• もっと見る
イスラム世界との結びつきを通じて、多様性を許容する社会の構築についてともに考えるサイトです。

Main | イスラム世界で今注目されている人物 »

検索
検索語句
<< 2025年03月 >>
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
最新記事
最新コメント
タグクラウド
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
プロフィール

中東イスラム世界社会統合研究会さんの画像
日別アーカイブ
https://blog.canpan.info/meis/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/meis/index2_0.xml
2年ぶりにシリア北部のクルド人の町コバニを舞台にした「ラジオ・コバニ」を鑑賞して[2019年12月05日(Thu)]
12月4日、ユニセフ・ハウスでフォト・ジャーナリストの安田 菜津紀さんを招いて、シリア北部のトルコ国境付近の町コバニ(アラブ名:アイン・アルアラブ)を舞台に、クルド人部隊によるコバニのISIS支配からの解放とその後の復興に向けての激励を、クルド人女性が創設したラジオ局を通じて発信していく状況の展開を描く映画「ラジオ・コバニ」が上映された。安田さんは、2011年のアラブの春前にシリアに入り、さらに、本年1月にもコバニを取材している。映画の冒頭は、爆撃され、あちこちのがれきの下からブルドーザー等で回収される遺体がこれでもかというくらい無造作に映し出されている。安田さんによればこれは監督が、現地の子どもたちは、何か月もこのような悲惨な状況と隣り合わせに暮らさざるをえないのであり、この映像を1分も見ることができなければ、現地のひとびとの気持ちがわかるはずがないとの認識からあえて、目を背けたくなる遺体回収の場面から映画を開始したとのことである。アラブの春で、アサド政権と反体制派が激しい戦闘を繰り返し、支配の空白地帯が生じたのに乗じて、イスラム国ISISがシリアに侵入し、一時はシリア全土の1/3近くを実効支配するにいたった。これに対して、米主導の有志連合に、戦闘における最も信頼できる地上軍として参戦した部隊が、クルド人民防衛隊(YPG)、同女性部隊(YPJ)であった。クルド人部隊は、3か月あまりの激戦ののち、コバニを解放した。その後、テルアブヤド、マンビジ、一時ISISの首都と呼ばれたラッカ、さらにディリゾールまで軍を進め、2017年10月までにISISが支配していた拠点をほぼ解放した。クルド人は、国際社会が呼びかけた「テロとの戦い」に先頭を切って参戦し、その結果約1万1千人が戦死した。シリアのクルド人組織は、男女平等を掲げており、その結果政治的にも代表を男女で分かち合うが、非常時には兵役を免れず、対ISIS戦でも女性兵士多数が死亡した。クルド人が解放した町の中でも、「コバニ」はクルド人の連帯と抵抗と誇りを示す象徴的な町であり、2015年の解放後、クルド人たちはがれきとなった町の復興に取り組んだ。クルド人は、内戦期間中、アサド政権とは正面からはぶつからず、米軍ほか有志連合の支援をうけて解放したトルコ国境沿いの3つのロジャバ(クルド語で西クルディスタンを意味するとのこと)カントンで自治を開始し、将来の連邦自治地区の創設を目指した。これに脅威を感じ、YPG、YPJをトルコのクルド労働者党(PKK)と同根のテロリスト組織とみなすトルコは、2018年1月にシリア北西部のアフリーンに越境侵攻(「オリーブの枝」作戦)し、クルド人部隊を駆逐し、そして2019年10月にシリア北部に「安全地帯」を構築するとして、越境侵攻(「平和の泉」作戦)した。トランプ大統領は、米軍の撤退を命じ、事実上トルコの進軍を容認した。その結果、数百名規模で、クルド人戦闘員、民間人が死亡した。国内外の批判の高まりをうけたトランプ政権の介入、ならびにそれを引き継いだロシアの介入によって、停戦が実現したが、YPG、YPJは、テルアブヤド・ラアス・アルアイン間の30kmのベルト地帯からの撤去を強いられ、その左右の国境地帯でも、幅10kmにわたってロシアとトルコが共同パトロールを開始することになり、YPG、YPJは、国境から30km以南に撤退を強いられることになった。これにより、クルド人部隊は、数年かけて徐々に形作ってきた連邦自治をシリア北部で行う基盤を失うことになった。コバニはどうなったのであろうか。安田さんは、トルコの侵攻後、コバニにとどまるクルド人映画関係者に連絡をとったとのことである。コバニは、トルコの侵攻後、アサド軍が迅速に近郊に進出し、ロシア軍が現地に進駐したため、完全には、トルコの支配下にはおかれていない。しかし、もはやクルド人が自分たちで、再建できる町ではなくなっている。国をもたない世界最大の民族といわれるクルド人の苦悩は、シリアでも継続されることを、2018年にNHK衛星放送でみた「ラジオ・コバニ」を、2019年12月に改めてみて、その想いを強くせざるをえなかった。
安田さんは、複雑な中東情勢を考えるきっかけとして、身近なテーマ、たとえば、中東の食事を通じて、関心を深めていくことがよいのではないかとコメントしていた。彼女は、2019年1月に久々にシリアを訪問して、ファラフェル(シリアの伝統的ひよこ豆料理でコロッケのような形状)に食べて涙したと述べていたのが印象的であった。

