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イラク・シーア派の最高宗教権威シスターニ師は、コロナウイルス感染死者の火葬を禁じるファトワを発出 [2020年03月29日(Sun)]
3月28日、イラク・シーア派最高の宗教的権威であるアリー・アル・シスターニ師は、公式ウェブサイトでのコロナウイルス犠牲者の洗浄、覆い、埋葬に関する問い合わせに応じて、@コロナウイルスが原因で亡くなった人々を公共の墓地に葬ることに異議はなく、関係当局はこれを促進する必要がある、A(ウイルス感染死者の遺体を火葬する可能性について)イスラム教徒の遺体を火葬することは許されず、彼の親族や他の人々はそれを控え、それを埋めることを主張しなければならない、とのファトワ(宗教的意見)を発出した。シスターニ師は、死者を棺に入れる手順について、「死者の顔をキブラ(メッカのカアバ神殿)の方向にあわせ遺体を棺の箱の右側に向ける」という条件で、手順を承認した。

3月28日イラク保健省は、前日比2人の死者と48人の新たな感染者が報告され、コロナウイルス感染者の死者は42人に、感染者総数は506人に達したと発表した。

Posted by 八木 at 10:27 | イスラム世界で今注目されている人物 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

トルコ検察によるサウジ人ジャーナリスト・カショーギ氏殺害容疑者20名の起訴[2020年03月27日(Fri)]
トルコのイスタンブール最高検の検察官は、2018年10月2日、訪問したイスタンブールのサウジ領事館で殺害されたサウジ人ジャーナリスト・ジャマール・カショーギ氏殺害容疑で、サウジ人20名を起訴した(関連記事要旨参考1参照)。容疑者20名はインターポールを通じて国際手配される。容疑者全員は、事件後サウジに帰国しており、今後、トルコ国内で欠席裁判が行われる見通し。サウジでは、起訴された容疑者11名に対して、昨年12月一審で5名に死刑、3名に24年までの有期刑、3名が証拠不十分として解放されている。

(参考1)トルコ検察によるカショーギ殺害容疑者20名の起訴に関するディリーサバーハ紙オンライン記事要旨
●イスタンブールの最高検察官であるイルファン・フィダンは、ワシントン・ポスト紙のコラムニストで、2018年10月2日イスタンブールのサウジ領事館内で殺害されたサウジ人ジャーナリスト・ジャマール・カショーギ(Jamal Khashoggi)の殺害に関与した20人の容疑者を正式に起訴した。検察官は、声明の中でトルコは、サウジアラビアの漠然とした説明と論争の的になっている殺害に関する声明に不満を抱き、独自の調査を実施してきたが、調査は終了したと語った。
●検察官声明によれば、起訴状はサウジアラビアのアフマド・アル・アッシーリ元総合情報庁副長官とサウード・アル・カハタニ元王宮府顧問を「おぞましい意図を持った計画的殺人を扇動した」として糾弾した。また同声明は、この2人に加えて、カショーギの殺害を実行したとして他の18人も起訴した。しかし、容疑者は全員トルコを離れており、サウジアラビアはトルコでの裁判実施の要求を拒否した。サウジアラビアは、王国の法廷こそが彼らが裁判にかけられるべき正しい場所であると主張し、殺害に関して11人を裁判にかけた。
●18人の容疑者の中には、MBS皇太子と頻繁に外国訪問に同行した諜報部員マーヘル・ムトレブ、法医学の専門家サラーハ・アル・トゥバイギ、およびサウジアラビアの王宮ガードのメンバーであるファハド・アルバラウィが含まれ、彼らは意図的かつおぞましい意図をもち、苦痛を与えた殺害で起訴された。有罪判決を受ければ、彼らは刑務所で終身刑に服することになる。
●ムトレブ、トゥバイギ、バラウィの3名は、リヤドで裁判にかけられていた11人に含まれる。西側の当局者によれば、被告人の多くが、作戦の指揮官としてアッシーリの命令を実行したと述べ、自分たちを弁護した。2019年12月にサウジアラビアで名前が公表されていない5人の人々が死刑を宣告された一方、他の3人は24年までの懲役刑を受け、3名が証拠不十分で釈放された。カハタニ元王宮府顧問は調べられたが、「証拠不十分な証拠」のためにサウジアラビア当局から起訴されず、アッシーリ副長官は起訴されたが、結局同じ理由で解放された。
●トルコの検察官は、欠席裁判で20人の容疑者に対して開かれると述べたが、日付は明らかにしなかった。検察はすでにトルコにいない容疑者に対して逮捕状を発行した。起訴状によれば、容疑者の携帯電話の記録、トルコへの出入りの記録、領事館での彼らの存在の記録、証人の声明、カショーギの電話、ラップトップ、iPadの分析に基づいて起訴が決定した。すなわち、殺害された故人、原告、および容疑者の電話による会話の記録が調査され、故人の領事館への入場、容疑者のトルコへの到着、領事館の建物および領事住居への映像が調査された。
●トルコ当局はサウジアラビア当局に容疑者を引き渡すよう要請する一方で、殺害に関与した20人の容疑者に対してインターポールによって国際手配された。
●国際調査をカショーギの殺害に関する調査報告をまとめた国連人権特別報告者アグネス・カラマールは、サウジアラビア人容疑者20人のトルコに対する起訴を歓迎した。
https://www.dailysabah.com/politics/turkish-prosecutors-seek-life-sentences-for-killers-of-saudi-journalist-khashoggi/news


(参考2)サウジにおける裁判経緯
2019年12月23日、リヤドの刑事裁判所は、著名なサウジ人ジャーナリストでワシントンポストのコラムニストでもあったジャマール・カショーギ氏が、2018年10月2日、イスタンブールのサウジ領事館を、トルコ人女性との結婚に必要な書類を取得するために訪問した際、本国から派遣された15名の暗殺団によって殺害された事件の容疑者への判決を下した。今回のサウジ側の発表によれば、31人が取り調べをうけ、21人が逮捕され、11名が起訴されていたが、第一審の刑事裁判所は、起訴された11名のうち、5名に死刑、3名に合計24年までの禁固刑、3名は無罪となった。残る11名は証拠不十分で解放した。有罪判決を受けた人物は、最終的な司法の判断が下されるまでは、名前が公表されないとのこと。この判決に対して、サウジ国内やUAEなど友好国は、判決を評価しているが、トルコや国連の人道分野の特別報告者であるカラマル氏などは、裁判が国際的に受け入れられる水準に全く達していない、事件を指示した幹部にはほとんど調査、審査された形跡もないとして厳しく批判している。控訴審で争われるのかは、控訴裁判所の判断に委ねられるとのこと。

(参考3)リヤド刑事裁判所(一審)での判決結果(2019年12月23日)
検察は、31人を含むこの事件の審査と関連手続きを終了したと述べた。31人のうち、21人が逮捕され、10人が拘留の根拠なしとして、逮捕されずに尋問のために呼び出された。審査の結果は次のとおり。
第一に、この事件では、11人が起訴され、リヤド刑事裁判所における被疑者に対する刑事告発が提出された。
第二に、リヤド刑事裁判所は、以下のとおり起訴された11人に関して判決を下した。
@ 被害者の殺人を犯し、直接関与した5名に対する死刑。
A この犯罪を隠蔽し、法律に違反した3名に対して合計で24年までの異なる禁固刑。
B 裁判所は、3名に対する検察官の告発を却下し、有罪ではないと判断した。
第三に、検察は残る10人に対しては、証拠が不十分であるために告訴をせず、彼らを解放した。
検察は、裁判所の判決を検討し、第二審に控訴するかどうかを決定すると述べた。
https://www.spa.gov.sa/viewfullstory.php?lang=en&newsid=2014204#2014204

