パレスチナ解放運動と重信房子[2022年05月27日(Fri)]
本日の朝日新聞第二面の下欄に、幻冬舎から、重信房子の本「戦士たちの記録」という大きな広告が目に入りました。世界同時革命を目指し、その後、30年間中東でパレスチナ解放運動に参加し、そして、2000年11月8日に潜伏していた大阪府高槻市において旅券法違反容疑で逮捕された重信房子が、21年7か月の刑期を満了して、5月28日に出所します。その機会に、彼女がたどってきた生き様を、彼女が執筆した本3冊「革命の季節」「ジャスミンを銃口に重信房子歌集」「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」の三冊を紹介しています。重信のとってきた行動は犯罪行為であり、それゆえ、その代償として刑に服してきたわけですが、彼女が、パレスチナ人との接触の中で、国際同時革命という熱病から解放され、何を思い、パレスチナ人の置かれた厳しい状況の中で、どのように現実的な考え方を持つように変化していったのか、また、外部からしか見えてこなかったレバノンにおけるパレスチナ人武装勢力のイスラエルとの戦いがどのようなものであったのかを知るうえで、3冊の本は、彼女の行動への立場の相違を超えて読む価値があると思われます。
1948年5月のイスラエル建国から70年以上を経過してもまだ解決の糸口が見いだせないパレスチナ問題。いまも、イスラエルに1967年に占領された地区は、西岸とガザに分断され、パレスチナ人は、行動の自由を大きく制限されています。ヨルダン川西岸地区のジェニンでは、5月11日、中東の衛星テレビ局アルジャジーラのパレスチナ人記者、シリーン・アブアークレさんが、頭部に銃撃を受け死亡し、改めて現地のパレスチナ人が置かれた厳しい状況を思い起こさせています。
1970年代にも日本人もパレスチナ解放運動に共感して、ジョージ・ハバシュが設立したパレスチナ人民解放戦線(PFLP)と協力して、過激な行動に出た者たちがいます。日本赤軍です。パレスチナの解放を目指して1964年に設立されたPLOは、1970年9月(パレスチナ人は、ブラックセプテンバーと呼んでいます)には、同胞のアラブの国ヨルダンを追われて、レバノン南部に移動し、そこからイスラエルに対する武力闘争を続けていました。しかし、イスラエルは、1982年6月、突如レバノン南部に進攻(イスラエルの軍事作戦名「ガリラヤの平和作戦」)し、その後PLOの戦闘員をベイルート近郊に追い詰め、砲弾の雨を降らせました。日本赤軍リーダーの重信房子をはじめとする日本赤軍メンバーもPLOと一緒にイスラエル軍と戦い、ベイルートを脱出しました。重信の著書「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」の「あなた」とは、パレスチナ人との間で儲けた娘の重信メイさんです。
かつては、日本国内でも政治家を含め、パレスチナ人の権利を擁護し、友好を強化しようとする動きがありました。日・パレスチナ友好議員連盟には、かつて女優の李香蘭として名を馳せた大鷹(山口)淑子議員(故人)や柿沢弘治議員(元外相)(故人)などもいました。
ロッド空港事件の実行犯である岡本公三を含む日本赤軍メンバー5名が、1997年2月に潜伏先のレバノンで突然拘束されました。重信も、レバノンの著名なローマ遺跡のバールベック神殿で、写真をとっていますので、彼女は岡本たちと行動をともにしていたことは確実です。結局、岡本公三を除く4人は、2000年3月に国外退去処分となり、警察は、帰国と同時に逮捕・収監されました。岡本は、1985年イスラエルとパレスチナ人の捕虜交換でイスラエル側から解放されましたが、日本に戻されると大量の殺人の罪で、死刑になる可能性もあり、その時点で、力をある程度残していたPFLPをはじめとするパレスチナグループが、当時レバノンに影響力を有していたアサド政権やヒズボラを通じて、レバノン政府に「アラブの英雄」として岡本を国内に残すよう働きかけた結果、レバノン残留が認められたと思います。ただ、本人の望郷の思いは強いという記事を目にしたこともあります。