(あらすじ)
トルコとの国境に近いシリア北部のクルド人街コバニは、2014年9月から過激派組織「イスラム国」(IS)の占領下となるも、クルド人民防衛隊(YPG)による激しい迎撃と連合軍の空爆支援により、2015年1月に解放された。人々はコバニに戻って来たが、数カ月にわたる戦闘で街の大半が瓦礫と化してしまった。
そんな中、20歳の大学生ディロバンは、友人とラジオ局を立ち上げ、ラジオ番組「おはよう コバニ」の放送をはじめる。生き残った人々や、戦士、詩人などの声を届ける彼女の番組は、街を再建して未来を築こうとする人々に希望と連帯感をもたらす。
監督・脚本:ラベー・ドスキー 
https://www.uplink.co.jp/kobani/

Posted by 八木 at 16:16 | 日本とイスラム世界の出会い | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

トルコ文化年2019 トルコフェスティバル開催情報の共有[2019年08月29日(Thu)]
トルコフェスティバルが、トルコフェスティバル2019実行委員会の主催、ユヌス・エムレ・トルコ文化センター共催で、トルコ文化年にあたる2019年9月7日(土)、8日(日)代々木公園イベント広場で第1回が開催されるとのことです。東京にいて異文化体験のできる良い機会なので、当研究会としても開催情報を拡散します。
(公式サイトURL)https://www.torukofestival.com/
◆内容
@広場では多彩なトルコ料理(ケバーブだけではないようです)が堪能できます
A野外ステージでは、オスマン帝国時代の軍楽隊の演奏、民俗音楽やダンスなどのパフォーマンスが楽しめます
Bトルコの伝統的芸術ワークショップの体験コーナーに参加できます
・エブル(水の上に落としたインクで植物などの様々な模様を描き、紙に写し取る絵画)、
・オヤ(手芸)
・ハット(書道)
Cモザイクランプ、絵皿、アクセサリー等の珍しい雑貨を購入できます

Posted by 八木 at 10:46 | 日本とイスラム世界の出会い | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

トルコを代表するもうひとりのエルドアン氏「津軽海峡」を征服[2019年08月23日(Fri)]
8月20日トルコのスイマーであるエムレ・エルドアン氏が、世界の海峡横断泳の中で、最も難易度が高いとされている7つの海峡「Oceans Seven」のひとつに選ばれている距離30kmの津軽海峡横断に成功した。記録は、7時間36分17秒で歴代4位とのこと。
http://www.hurriyetdailynews.com/turkish-swimmer-cross-tsugaru-strait-in-japan-145977
オーシャンナビ(下記URL)は、津軽海峡の特徴として@流れのスピードが速い、A流れが複雑、B波とうねり、C水温の変化、D精神的ダメージ(陸がみえているのになかなか近づけないほか)を挙げて、超難関のひとつと分類。42人が横断に成功しているもよう。世界最速は、1990年の米国人スイマーであるスティーブン・ミュナトネス(Steven Munatones)の6時間11分とされている。トルコを代表する「エルドアン」は、大統領だけではようである。

