんなことに合わせて、聴く側が変化していく。それが、「おのれの端緒がたえず更新されていく」ということなのかな?
記事にあった言葉は、なんだかそのことと響きあうような気がしました。
そうそう、10年以上前に、イシス編集学校で学んだときに、一番好きだったのが「たくさんのわたし」というお題でした。
「わたしは○○な△△である」という文章をとにかくたくさんつくるというもの。
メタファーなども使ってもよくて、例えば、「わたしは大喰らいなハツカネズミである」とか「わたしはにっこりと微笑む刃物である」とか、夢中になってつくった覚えがあります。
(ちなみに、このお題で松岡正剛校長から「禅機にとんだ回答」と褒められた(←ちょっと自慢)ことが成功体験として刻まれていることも、このお題の印象深さに影響していると思います(単純ですみません)
今にして思えば、これは言葉で自分自身を開放していくプロセスだったのかもしれません。
「わたし」はひとつではなくて、しかも絶えず更新されていくもの。
この感覚が、今でも自分のことを支えてくれている、と心から思います。