(コメント)今回のトルコのイスタンブール最高検による容疑者20名の起訴は、サウジ国内で進行してきた裁判では、真相が明らかにされないほか、責任者の処罰も不十分・不公平という観点から、エルドアン大統領の意向を踏まえたうえで、検察が起訴に踏み切ったものと考えられる。サウジ側においては、2018年11月15日にサウジの検察が11名を起訴して、2019年1月からリヤドの刑事裁判が開始され、9回のセッションを経て、10回目のセッションで、判決が下された。この裁判は、完全非公開に近い形で進められてきたが、カショーギ氏の家族や、G5+トルコ大使館の代表は傍聴を認められた。但し、裁判のセッションは当然アラビア語で実施され、ローカル・スタッフの同行は認められず、また、傍聴の内容も外部に漏らしてはいけないとの条件で行われたとのこと。この事件では、CIAがサウジの実質的指導者ムハンマド・ビン・サルマン(通称MBS)皇太子の関与を指摘したが、皇太子は、最近でこそ国としての監督責任には言及したものの、自身の関与を一切否定してきた。第一審の判決では、@本国から暗殺団を実質的に指揮したとされるカハタニ元王宮府顧問は、起訴もなれておらず、嫌疑なしとして解放されたこと、Aアッシーリ元サウジ情報部次長も起訴はされたものの、無罪になったこと、Bイスタンブールのサウジ領事館の主で、事件の推移をすべて見守り、記者団を領事館内に招き入れて、カショーギ氏はどこにもいないとの虚偽の発言を行ったオタイビ元総領事も罪に問われず、逆に、C一審は、今回の事件は、事前に仕組まれたものではなく、現場のチームがやむを得ず実行したものと判断し、殺人の罪を本国関係者は除外し、現場にいた暗殺団15名の中でも直接殺害に関わったとされる5名に限定していることである。これについて、サウジ上層部は、今回の裁判を「茶番」ではないか、あるいは「トカゲのしっぽ切り」との見方が出てくるのは、あえて承知で、年内にこの件に一区切りつけたいとの意向があったものとみられる。2018年10月の段階で、当時のジュベイル・サウジ外相は、国王、皇太子は、「レッドライン」であるとして、防衛線を貼っており、この防衛線を高めに設定して、カハタニ、アッシーリも無罪にしてMBS指導のサウジ国家体制の維持のために多少の批判は覚悟のうえで、サウジは、自国流のやりかたで国内での法的手続きを着実に進めていることを印象付けようとしたものとみられる。判決後のシャアラーン次席検事の記者会見で、とりわけ、印象的なのは、あえて、トルコに13通の尋問嘱託書簡を送ったにもかかわらず、返事があったのは一通だけであるとして、トルコ側が協力的でないため、証拠不十分で嫌疑を固められなかったケースが多かったことを示唆したことである。サウジ側は、サウジ上層部への追求の手を緩めず、サウジの司法手続きから距離をおくトルコ政府に強いフラストレーションを抱いてきたとみられる。逆に、トルコ側は、15名の暗殺団が殺害に何らかの役割を演じており、本国から指揮したとみられているカハタニ、アッシーリは何の処罰も受けず、また、サウジ領事館の主であるオタイビ総領事は殺害を見届けながら、直後に記者団を招き入れて、カッショーギ氏は立ち去ったとしてしらばくれているにもかかわらず、何の処罰も受けていないこと、そもそも、未だに判決をうけた容疑者の名前も公表されていないことから、裁判が透明性においても、法の正義の実現という観点からも国際的標準にまったく達していないとみている。今回のトルコ側の起訴により、サウジ国内で罪を免れたカハタニ、アッシーリも国外に出れば、インターポールの国際手配を通じて逮捕される可能性が出てくる。
この件は単に法律的な正義の実現という観点と離れて、二国間関係においてもサウジの実質的な指導者MBS皇太子とトルコのエルドアン大統領の関係を、修復できないレベルにまで切り裂く可能性がある。両国指導部の関係悪化は、シリアやリビアの情勢をはじめとする地域情勢をめぐる両国の対立を招く可能性が大きい。

Posted by 八木 at 15:20 | イスラム世界で今注目されている人物 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

サウジ国内でさらに進むMBSによる有力王族の粛清[2020年03月08日(Sun)]
サウジアラビアでは、サルマン国王の弟であるアハマド・ビン・アブドルアジーズ王子が、国王の息子であるムハンマド・ビン・サルマン(通称MBS)皇太子に対するクーデターを企てたとして逮捕されたと報じられた後、有力王族の粛清が進んでいる
MEEは、20人までの王子が、クーデターに関与した疑いで逮捕されたと伝えられている。
すでに報じられたアハマド王子、元皇太子ムハンマド・ビン・ナーイフ(通称MBN)、そして彼の異母弟ナワーフ・ビン・ナーイフ王子に加え、アハマド王子の息子で、陸軍情報長官のナーイフ・ビン・アハマド王子も逮捕されたとされる。ロイターは、サルマン国王自身が逮捕状に署名したと伝えている。
(コメント)米国と英国の情報機関はどちらも、アハマド王子が2018年10月ロンドンからサウジに帰国する際、逮捕されないという保証をMBSに求め、獲得していたとされる。一方、MBN皇太子(当時)は、内相として、テロ対策に献身し、米国の情報機関とも密接な関係を築いていたが、トランプ政権誕生後、米国に見捨てられることになった。MBN元皇太子は、ポストを解任された後、側近、携帯電話、手当を剥奪されており、旅行は許可されておらず、自宅軟禁状態であった。王族の手当てはく奪では、サルマン国王に書面で苦情を訴えたとされる。新たに拘束が判明した王族は、アハマド王子の息子のナーイフ陸軍情報長官が含まれたことから、前アブドッラー国王の息子であるムトイブ元国家警備隊長、アブドル・アジーズ・ビン・サウード・ビン・ナーイフ内相の身辺も注目されている。3月8日現在、ナーイフ・ビン・アハマド陸軍情報長官のプロフィールは、依然サウジの陸軍情報部の公式サイトに掲載されたままである。
サウジ内政をフォローする著名なツイッター発信者ムジュタヒドは、
サウジアラビアは暗黒の夜を目撃している。王室警護隊はリヤドの王子宅で数人の王子と指導者を取り囲み、道路を遮断し、多数のセキュリティチェックポイントを設置した。」とツイートし、その後、サルマン国王が今や死の床にあり、あるいはもはや死去した可能性があると追加した。この真偽は不明なるも、サルマン国王の健康状態の悪化が、唐突にもみえるMBSの有力王族拘束につながった可能性は排除されない。
(陸軍情報部サイト)https://www.my.gov.sa/wps/portal/snp/pages/agencies/agencyDetails/AC145
(MEE)https://www.middleeasteye.net/news/exclusive-least-20-princes-detained-mass-purge-saudi-crown-prince

Posted by 八木 at 15:44 | イスラム世界で今注目されている人物 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