◆国際マラソンスイミング殿堂機関『OPEN WATER SOURCE』によって選出された7海峡
(1)カタリナ海峡 (33.7km/アメリカ:サンタカタリーナ島〜ロスアンゼルス間)
(2)アイリッシュ海峡(33.7km/アイルランド〜スコットランド間 )
(3)クック海峡(26km/ニュージーランド北島〜南島間)
(4)カウワイ(モロカイ)海峡(41.8km/ハワイモロカイ島〜オアフ間)
(5)ドーバー海峡(34km/イギリス〜フランス間)
(6)ジブラルタル海峡(14.4km /スペイン〜モロッコ間)
(7)津軽海峡(30km /本州〜北海道間)
https://ocean-navi.com/channel01/

Posted by 八木 at 08:33 | 日本とイスラム世界の出会い | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

新井春美氏投稿「トルコスポーツ事情」[2019年08月18日(Sun)]
東京オリンピック、パラリンピック2020は、約1年後に迫ってきています。今回は、国際政治や安全保障をすこし離れて、中東イスラム世界の大国トルコのスポーツ事情を、当研究会メンバーの新井春美氏が紹介します。日本サッカー界の代表的プレイヤー長友選手もトルコ国内のサッカーリーグに所属して活躍していることは、直接のファンでなければあまり知られていないかもしれません。2022年には、トルコが関係を強めているカタールのドーハでFIFAワールドカップも開催されます。今後、中東イスラム世界でのスポーツ事情、政治とスポーツの関わり等折に触れてご紹介していきたいと思います。まずは、研究会公式サイト「成果物」に掲載された今回の新井春美氏の興味深い投稿を、以下のURLからアクセスのうえ、ご一読願います。
http://meis.or.jp/products/door2me/TurkeySports/TurkeySportsStat.php

Posted by 八木 at 10:19 | 日本とイスラム世界の出会い | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

中東料理店体験記第2弾:東中野のペルシャ料理店キャラヴァンサライ包(パオ)[2019年07月01日(Mon)]
ひさびさにペルシャ料理を味わってきました。お店は、東中野西口徒歩1分のキャラバンサライ包(パオ)です。
P1080361.JPG
西口を出て、道を渡るとファミリーマート駅前店があります。そこから駅を眺めた写真です。

駅を背にしてファミリーマートのすぐ左が、キャラバンサライ包です。P1080362.JPG
メニューの看板があります。

中に入ると
P1080372.JPG
古い容器や食器などが陳列されています。そこを左にはいると食事をする空間になります。
P1080371.JPG
天井をみあげたところです。リピーターが多いようです。外国人も見受けられます。
メニューを紹介します。
P1080364.JPG
まず、ナンです。穴があいているのが特徴です。とてもおいしい。
次に定番のオリーブです。
P1080365.JPG
次に蒸し鶏とシャンツアイのサラダです。
P1080369.JPG
次は、バーミヤ(おくらのトマト煮)です。
P1080367.JPG
さらに、バンジャン(なすのトマト煮)です。
P1080368.JPG
それから、メインのなすと羊ひき肉のカラヒィです。
P1080370.JPG
飲み物は、ソフトドリンクだけでなく、ビール、ワイン、紹興酒その他なんでもあります。中東で有名なオゾ(水を加えると白濁するお酒でアラックとも言います)もあります。
最後は、お茶を飲んで締めくくりました。非常に満足度の高い料理店でした。

Posted by 八木 at 13:25 | 日本とイスラム世界の出会い | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