最後にパレスチナ解放運動の歴史で、最初に航空機をハイジャックした女性として、世界中に名を馳せたライラ・ハーリドの有名な言葉を紹介しておきます。彼女は、PFLPの著名なメンバーであり、パレスチナ民族評議会のメンバーです。 彼女は、現在は家族と一緒にヨルダンに住んでいるそうで、自由の身になって活動を続けています。その言葉とは、「パレスチナ解放運動の究極の目標は、アラブ人、ユダヤ人を問わず、パレスチナの地で、すべての人々が平等に、平和で、調和した生活ができることである」
1948年5月のイスラエル建国から70年以上を経過してもまだ解決の糸口が見いだせないパレスチナ問題。いまも、イスラエルに1967年に占領された地区は、西岸とガザに分断され、パレスチナ人は、行動の自由を大きく制限されています。ヨルダン川西岸地区のジェニンでは、5月11日、中東の衛星テレビ局アルジャジーラのパレスチナ人記者、シリーン・アブアークレさんが、頭部に銃撃を受け死亡し、改めて現地のパレスチナ人が置かれた厳しい状況を思い起こさせています。
1970年代にも日本人もパレスチナ解放運動に共感して、ジョージ・ハバシュが設立したパレスチナ人民解放戦線(PFLP)と協力して、過激な行動に出た者たちがいます。日本赤軍です。パレスチナの解放を目指して1964年に設立されたPLOは、1970年9月(パレスチナ人は、ブラックセプテンバーと呼んでいます)には、同胞のアラブの国ヨルダンを追われて、レバノン南部に移動し、そこからイスラエルに対する武力闘争を続けていました。しかし、イスラエルは、1982年6月、突如レバノン南部に進攻(イスラエルの軍事作戦名「ガリラヤの平和作戦」)し、その後PLOの戦闘員をベイルート近郊に追い詰め、砲弾の雨を降らせました。日本赤軍リーダーの重信房子をはじめとする日本赤軍メンバーもPLOと一緒にイスラエル軍と戦い、ベイルートを脱出しました。重信の著書「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」の「あなた」とは、パレスチナ人との間で儲けた娘の重信メイさんです。
かつては、日本国内でも政治家を含め、パレスチナ人の権利を擁護し、友好を強化しようとする動きがありました。日・パレスチナ友好議員連盟には、かつて女優の李香蘭として名を馳せた大鷹(山口)淑子議員(故人)や柿沢弘治議員(元外相)(故人)などもいました。
ロッド空港事件の実行犯である岡本公三を含む日本赤軍メンバー5名が、1997年2月に潜伏先のレバノンで突然拘束されました。重信も、レバノンの著名なローマ遺跡のバールベック神殿で、写真をとっていますので、彼女は岡本たちと行動をともにしていたことは確実です。結局、岡本公三を除く4人は、2000年3月に国外退去処分となり、警察は、帰国と同時に逮捕・収監されました。岡本は、1985年イスラエルとパレスチナ人の捕虜交換でイスラエル側から解放されましたが、日本に戻されると大量の殺人の罪で、死刑になる可能性もあり、その時点で、力をある程度残していたPFLPをはじめとするパレスチナグループが、当時レバノンに影響力を有していたアサド政権やヒズボラを通じて、レバノン政府に「アラブの英雄」として岡本を国内に残すよう働きかけた結果、レバノン残留が認められたと思います。ただ、本人の望郷の思いは強いという記事を目にしたこともあります。
最後にパレスチナ解放運動の歴史で、最初に航空機をハイジャックした女性として、世界中に名を馳せたライラ・ハーリドの有名な言葉を紹介しておきます。彼女は、PFLPの著名なメンバーであり、パレスチナ民族評議会のメンバーです。 彼女は、現在は家族と一緒にヨルダンに住んでいるそうで、自由の身になって活動を続けています。その言葉とは、「パレスチナ解放運動の究極の目標は、アラブ人、ユダヤ人を問わず、パレスチナの地で、すべての人々が平等に、平和で、調和した生活ができることである」
Posted by 八木 at 09:36 | イスラム世界で今注目されている人物 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)