91歳で波乱の生涯に幕を下ろしたムバラク元エジプト大統領[2020年02月26日(Wed)]
2月25日エジプトの元大統領ホスニ・ムバラクが死亡した。1981年10月から2011年2月の大衆蜂起による追放まで、30年間5期連続でエジプト大統領を務めたムバラク元大統領の足跡をアハラーム・オンライン記事から振り返ってみよう。
●元大統領は、1928年5月4日にナイルデルタのメノフィアにあるKafr El-Mosilehaという小さな町で貧しい家庭に生まれた。
●ムバラクは1949年にエジプトの軍事アカデミーを卒業し、1年後に航空訓練を卒業し、パイロットとなりエジプト空軍に所属した。彼は、ソビエト連邦の多くの軍事アカデミーで学び、1964年にエジプトに帰国した。1967年の6日間戦争でのエジプトの敗北後、1969年まで軍隊の航空学部を率い、多数のパイロットを訓練し、空軍の司令官に上り詰めた。
●軍人としてのムバラクの高い評判は、1973年のイスラエルとの第四次中東戦争、とりわけスエズ運河東岸で鉄壁の守りと評されていたイスラエル軍陣地に対するに対する最初の空爆を率い成功させた10月戦争で果たした功績による。
●ムバラクは1975年にアンワル・サダト大統領に副大統領に抜擢され、中将まで上り詰めた国軍ポストを去った。
●1981年10月6日、イスラエルとの和平を進めたサダト大統領が、10月戦争の勝利の7周年を記念する軍事パレードでイスラム過激派に暗殺された。 ムバラクはサダトのすぐ隣でパレードに臨んでいたが、無傷であった。
●サダト暗殺後に非常事態法が宣言された。ムバラクは、1981年10月14日に国民投票の後、公式に大統領就任式で宣誓した。ムバラクは、1987年、1993年、1999年に6年間の任期で国民投票で大統領に再選された。2005年に憲法が変更され、1953年に共和国が宣言されて以来初めて複数の候補による大統領選挙が可能になった。
●政権の初期の数年間、ムバラクは、失業や苦境にあえぐ経済など、エジプトの最も差し迫った問題に取り組むために国民の一般的な支持を得た。彼の前任者のように、ムバラクは米国に近づき、ロシアから離れ、中東で米国の最も頑固な同盟国の1つになった。ムバラク政権に対して米政府は、年間13憶ドルを援助し、政権を支えた。
●最初の数年間のエジプトの内外の問題と課題に焦点を当てたムバラクは、明確な政治的イデオロギーを採用しなかったが、ほとんどが彼の暗殺された前任者の路線を踏襲した。
●ムバラクの政治的業績の1つは、イスラエルとの和平でボイコットされていたアラブ連盟に1989年エジプトが復帰したことと、1989年に国際仲裁によりイスラエルが占領したシナイの最後の占領地であったタバを取り戻したこと。
●一部のエジプトの政治勢力による和平合意への強い反対に直面しているにもかかわらず、ムバラクの支持者は、平和と開発への取り組みに焦点を当てるエジプトの外交政策の一環として、イスラエルとの和平維持を支持した。
●1990年代、カイロの地下メトロシステムの導入、若者の社会住宅プロジェクト、砂漠での新しい都市の設立、および国民の健康と教育の向上改善のための取り組みを含む多くの主要な国家インフラプロジェクトが実施された。しかし、内政は、高い失業率、汚職、インフレの増加、対外債務、政府の官僚主義、急速な人口増加といった課題と困難に直面していた。
●1990年、ムバラクは、イラクのクウェート侵攻に対する有志連合を支援することで、地域のリーダーとして大きな役割を果たした。エジプトは、米、英、仏、サウジアラビアとともに、第二次世界大戦以降に形成された最大の軍事連合への主要な軍事的貢献者の1つであった。この結果、 数十億ドルのエジプトの債務は、米国およびその他の国際債権者によって一掃された。
●1990年代半ばにムバラクが直面した政治的および経済的課題の1つは、政府関係者、警察、観光客、エジプトのキリスト教徒を標的とした過激派イスラム主義者からのテロ攻撃の多発であった。ムバラクは、1995年にエチオピアの首都アディスアベバで暗殺未遂を生き延びた。1997年11月ルクソールで、観光客を標的としたテロ事件が発生し、62人が死亡した。この事件は、エジプト経済の重要な柱であり、外貨の源泉である観光事業に打撃を与えた。
●2000年代初頭までの数年間、ムバラクが試みた政治改革は、エジプトに本当の民主的なプロセスを持ち込むのではなく、国民民主党を利用して、彼の不人気な若い息子ガマルによる権力の継承を目指すものであると反体制派から見られていた。
●当時、エジプトポンドの価値は低下し、失業率は、批判の多い民営化計画のために増加していた。国民の不満は根強かったが、非常事態法のおかげで、不満が目立つ行動に結びつくことはなかった。
●ムバラク自身に対する最初の異議の主要な兆候は2005年のデモであり、キファーヤ(「もう十分」)と呼ばれる運動がムバラクの退陣と息子ガマルの継承計画を非難した。
2005年には34件の憲法が改正され、この変更の下で、複数の候補者による大統領選挙が認められたが、競合するための資格はほとんどなかったため、現実の対抗馬となる候補者は立候補できなかった。
●2008年、ナイルデルタの工業都市マハラでの大規模な労働運動は、ムバラクの支配、つまり彼の支配に反対する地上での最初の効果的な政治的かつ大衆的な反対運動とみなされた。
●2011年1月25日、チュニジアでの民衆運動を契機とする「アラブの春」の波が、エジプトに押し寄せ、18日間におよぶ政権打倒運動に発展し、政権側はデモ隊約数百名を殺害したと非難され、2月11日、ムバラクは大統領職から追放された。
●2012年、ムバラクは蜂起中に抗議者を殺害したことで有罪判決を受け、終身刑を言い渡されたが、2017年に抗議者殺害共謀についてはエジプトの最高控訴裁判所で無罪判決を受け、マアディ軍病院から釈放され、自由の身となった。
●2015年、彼は2人の息子、GamalとAlaaとともに、家族の蓄財のために大統領官邸の改修のために割り当てられた公的資金を横領した嫌疑で、3年の懲役刑を言い渡された。この判決は最高裁判所によって支持され、大統領職追放後の多くの裁判でムバラクに対する唯一の最終的な有罪判決となった。
●ムバラクは、2月25日に91歳で、軍事病院で波乱の生涯に幕を下ろした。
http://english.ahram.org.eg/NewsContent/1/64/364132/Egypt/Politics-/Mubaraks-life-and-death.aspx
(コメント)エジプト・アラブ共和国の4代目の大統領として、30年間エジプトを統治したムバラク大統領が、2月25日死亡した。ムバラク大統領は、自由将校団の一員として王制を打倒し、スエズ運河を国有化したナセル大統領、イスラエルとの戦争に踏み切り、その後、アラブ陣営の中にあってイスラエルとの単独和平を決断したサダト大統領ほどのカリスマ性はなかったが、イスラエルとの和平を維持する中で、米国の支援を得て、長らく政権を維持してきた。印象に残っている出来事を3つ挙げておく。ひとつは、1988年11月28日のイラク大統領サッダーム・フセインのエジプト電撃訪問である。サッダームにとっては、1979年以来初のエジプト訪問であった。ムバラクは、サッダームのカイロ空港到着で最後まで誰が乗ってくるのか知らなかったとされる。空港出迎えには遅れたものの、ムバラクは、自ら運転し、助手席にサッダームを座らせて、大統領府に向かったとされる。2年後、イラクによるクウェート侵攻を受けて、エジプトはクウェート解放のための多国籍軍に参加し、アラブ諸国の中でサッダーム打倒の急先鋒となった。二番目は、チャウシェスク・ルーマニア大統領との関係である。チャウシェスク大統領は、1987年11月25日、エレナ夫人同伴でエジプトを公式訪問し、ムバラク大統領が出迎えた。二年後の12月25日、チャウシェスク大統領と夫人エレナは、革命軍により公開処刑され、夫妻の銃殺後のむごたらしい遺体の画像がメディアで公開された。それをみたムバラク大統領は、独裁者が権力を失ったらどうなるかをまざまざと認識し、身を震わせたとされる。三番目は、1995年6月26日、エチオピアの首都アジス・アベバで開催されるOAU(アフリカ統一機構)首脳会議出席のため、来訪したムバラク大統領の車列が会議場に向かう途中、パレスチナ大使館の前で、2台の車に行く手を阻まれ、エジプト人原理主義者とみられるグループから銃撃を受けた事件である。2人の護衛官と襲撃者2名が殺害された。ムバラクは襲撃者のひとりが自分に向かって銃撃するのを目撃したとされる。銃弾のひとつはムバラク乗車のリムジンを貫いており、ムバラクは、会議出席を取りやめ、直ちにカイロに帰国し、無事であったことを神に感謝したとされる。晩年想定外の出来事で無念にも権力の座を追われたムバラク元大統領であったが、獄中で命を落としたムルスィー大統領、軍事パレード中に原理主義者の銃弾に倒れた前任のサダト大統領に比べ、ベットの上で亡くなったことは、完全に神に見放されたわけではなかったといえる。