難民を助ける会(AAR)主催「ミャンマー避難民 現地視察報告会−人道危機から1年半−」 の注目点共有[2019年05月31日(Fri)]
5月29日(水)、聖心女子大学4号館で開催されたAAR主催の「ミャンマー避難民支援」に関する報告会を聴講したところ、興味深い点を共有します。報告は、AARバングラデシュ・コックスバザール事務所現地駐在員の中坪央暁氏と、本年3月、現地を視察したWFPで緊急支援も担当したスペシャリストである忍足謙朗氏(AAR常任理事で、NHK「プロフェッショナル--仕事の流儀」に出演したことがある)の両名から行われ、その後会場の出席者との間で活発な質疑が交わされました。

1. ロヒンギャ難民キャンプは、バングラデシュのコックスバザール県に存在する。1948年のビルマでは、ロヒンギャは認知されており、61年から64年にかけて自治地区を有していた。しかし、1982年の改正国籍法の施行により、135の土着民が除外され、無国籍者となった。ロヒンギャは1978年にミャンマー国軍や住民による迫害・差別から逃れるためにバングラデシュへ流出し、その後、92年、2016年と流出が続いた。 バングラデシュには、ミャンマー国軍による掃討作戦が実施された1978年やその後流入した難民が暮らす公式キャンプが存在していたが、2017年8月以降数十万人が流入し、公式キャンプの拡張や追加のキャンプが設けられた。最大のキャンプは、クトゥパロン・キャンプで、難民支援の中心地になっている。
2. バングラデシュ政府は、寛大にも90万人〜100万人ものイスラム教徒であるロヒンギャ難民を受け入れている。しかし、受け入れはあくまで「一時的な滞在者」としてのものであり、永住は認めないとの立場。そのため、難民キャンプでは、長期的な構造物となるインフラは建設させず、住民が往来する橋なども強固な構造物ではなく、竹材を使用したり、コンクリート製の家屋も認めていない。キャンプ外に出ることも認めておらず、キャンプ内の仕事も原則認められていない(但し、キャンプ内の整備のために、難民を雇用し、手当を支払うキャッシュ・フォア・ワークは実施されている)。他方で、バングラデシュ政府は、ロヒンギャ難民の強制帰還は行わない方針を維持している。
3. ロヒンギャ難民は、そもそもミャンマー国籍をもっていない。ディアスポラ・ロヒンギャは欧米に相当数在住するほか、パキスタンに35万人、サウジは正確な数字はわからないが、一説では20-40万人、インドには4万人(一部強制送還されている人たちもいる)、マレーシアは難民として受け入れられた者は約3万人(全体で12万人)、日本にも300人ほど(群馬県の館林に約150名)。インドネシアは積極的ではない。豪州は完全に門戸を閉ざしている。