Posted by 八木 at 13:20 | イスラム世界で今注目されている人物 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

オマーンのカブース国王逝去とハイサム新国王就任(主な弔問者)[2020年01月17日(Fri)]
1月11日のカブース国王逝去をうけ、ハイサム新国王は12日以降世界各国から多数の弔問使節を受け入れた。主な外国からの訪問者は、現地報道等から次のとおり。(順不同)
(アラブ諸国)
1. サバーハ・クウェート首長
2. タミーム・カタール首長
3. ハマド・バーレーン国王、サルマン・ビン・ハマド・バーレーン皇太子
4. サルマン・サウジ国王
5. ムハンマド・ビン・ザーイド・アブダビ皇太子(UAEの事実上の指導者)
6. アブドッラー2世ヨルダン国王
7. ハーディ・イエメン大統領
8. カイス・サイード・チュニジア大統領
9. イスマイル・オマール・ゲレ・ジブチ大統領
10. ムハンマド・ビン・ラーシドUAE連邦副大統領(ドバイ首長)
11. アッバース・パレスチナ暫定自治政府大統領
12. シェリーフ・イスマイール・エジプト首相
13. アブドルアジーズ・ジェラード・アルジェリア首相
14. フアード・ムハンマド・フセイン・イラク副首相
15. スーダン統治評議会弔問使節
16. UAEのシャルジャ、アジュマン、ラスアルハイマ、フジャイラ、ウムアルカイワイン各首長
17. モウレイ・ラシード・モロッコ国王兄弟
18. ナジーブ・ミカティ・レバノン元首相
19. ハニーヤ・ハマース代表
(中東域内)
1.オクタイ・トルコ副大統領
2.ザリーフ・イラン外相
(域外)
1. ウィリアム・アレキサンダー・オランダ国王
2. チャールズ英国皇太子
3. ボリス・ジョンソン英国首相
4. 安倍総理
5. サルコジ元仏大統領
6. ベン・ウォーレス英国防長官
https://www.oman.de/fileadmin/pdf/Death_Qaboos_OmanObserver_13-01-20.pdf
https://gulfnews.com/world/gulf/oman/mohammed-bin-rashid-and-saudi-king-salman-in-oman-to-give-condolences-after-passing-of-qaboos-1.68979076

2.ネタニヤフ・イスラエル首相声明(2020年1月11日)
●私はオマーンの人々に哀悼の意を表し、スルタン・カブース・ビン・サイードの逝去に際して深い悲しみを分かち合う。約一年前、彼は妻と私を重要で非常に感動的な訪問に招待し、 彼は、地域の平和と安定を前進させ、我々の地域の平和と安定を前進させるためにたゆまぬ努力をした優れたリーダーであった。
オマーンの外交政策と地域の平和のための仕事が続くと語ったハイサム・ビン・ターレクの新国王任命とその発言について、新国王に祝意を表する。
https://www.gov.il/en/departments/news/spoke_oman110120

(コメント)中東アラブ情勢のウォッチャーにとって、ある国の指導者の逝去に際して、どの国がどのようなレベルで弔問使節を派遣し、あるいはメッセージを発するかは、その国がどのような外交政策を展開してきたのか、どの国と友好関係を維持してきたのか、また、その国が域内でどのような重みを有するのかを知るうえで重要な機会となる。
まず、アラビア半島の国々をみると、GCC諸国内ではサウジ他すべて国のトップ(UAEは実権を握っているアブダビ皇太子)が弔問に訪れた。イエメンもハーディ(正統)政府大統領が訪問した。一方で、アラビア半島以外のアラブ諸国については、トップとしてアブドッラー2世ヨルダン国王とチュニジア大統領、ジブチ大統領、パレスチナ暫定自治政府大統領が出席したが、域内大国エジプトやイラクは、No2の対応となった。シリアは、アサド大統領が新国王に弔電を発出したほかは、ダマスカスのオマーン大使館にシリア外務省ミイカード副大臣が弔問に訪れるにとどまったことが報じられている。
米国との緊張が高まるイランのザリーフ外相の来訪や、ハマースのハニーヤ代表の来訪もオマーンが培ってきた外交の特徴、独特のネットワークを示すものとして注目される。2018年10月オマーンを訪問してカブース国王と会談したイスラエルのネタニヤフ首相は、声明を発出し、オマーン国民に弔意を表明した。イスラエルからは1994年に当時のラビン首相が外交関係のないアラブ諸国への訪問としては初めてオマーンを訪問しており、以来、この外交的パイプを維持してきている。旧宗主国の英国は、チャールズ皇太子、ジョンソン首相、国防長官が弔問に駆け付けた。日本は、安倍総理の中東歴訪中にカブース国王が亡くなったため、安倍総理のオマーン訪問は、ハイサム新国王に日本国を代表して弔意を表し、閣議決定した海上自衛隊船舶のオマーン湾ほか派遣について説明し、オマーンの港湾使用の可能性について、要請を行う絶好の機会となった。2008年文化遺産大臣時代、外務省賓客として訪日したハイサム新国王と皇太子時代会見したことのある天皇陛下は、カブース国王逝去にあたっての弔電を発出し、地元紙でも大きく取り上げられた。
エリザベス女王、プーチン大統領、周近平主席、マクロン大統領は新国王に弔電を送り、トランプ大統領はカブース国王の逝去を悲しむとの声明を発出した。

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中東の緊張緩和に努めてきたオマーンのカブース国王死去とハイサム新国王の就任[2020年01月12日(Sun)]
1.2020年1月11日、オマーンのカブース国王(スルタン・カブース・ビン・サイード・アル・サイード)が死去した。享年79歳であった。国王は、1940年11月18日オマーン南部のドファール州の州都サラーラ生まれで、ポルトガル支配を終わらせたブーサイード王朝の直系子孫であった。王朝は1741年にブーサイード家の最初の創設者(イマーム・アフマド・ビン・サイード)に遡り、王家は国の支配権を引き継いでおり、継続的に支配している最も古いアラブの家族の1つと考えられている。カブース国王は、インドとサンドハーストの王立陸軍士官学校で軍事教育を受け、1964年に帰国、1970年に無血クーデターで父親から権力を奪取した。首相、国防大臣、財務大臣、外務大臣、軍の指揮官を兼務した。カブースは、父のスルタン・サイード・ビン・タイムールと王妃マズーン・アル・マシャニの間に生まれた唯一の子供であった。国王は1976年にいとこと結婚したが、すぐに離婚し、再婚せず、子どもはいなかった。
https://www.aljazeera.com/news/2015/04/oman-sultan-qaboos-bin-al-dies-79-150420113058189.html
2.1996年にカブース国王によって公布されたオマーン基本法によれば、「後継者は王族の一員であり、スルタンの死から3日以内に王家評議会によって選ばれなければならない」と規定されている。この規定の下で、評議会内の協議で後継者を選択できない場合、カブース国王によって書かれた封印された手紙が開かれ、その中に後継者名が記されることになっていた。1997年カブース国王は、フォーリン・アフェアーズ誌とのインタビューで、「私はすでに優先順位をつけて2人の名前を書き留め、2つの異なる地域の封印された封筒に入れた」と述べていた。基本法第5条には、「オマーン国国王はサイイド・トルキー・ビン・サイード・ビン・スルタンの直系男子であり、オマーンのイスラム教徒を両親にもつ正当な息子でなければならない」と規定されている。今回、王家評議会の要請に基づき、王族の前で国防評議会が前カブース国王の後継指名書簡を開封し、1954年生まれのカブース前国王のいとこのハイサム(ハイサム・ビン・ターリク・アル・サイード)殿下の国王就任が決まったとされる。
https://arabi21.com/story/1236533/هيثم-بن-طارق-تاسع-سلاطين-عمان-ووصية-قابوس-بروفايل
3.ハイサム新国王は、国家基本法に従い、11日朝、オマーンの新たな国王としてオマーン評議会緊急会合において、就任の法的誓約を行った。国王に就任の上、カブース国王の葬儀にも立ち会った。新しい国王は、2002年2月以来国王就任まで文化遺産大臣を務めたほか、将来のビジョン「オマーン2040」委員会の委員長であり、かつて、外務省事務総長(ナンバー2)等さまざまな役職を歴任した。カブース国王の特使をしばしば務めたこともある。王位を継承する子供や兄弟がいなかった前国王とは異なり、ハイサム国王には、娘2人と息子2人の4人の子供がいる。新国王には、タラル、アサード、カイス、シハブ、アダム、ファリス、カミラ、アマルという8人の兄弟がいる。
https://www.aljazeera.com/news/2020/01/haitham-bin-tariq-named-successor-oman-sultan-qaboos-200111060309444.html

(コメント)イラン包囲網を強めようとするサウジが主導するGCCにあって、オマーンは、イランも含め全方位外交を展開し、中東地域の緊張緩和に独特の役割を果たす国として知られている。11日に就任したハイサム新国王は、TV演説で国民に向け、カブース国王の足跡を継承し、他の国の内政に干渉することなく、人々と国家間の平和的共存に基づく外交政策を採用し、すべての紛争に平和的で友好的な解決策を提供し、呼びかける、と語った。
オマーンは、2015年のイラン核合意の交渉を進めるための米・イラン間の事前協議の場を提供したことがある。また、イエメン内戦についても、フーシー派とサウジとの間の橋渡しを行ったこともある。長年アラブと対立関係にあったイスラエルともパイプを有しており、昨年10月には、ネタニヤフ首相夫妻がマスカットを訪問し、カブース国王と会談している。中東和平多国間会議の成果である中東海水淡水化研究センター(MEDRC)のメンバー国には未だイスラエルが名を連ねている。緊張が高まるホルムズ海峡の船舶航行の安全についても、イランと海峡の半分に責任を有するオマーンの役割は極めて重要である。ハイサム新国王は、日本政府の招待に応じ、2008年3月末外務省賓客として訪日し、オマーンの将来を担う重要人物として当時皇太子の天皇陛下とも会談した経緯がある。安倍総理の今次中東3か国歴訪においてオマーン訪問は、図らずも新国王に弔意を伝え、日本とオマーンとの友好関係を確認し、中東地域の緊張緩和に向けて双方の取り組みを確認する極めて貴重な機会になることは間違いない。

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新年早々暗雲が立ち込めるイラン情勢の急転(米軍によるソレイマーニIRGCコッズ部隊司令官殺害)[2020年01月04日(Sat)]
新年早々中東地域ならびに国際社会に激震が走った。1月3日午前1時過ぎ、イランのイスラム革命防衛隊(IRGC)コッズ部隊司令官であるカーセム・ソレイマーニ少将と、イラクの人民動員勢力(PMF)の副司令官(実質的には軍事部門トップ)であるアブ・マフディ・アル・ムハンディスがイラクのバグダッド国際空港内における米軍の空爆で殺害された。米国防省は米国時間1月2日の緊急声明の中で、この殺害の事実を認めた(参考1参照)。IRGCは3日朝の声明で、ソレイマーニ少将とアル・ムハンディスが米軍の空爆で殉教したと発表した。イラクのPMFもこの殺害を確認した。
1月3日(金)午前1時すぎ 地元の記者によると、3つのロケット弾が金曜日の早朝にイラクの首都バグダッド国際空港の貨物ターミナル付近に着弾し、2両の車両を破壊した。 その結果、イラク軍人10名以上が死傷したほか、上記2名が死亡した。この空爆に対して、アブドル・マハディ・イラク首相は、「イラク国内で公式の地位にあるイラク軍司令官の暗殺はイラクに対する侵略と見なされる。主要なイラク人または兄弟国からの人々の殺害は、イラクの主権への大規模な侵害である」とコメントした。一方、イランの最高指導者ハメネイ師は、ソレイマーニ司令官、ムハンディスPMF副司令官殺害に手を汚した者たちには厳しい報復が待っていると警告した。
(参考1) 米国防総省声明(米国時間1月2日)
大統領の指示で、米軍は、米国指定の外国テロ組織であるイスラム革命警備隊(IRGC)コッズ部隊(Quds Force)の長であるカーセム・ソレイマーニ(Qasem Soleimani)を殺害することにより、海外の米国要員を保護するための断固とした防衛行動をとった。
ソレイマーニ将軍は、イラクと地域全体で米国の外交官と軍人を攻撃する計画を積極的に練り上げていた。ソレイマーニ将軍と彼のコッズ部隊は、数百人の米国人と有志連合軍要員の死亡と、さらに数千人の負傷に責任を有する。彼は、過去数ヶ月にわたってイラクの有志連合軍基地に対する攻撃を組織し、12月27日の攻撃を含めて、米国人とイラク人の死傷者を追加させた。ソレイマーニ将軍は、今週行われたバグダッドの米国大使館に対する攻撃も承認した。
今回の爆撃は、将来のイランによる攻撃計画を阻止することを目的としている。米国は、世界中のどこにいても国民と利益を保護するために必要なすべての行動をとり続ける。
https://www.defense.gov/Newsroom/Releases/Release/Article/2049534/statement-by-the-department-of-defense/
(参考2)イラン最高指導者声明(1月3日)
神の御名において
親愛なるイラン国民へ!