4. キャンプの中の難民の半数は、18歳未満の若者。バングラデシュ政府は、学校の建設を認めておらず、NGOが教育サービスを提供している。ロヒンギャは男性も女性も,外見だけからロヒンギャとベンガル人を見分けるのは容易ではなく、ロヒンギャの使用する言語は、西ベンガル語に近いが、バングラデシュ政府がバングラ定住に結びつかないようキャンプ内ではベンガル語の教育を禁止しているため、言語教育は、ビルマ語(ミャンマー語)と英語になる。難民の子どもたちは、ビルマ語にもなじみがないため、事実上外国語を学ぶのと同じ状況におかれる。ユニセフの調査では、4-14歳の難民の子どもたちの90%の学業達成レベルが、小学校2年レベルかそれ以下であり、学習施設を増やすことが重要。学校建設が認められていないのは、国際的にみても稀有であり、子どもたちの将来のためにも学校建設を認めるようバングラデシュ政府に働きかけることが重要
5. キャンプ内では、食料品等基礎物資の現物支給ではなく、アシスタンス・カードという指紋認証のデビット・カード・システムを導入し、キャンプ内での生活を通常の生活に近づけるよう取り組み始めている。カードは、1人月約1000円で、それに家族の人数をかけた金額が世帯で使用できる生活費となる。これにより、難民たちは、食料品を、自分たちの好みにより選んで購入できるようになった。WFPは、民間業者2社入札で選び、業者は簡単なスーパーを運営し、多少の競争原理が働くようにしている。
6. キャンプ内から外に出ることは禁止されているが、それでもこっそり抜け出て、日雇い労働等に加わっている者も存在する。キャンプを受け入れているホスト・コミュニティは、難民たちに里山、水や泉を侵害されていることに加え、安価な日雇い労働者が流入することで、労働の単価が一日あたり500タカ(600-650円)であったものが、200-300タカに低下し、摩擦の種となっている。このため、フォックス・バザールでは、ホスト・コミュニティの7千世帯に衛生用品等を支給し、受け入れ側の住民たちにも配慮している。
7. バングラデシュとミャンマーは、ロヒンギャ難民の帰還に合意したが、昨年11月15日から実施されるはずの帰還は実現していない。ロヒンギャ難民は、市民権も国籍も持っておらず、危険が待ち受けているミャンマーに進んで帰ろうとする者はいない。ミャンマーの国民の多くは、ロヒンギャをミャンマー人ではなく、ベンガル人であるとみなしている。本日の会場の質問者からは、アウンサンスーチー氏に関する質問は一切出なかったが、彼女は、ロヒンギャを同胞とみなさない国民の声と治安を仕切っている軍部との関係で、採り得る対応は限られている。欧米は政権側の人権侵害への対応が不十分であるとして声高に非難しているが、日本政府は、政権と国際社会の橋渡しを行うとの立場である。
8. 現在の難民支援は、ドナー国からの支援がほとんどで、AARも日本政府のNGO連携スキームで、水や衛生、女性・子どもの保護、教育支援等を実施している。しかし、ロヒンギャ問題の政治的解決は当分期待できず、将来を楽観視できない。今はまだ国際社会からの援助で何とか難民支援を行っているものの、他の問題の発生等で国際社会の関心が低下していくと、援助が減り、難民支援の継続が困難になっていくものと恐れている。日本でも、ロヒンギャ問題が報じられることが少なくなっている。世界の各地において、ロヒンギャの問題だけでなく、イエメンでも、シリアでも、南スーダンでも悲劇が発生しているにもかかわらず、日本国民が興味を持たないのは残念である。メディアの責任も大きい。