イスラムの偉大で名誉ある司令官は天国に導かれた。昨夜(注:1月3日未明)、殉教者たちの穢れなき魂は、カーセム・ソレイマーニの純粋な魂を受け入れた。世界の悪魔や悪人との長年の誠実で勇気ある戦いの後、そして悲しいかな、神の道で殉教を願った後、親愛なるソレイマーニはこの高尚な地位を獲得し、彼の純粋な血は最も悪意のある人間によって散逸させられた。

ハズラト・バキヤトゥッラー-私たちの魂が彼のために犠牲になるように-そして彼の[ソレイマーニの]この偉大な殉教に対する純粋な魂を祝福するとともに、私は、国民に対し私からの哀悼の意を表する。

彼は、イスラム教とイマーム・ホメイニ学校で教育を受け、イスラムに育まれた優れた例のひとりであった。彼は生涯を神の道で戦った。

殉教は長年の容赦のない努力に対する彼の報酬であった。彼の旅立ちと神の力で、彼の仕事と道は止むことなく、昨夜の出来事で流された彼の血と他の殉教者の血で手を汚した腐敗した犯罪者には厳しい報復が待っている。

殉教者ソレイマーニは抵抗の国際的な顔であり、抵抗に親愛の情を抱くすべての者は、彼の血に報復を求めている。

すべての友人-そしてすべての敵-は、戦いと抵抗の道がさらなる動機をもって継続し、確かな勝利がこの祝福された道を進む戦闘員を待っていることを知る必要がある。

親愛なる自己犠牲的な司令官の不在はつらいが、抵抗の継続とその最終的な勝利は殺人者と犯罪者にとってより厳しいものとなる。

イラン国民は、誇り高き殉教者であるカーセム・ソレイマーニ中将と、彼の同僚の殉教者、とりわけイスラムの名誉あるアブ・マフディ・アル・ムハンディス氏の名と記憶を心に刻み込むであろう。私は国中での3日間の公的な喪を宣言し、彼の名誉ある妻、親愛なる子供たちと家族に心からの哀悼の意を表する。
https://www.presstv.com/Detail/2020/01/03/615238/Leader-Soleimani-revenge-US

(コメント)イラン・イスラム革命政権を支えるIRGCの対外工作部門の責任者であり、国民からも人気があり、ハメネイ最高指導者の信頼も厚いカーセム・ソレイマーニ司令官の殺害は、これまで米国からの「最大限の圧力」の行使を受けながらも、直接の対峙を控えてきたイランと米国との関係を後戻りできない泥沼に巻き込む恐れがある。ソレイマーニ司令官は、イランの精鋭部隊IRGCコッズ部隊の長として世界中に名が知られている人物であり、イランの関係する中東域内の軍事作戦にとって欠かすことのできない重要人物であった。1957年生まれのソレイマーニは、1979年のイスラム革命後、IRGCに参加することで軍事キャリアを積み始めた。1980年に開始され、8年間続いたイラン・イラク戦争中、ソレイマーニは次第に熟練した指揮官として知られるようになり、イラン軍はイラク・バアス党政権軍の侵略に対する多数の戦闘を主導したことで頭角を現した。その後コッズ部隊の司令官として、レバノンのヒズボラ、イラクその他の民兵組織との関係を強化した。2014年からのISISの台頭をうけて創設されたPMF(アラブ名:ハッシュド・シャアビィ)と協力して、イラク国内のISIS掃討に協力するとともに、レバノンのヒズボラとも協力して2013年当時、苦しい戦況にあったシリアのアサド政権軍への支援を開始し、アサド政権軍の崩壊を防いだ。シリア、イラクで次第にプレゼンスを拡大するコッズ部隊とその傀儡勢力に危機感を高めたイスラエルは、たびたび、シリア国内でのコッズ部隊拠点への攻撃を強化し、最近では、イラクの親イラン・シーア派民兵組織も標的になっていた。イランとも関係が深いレバノン、シリア、イラクやアフガニスタン、パキスタンをも含むシーア派民兵組織との困難な調整を担い、軍事作戦を立案、工作していた部門のトップがスレイマーニ司令官であった。今回の米軍の空爆でソレイマーニ司令官とともに殺害されたムハンディス副司令官は、昨年末米軍の攻撃をうけ、少なくとも25名が殺害されたカターイブ・ヒズボラの長であるとともに、イラクの各民兵組織を束ねるPMFの事実上のトップであり、ソレイマーニ司令官と長年懇意にし、同司令官とともに、イラクにおける各種軍事作戦、各種利害調整を行うキーパーソンであった。
今回の空爆で米軍は、この地域におけるシーア派軍事部門の最重要人物2名を同時に殺害したことになる。当然、最高指導者のみならず、ハメネイ体制支持者にとって、殺害を命じたトランプ政権に対する怒りはすさまじいものであることは想像に難くなく、3日間の服喪のあと、どこでどの時点でとは予測できないものの、IRGCや親イランのPMF民兵組織、あるいはレバノンのヒズボラ等による米国人、米国権益、あるいは友好国権益への報復攻撃は避けられないとみられる。そして、それが現実になれば、米軍によるイラン国内の標的に対する攻撃も現実味を増してくることが懸念される。
いずれにしても、年明けからイランを巡る中東情勢は一触即発の危険な状況に陥ったことは間違いない。

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元日産トップのカルロス・ゴーン被告の驚きのレバノンへの非合法脱出[2020年01月01日(Wed)]
年末の日本に驚愕のニュースが飛び込んできた。レバノンの首都ベイルートから元日産トップで、日本の裁判所から海外渡航禁止の条件付きで保釈されているカルロス・ゴーン被告が、「私は現在レバノンにいる。基本的な人権が拒否されている不正な日本の司法制度によって人質にされることはもうない。正義から逃れたわけではない。不正や政治的迫害から逃れた。ついにメディアと自由にコミュニケーションをとることができるようになり、来週からやりとりが始まることを楽しみにしている」との声明を発出した。

同氏は、関空からプライベート・ジェットで出発し、トルコのイスタンブール経由で、12月30日未明にベイルートの空港に到着したとみられている。レバノン外務省は、カルロス・ゴーン氏が合法的にレバノンに入国したとの声明を発出した(下記参考参照)。ゴーン氏の旅券は、弘中弁護士が保管しており、レバノンに合法的に入国したとの外務省声明は、レバノン、仏、ブラジルの市民権を保有しているゴーン氏がいくつかの旅券を使い分けていたことを想起させる。日本出国の際は、プライベート・ジェット搭乗であっても、保安検査、出国審査を受けることが当然で、日本の出入国管理当局には出国の記録がなかったとされることから、非合法に出国したことは確実であると見考えられる。レバノン政府は、ゴーン被告が合法的に入国したと主張していることにかんがみれば、仏政府発給の正式旅券を使用し、トルコ出国の記録が旅券上残っている可能性が高い。日本とレバノンには身柄「引き渡し」協定は存在せず、ゴーン氏が4月に予定されていたとされる公判出廷のため、日本に戻ってくる可能性は極めて低い。

レバノンでは、1997年日本赤軍のメンバー5名が当局に拘束され、その後、4名は日本に送還されたが、ロッド空港で乱射殺害事件を起こした日本人3人組で唯一生き残った岡本公三については、レバノン政府は、「アラブの英雄」として、日本政府からの引き渡し要請に応じることはなく、同人は亡命を認められ、現在もレバノンで余生を過ごしているといわれる。

(参考)12月31日付外務・移民省声明

本省は、カルロス・ゴーンが30日夜明けに合法的にレバノンに入ったことを確認する。レバノンの公安は、彼の日本からどのようにして出発し、ベイルートに到着したかの状況を我々は承知していないことを確認するとともに、それに関するすべての話は彼の個人的な問題であるとみなす。

外務省は、レバノンが1年前にカルロス・ゴーンに関するいくつかの公式の通信を日本政府に送ったにもかかわらず、何らの回答も受けておらず、数日前に日本の外務副大臣がベイルートを訪問した際に、全体ファイルを手渡したことを確認する。

レバノン外務省は、司法共助または身柄引き渡しに関して日本との合意は存在しないが、両国は腐敗防止に関する国連の条約に署名しており、レバノンが日本当局に送付した通信内容はそれが根拠となっている。

レバノン外務省にとって、日本国との最良の関係に対するレバノンの熱意を確認することは重要である。

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分極化するイスラム世界(イムラン・カーン・パキスタン首相のクアラルンプール・イスラム首脳会議の欠席の意味)[2019年12月20日(Fri)]
12月19日52か国のイスラム代表者650人が参加してクアラルンプールで、イスラム首脳会議が開催された。同会合には、ホスト国マレーシアのマハティール首相、イランのローハニ大統領、トルコのエルドアン大統領、カタールのタミーム首長らが参加した。この会合に招待を受けたサウジのサルマン国王は、欠席した。とりわけ注目されるのは、直前まで出席するとみられていたパキスタンのイムラン・カーン首相が開催2日前に欠席を表明し、代わりに派遣するとしていたシャー・マフムード・クレイシ外相も出席を取りやめたことである。世界最大のムスリム人口を抱え、マレーシアとも関係の深いインドネシアもジョコ大統領が出席を取りやめ、同大統領に替わって出席するはずのインドネシア最大のイスラム教団体である「ウラマーの復興(Nahdlatul Ulama )」を代表するマアルーフ・アミーン副大統領も、健康上の理由を理由に土壇場でキャンセルした。今回のイスラム首脳会議は、イスラム世界が抱える現在抱える様々な課題の解決に向けてその取り組みを話し合う場であるとされていたが、パキスタンやインドネシア首脳の欠席は、イスラム諸国会議機構(OIC)をホストするサウジから、イスラム世界の分裂を招きかねないとして、パキスタンやインドネシアに対して、出席を控えるようにとの強力な働きかけがあったためとみられている。イムラン・カーン首相は、今次会合直前、サウジを訪問してムハンマド・ビン・サルマン(通称MBS)皇太子と会談しており、カーン首相の欠席は、重要な援助国であるサウジからの要請を優先した結果と考えられる。一方、バーレーンのハーレド外相は、サルマン国王からの書面の招待が発せられていたにもかかわらず、リヤドでの先のGCC首脳会議出席を見合わせたタミーム首長が遠方のクアラルンプールの会合に出席したことに苦言を呈している。先のGCC首脳会議は、本来アブダビで開催予定であったものが、カタールの出席を勘案して、サウジが開催地となり、開催前には、カタールと断交中の湾岸3カ国との関係修復に進展があるのではないかとの希望的観測も高まっていたが、カタールは首相を出席させ、関係修復には時間がかかることを改めて認識させた。

(TRTが報じたサウジによるカーン首相へのサミット欠席の説明動画)
https://youtu.be/AkkuAyDc8m4

(参考)主な首脳や有力者発言の注目点
1.マハティール・マレーシア首相
●我々は皆、イスラム教徒、彼らの宗教、そして彼らの国が危機状態にあることを知っている。イスラム教徒の国が破壊されるのを目撃し、どの国でも市民は彼らの国から逃げ出し、非イスラム教徒の国に避難を余儀なくされた。第二次世界大戦によって荒廃した他の国々が回復し発展した一方で、多くのイスラム教徒の国々は、うまく統治できず、非常に発展が遅れ、繁栄できないでいる。

2.タミーム・カタール首長
パレスチナの占領は我が地域における不安定の最も重要な原因の1つである。パレスチナの土地の併合、違法な入植、および「エルサレムのユダヤ化」は、都市のアラブ人的性格を一掃し、至る所でアラブ人とイスラム教徒の感情を逆なでする政策の例である。

3ローハニ・イラン大統領
●一部のイスラム教徒の国々(暗にサウジを指す)の「精神的および行動的急進主義」が中東に、外国の介入への道を開いた。シリア、イエメン、そしてイラク、レバノン、リビア、アフガニスタンでの暴動と騒乱は、国内の過激主義と外国の介入の組み合わせの結果である。
●イスラム教徒の国々は銀行と金融協力のための特別なメカニズムを確立し、取引に国の通貨を使用することができるようにすべきである(イランは2018年から米国の制裁下にあり、国際金融システムを使用して他の国との貿易を制限されている)。

4.エルドアン・トルコ大統領
●数多くの機会、石油、人口、天然資源にもかかわらず、いまなおムスリムの大部分が貧困や無知と闘っているのならば、過ちを自分たちの中に模索する必要がある。最も裕福なイスラム国と貧困国の差は200倍以上である。世界全土の識字率が82.5パーセントである中、この割合はイスラム世界では約70パーセントで推移している。世界全土で発生している紛争による死者の94パーセントはムスリムが占めている。現在世界で売却されている兵器の3つに1つは中東に送られている。つまり、ムスリムが互いに発砲する中で裕福な者は欧米の兵器商人になっている。
●ムスリム諸国が国連安全保障理事会の常任理事国である5つの加盟国を含む17億人のイスラム教徒の運命を西側諸国の手に委ねるべきではない。世界は5か国よりも大きい。国連常任理事国の拒否権が小国に有害である。国連の安全保障理事会は、その有効期限を過ぎている

5.オスマン・クアラルンプール・サミット事務局長
●マハティール首相は、サウジのサルマン国王に招待を届けるため個人代表を派遣した。サミットはOICに対抗することを意図していない
(アルジャジーラ関連オンライン記事)
https://www.aljazeera.com/news/2019/12/mohamad-mahathir-muslim-world-state-crisis-191219091837516.html

Posted by 八木 at 13:11 | イスラム世界で今注目されている人物 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