文責 八木正典(AARの公式の記録ではなく、あくまで、傍聴者個人としてのメモを共有するものです)

Posted by 八木 at 15:36 | 日本とイスラム世界の出会い | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

パレスチナ・ガザの画家三人展 アーティスト・ブリッジ2019[2019年02月23日(Sat)]
ガザから3人の画家が初来日して、東京大学東洋文化研究所1階玄関ホールで、2019年2月21日(木)〜3月7日(木)の期間、「パレスチナ・ガザの画家三人展 アーティスト・ブリッジ2019」 が毎日9:30−18:00  (但し、土日、2月25日〜27日閉館。入場無料)開催されています。2月28日(木)16:00 〜19:00には、徐京植(ソ・キョンシク)東京経済大学教授・作家とガザの3名の画家が出席して、ギャラリー・トークが東京大学東洋文化研究所 1階玄関ホールで実施される予定です。長沢栄治東大教授がアレンジされており、ご関心のある方はぜひ、足を運んでみてください。
(来日中のガザの画家3名)
Mohammad Al-Hawajri(モハンマド・ハワージリ)
Sohail Salem(ソヘイル・サーレム)
Raed Issa(ラーエド・イーサ)

【補足】ガザは、一方を東地中海に面し、陸側3方はフェンスに隔離された総面積365平方キロの土地に人口約200万人が居住し、人口密度は約5200名/平方キロの超密集地帯である。1967年の第三次中東戦争で、西岸とともにイスラエルに占領された。1987年の第一次インティファーダ(民衆蜂起)はガザから起きた。1993年のオスロ合意によってイスラエル・パレスチナ間の紛争解決の第一歩としてガザ・ジェリコ合意が結ばれ、ガザはパレスチナ人が実効支配する土地となった。しかし、その後和平交渉はとん挫し、2005年にイスラエル政府はガザの入植地を閉鎖し、イスラエル人を退去させ、2006年以降ガザを陸海空ともに封鎖した。現在パレスチナ人政治組織ハマースが現地を実効支配しているが、イスラエルはハマースをテロ組織とみなし、ガザからの人・物・資金の出入りを厳しく制限している。ガザには6か所の検問所があり、イスラエル側で主に運用されている検問所はエレツ検問所で、エジプト・シナイ半島方面にはラファ検問所がある。訪日には、3名は在イスラエルの日本大使館で査証を取得する必要があるが、テルアビブに行くことはできないため、仲介者経由で途中トラブルもあり、発給まで1か月以上を要したとされる。3名は、イスラエル側からの出国をあきらめ、エジプト側から出発することにしたが、直前まで検問所が1か月間閉鎖されていたこともあり3名が国境に到着した時には数百名が待機していたという。検問所通過後、ISの警戒が続くシナイ半島の40か所以上の検問を抜けてカイロ空港にたどり着いたと報じられた(2019年2月19日付朝日新聞夕刊報道)。今回の3名の招聘は、画家上條陽子氏が代表を務める「パレスチナのハートアート・プロジェクト」の事業によるもので、日本の人々が現地の作家の作品に直接触れ、また、その作者と直接触れ合うことで、天井のない監獄ともいわれるガザの現状、パレスチナ人が置かれた過酷な状況に理解を深めるとともに、世界中に、芸術を通じて、将来の展望を開きたいとのガザのアーチストたちの運動への支援の輪を広めようとするもの。3名の画家は、7人のガザの画家が結成したエルティカーウ(出会い)グループのメンバー。ウェブサイトはhttp://www.eltiqa.comでアクセス願いたい。

Posted by 八木 at 14:07 | 日本とイスラム世界の出会い | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

紛争地域で取材をしてみたい方へのヒント[2018年04月30日(Mon)]
アフガニスタンで出会った後藤健二君とのことを中心に記述しました。
記事は下記を御覧ください。

http://meis.or.jp/products/door2me/advices2futurejournalists.php

Posted by 村瀬 at 19:28 | 日本とイスラム世界の出会い | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

東京回教寺院(現東京ジャーミィの前身)創設80周年[2018年04月23日(Mon)]
5月12日は、現在代々木上原にあるイスラム教徒のモスク「東京ジャーミィ」の前身にあたる東京回教寺院(東京モスク)が1938年にその竣工式典が開催された日であり、本年はまさに80年目の節目の年となります。松長昭著「在日タタール人:歴史に翻弄されたイスラーム教徒たち」ユーラシア・ブックレットNo134、企画編集:ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会、発行東洋書店、2009年2月20日発行によれば、第二次世界大戦勃発直前にもかかわらず、式典には、イエメン国王子、エジプト国王名代、サウジアラビア国王名代ほかイスラム圏の代表、ならびに当時の世相を反映して、松井石根陸軍大将や政府、東京市代表などそうそうたる顔ぶれが式典に参加したことがうかがえます。そのモスク建設の中心となったのは、ロシア革命後、現地を避難し、日本にたどり着いたタタール人であったとのことです。同著前書きで紹介されていますが、団塊の世代以上の日本人の多くはタレントのロイジェームズ、プロセスレフェリーであったユセフ・トルコのことは、彼らをタタール人であると認識はしていなかっとしても、今も鮮明に覚えていると思います。戦後、トルコがタタール人に国籍を付与する決定を行ったこともあり、現在在日のタタール系住民は極めて少なくなっているそうです。しかし、タタール人は、間違いなく日本社会のイスラム世界への扉を開けてくれた人々であり、これを記憶にとどめることは、日本人が他の民族、宗派の人々とかかわっていくうえで、極めて意義深いと考え、本ブログの最初の記事として紹介する次第です。因みに、5月12日は、東京ジャーミィでは、春のミニバザールを開催する予定とのことです。誰もが参加できる企画とのことですので、ご関心のある方はぜひ、足を運んでみてください。https://tokyocamii.org/ja/

Posted by 八木 at 17:48 | 日本とイスラム世界の出会い | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)