女性が組織の中核を占めるシリアのクルド人組織(YPJスポークスウーマンの動画)[2019年11月03日(Sun)]
ネスリン・アブドッラー(Nesrin Abdullah )クルド人民防衛隊の女性部隊(YPJ)スポークスウーマンが、新しい社会を築く上での女性の活動と役割の重要性を語る動画を紹介する。シリアのクルド人社会においては、制度上も実践上も男女の平等が強調されており、2014年1月に発表されたクルド人支配地Rojava/cantonを仕切る「民主的社会の実現を目指す運動」(TEV-DEM)の「社会契約憲章」において、女性は政治、社会、経済、文化生活に参加する不可侵の権利を有する(27条)。男女は法の下で平等であり、憲章は公共機関がジェンダー差別を解消するよう取り組み、女性の平等実現を保証する(28条)。すべての行政機構・組織・委員会は少なくともどちらか40%以上の割合で、両性で構成されなければならない(87条)とされている。YPGの政治部門であるクルド民主統一党(PYD)も男女の共同代表システムをとっており、軍事部門も、男性部隊のYPGとともに女性部隊のYPJが実戦に参加している。(ネスリン・アブドッラー動画) https://youtu.be/Fw9ccTc60_c

クルド人民防衛隊(YPG)を主体とするシリア民主軍(SDF)と協力してシリアでISISと戦ってきたのは、米軍だけではない。独、仏、英ほか有志連合参加国も、シリア北部に特殊部隊部隊員を派遣し、地上部隊としてISISと戦うYPG、そしてYPGが主導するSDFとの協力関係を築いてきた。中でも、仏は、2015年2月8日にオランド仏大統領(当時)が、シリアのクルド代表団をパリのエリーゼ宮に当時は、SDF発足前であったが、激戦の末トルコ国境に近いシリア北部中央の町コバニ(アラブ名アイン・アルアラブ)を解放したばかりのクルド人勢力代表を迎え入れ、その貢献を称えていた。オランド大統領と面会したのは、YPJのネスリン・アブドッラーの他、アシヤ・アブドッラーPYD共同代表、ハーリド・イッサPYD仏事務所代表であった。因みに、YPG/YPJは、米軍を主体とする有志連合によるシリアにおける「テロとの戦い」に協力して2015年1月、4か月間にわたるISISとの激戦の末、コバニを解放した。コバニ解放作戦で、YPG・YPJ戦闘員408名が戦死し、一方、IS戦闘員も約4900名殺害された(2015年2月10日付ekurd報道ほか)。仏のシリア・クルド勢力との関係は、その後も続き、2018年3月29日、マクロン大統領がPYD・YPG関係者を含むSDF代表団とエリーゼ宮で会見している。
そして、YPG・YPJは、2017年10月に、ISISの首都「ラッカ」を陥落させ、その後も、ディリゾールほかのISIS残党の掃討作戦を続けた。犠牲者は、11,000名にのぼるとされる。そして、2019年3月までに、領土を有する「イスラム国」がほぼ潰えたのち、8月11日、米国がトルコとの間で、シリア国境沿いに安全地帯を設置する合意を結び、さらに、10月6日、トランプ大統領のシリア北部からの米軍部隊撤退の宣言、10月9日からのトルコによる対シリア越境軍事作戦「平和の泉」開始により、タル・アブヤド、ラス・アルアイン間の支配を失い、さらに、10月22日のトルコ・ロシア合意により、ユーフラテス川東方、イラク国境付近までの幅30kmの緩衝地帯からの撤退を強いられることになった。シリアのクルド勢力は、2018年1月のトルコによる「オリーブの枝」作戦により、シリア北西部のアフリンを失い、対ISIS戦での象徴的都市コバニからの撤去を余儀なくされ、さらに、残る北東部アルジャジーラの国境沿いを失うことになった。アサド政権は、SDFの国軍への編入を呼びかけているとされる。シリアのクルド人勢力は、2016年3月16日の宣言に基づくRojava/北部シリアにおける民主連邦統治設置を実行する領域を失いつつある。国際社会は、トランプ大統領とともに、YPG・YPJをお役目ご免として切り捨てるのか、すくなくとも、立ち上がった憲法委員会での議論をはじめシリアの将来を決めるプロセスに政治団体代表の参加の途を開くのが、ISIS戦をともに戦った有志連合国の道義的責任ではないかと考えられる。
 シリアのクルド人組織で、よく言及されるいくつかの組織の概要を紹介する。

(参考)シリアのクルド人組織の概説
PYD(Democratic Union Party):クルド民主統一党。2003年設立。PKKのオジャラン党首の思想を支持し、PYDの幹部の中には、一時期PKKの庇護を受けていた者もおり、トルコからは、PKKと同根のテロ組織とみなされている。男女が代表を分け合う形をとっている。前共同代表のサーレハ・ムスリムは、2010年〜2017年まで代表を務めた。オランド大統領との会見に参加したアシヤ・アブドッラーも前共同代表である。2017年9月PYDの第7回総会で、シャホーズ・ハサン(Shahoz Hasan)、アーイシャ・ヘソ(Aisha Heso)の2名が共同代表に選出されている。
YPG(The People’s Defense Units/ People’s Protection Units):クルド人民防衛隊。Rojava/cantonの政治規約である社会契約憲章で、内外の脅威から自治地区・住民を防衛する役割が規定されている。PYDの軍事部門で現在、男性のみの組織。2004年のカミシリで起きた騒乱に対するバアス党政権によるクルド人弾圧を受けて、小グループで結成されたとされる。アラブの春がシリアに波及した2011年に正式に発足した。2014年夏以降シリアにおけるIS支配地の拡大をうけ、米国をはじめとする有志連合は、IS掃討作戦における地上のパートナーとして、頭角を現し、コバニ、タル・アブヤド、マンビジ、タブカ、ラッカ等解放の立役者となった。アフリン、コバニ、ジャジーラの3つのcantonとアレッポのシェイク・マクスードを管轄してきたが、トルコからは、テロ組織とみられており、2018年1〜3月のトルコのアフリン侵攻を受けて、同地から一旦撤退し、ゲリラ戦に転じた。マンビジでも、米・トルコ間のロードマップ合意をうけ、YPG軍事顧問団は、7月同地から撤退。2019年10月22日のトルコ・ロシア合意により、ユーフラテス川東方イラク国境までの幅30kmの帯状地帯からの退去が求められることになった。
YPJ(Women’s Protection Units):2013年4月4日に誕生したクルド人民防衛隊女性部隊。TEV-DEMの社会条約憲章で公的組織の4割以上が両性のいずれかで占めることになっているため、男性のみのYPGと補完する形で女性のみのYPJが組織されたと考えられる。通常、YPGと連携して軍事作戦に参加しているが、YPGとは別組織。オランド大統領(当時)と会見したネスリン・アブドッラーは、司令官兼スポークスウーマン。
SDF(Syrian Democratic Forces):シリア民主軍。クルド人のみならず、アラブ人、アッシリア人部隊等を含む混成軍。2015年10月11日、米軍の後押しで当初7組織が参加して創設された。ISIS掃討作戦は、クルド人中心の町だけでなく、アラブ人その他の住民が暮らす地域を解放する必要があり、地域住民の反発を少なくするため、さらには、クルド人部隊への武器供与に反対するトルコとの関係で、アラブ人等を含む混成部隊であることを示す必要があったと考えられている。YPG、YPJの他には、ジャジーラ県のシャンマール部族で構成されるサナディード部隊などが参加している。2015年10月以降は、クルド人部隊が主体であったとしても、戦闘の主体はSDFと言及されてきた。総司令官は、マズロウム・アブディで、SDFは、2019年10月末のバグダーディISIS指導者殺害作戦においては、バグダーディの警護担当の側近を寝返らせ、米軍にバグダーディの所在情報等作戦に必要な決定的情報を提供していたとされる。

Posted by 八木 at 12:52 | イスラム世界で今注目されている人物 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

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