アサド政権軍崩壊までの軌跡[2025年02月07日(Fri)]
2月5日付ミッドルイーストアイが、アサド政権軍内部や政権側を支えてきたイランやイラクの組織関係者からの目撃証言等をたどって、反体制派のアレッポ進攻からアサド政府軍崩壊までの軌跡を記事にしている。これによれば、アサド政権軍内部からの造反により、軍内部でドミノ現象が起こり、イランによる立て直しの取り組みにもかかわらず、アサド政府軍はむなしく崩壊していった状況が浮き上がってくる。
@2024年11月27日、HTS部隊率いる反政府軍のアレッポ攻撃が本格化
A2024年11月28日午前6時、危機感を感じたシリア共和国防衛隊サフトリ少将の呼びかけで、アレッポ中心部のアル・フルカン地区にある将校クラブの北部軍事作戦室で緊急会議招集。シリアにおけるイランの最高軍事顧問であるIRGCコッズ部隊のキオマルス・プールハシェミ准将、レバノンのヒズボラの指揮官2人、およびさまざまな治安部隊の将校らが集合。
B今後の作戦や対応などを巡って、会議は紛糾。アサド政府軍将校の一人が、警備員の一人からAKM攻撃用ライフルを奪い、プールハシェミ准将に銃弾を浴びせて殺害。ヒズボラ司令官のひとりも負傷。
Cこの後、数十人の将校と兵士が従わず戦闘を拒否するようになり、アレッポ市の西側の防衛がさらに崩壊した。イランが長年支援してきたシリアの準軍事組織「アルバーキル旅団」の裏切り攻撃も発生し、数十人が命を落とし、負傷した。
Dイランとレバノンの顧問と一部のシリア将校が「裏切り者の(シリアの)将校」によって「粛清」された。
Eイランの野戦軍司令部は、関連部隊に対し、追って通知があるまで前線から撤退するよう緊急命令を出した。一部の部隊はアレッポの南45キロにあるアブ・アル・ドゥフル空軍基地に撤退し、残りは東のアル・ナイラブ空軍基地に向かった。11月28日の終わりまでに、アレッポ西部の田園地帯はすべてシリア反体制派の手に落ちた。
Fロシアによって訓練され装備されたスヘイル・アル・ハッサン少将のエリート特殊任務部隊は、アレッポの東郊外に到着し、アル・ナイラブに駐留を開始。サーレハ・アブドッラー少将率いる第25師団もシリア軍を援護するためアレッポ郊外に到着し、アル・ナイラブ空港に陣取った。しかし、ハッサンも元副官のアブドッラーもそこでの防衛を行わず、代わりに彼らはハマに撤退し、そこで抵抗した。2日間持ちこたえたが、結局、12月4日、反政府勢力はハマに入り、防衛軍は、市から撤退した。
G2016年にアレッポを制圧する際に重要な役割を果たしたIRGCの著名な司令官、ジャバド・ガーファリ准将がホムスに到着し、指揮権を握った後、シリア国内のすべての外国軍に最初に届いた指令は「いかなる犠牲を払ってでもホムスを守れ」だった。ガーファリ准将の指示でホムスの北郊に土塁が設置され、部隊が再配置された。彼はシリアとIRGCの指導部に、ヒズボラやイラクの民兵組織戦闘員を含む増援部隊をホムスに送り込むべきだと提案した。彼は、イランの航空機が最初に彼らを輸送できるように、(ロシア軍の基地のあった)フメイミムとタルトゥースのロシア軍の了解を得る必要があった。ヒズボラは、イスラエルとの停戦に合意したばかりで、ホムスに2,000人の戦闘員を送り込んで応じた。シリア軍司令官によると、そのほとんどはアル・リダー部隊の戦闘員で、クサイルとダマスカス郊外に駐留していた。残りはイマーム・アル・マフディの兵士旅団に属し、アレッポと近くのシーア派の町ヌーブルとアル・ザフラから撤退していた。
Hイラク軍は、この段階でアサド大統領を支援することは非常に高くつき、2003年以来イラクで獲得してきたものすべてを危険にさらす可能性があると感じたため、ガーファリ准将の要請を全会一致で拒否した。イラクの介入はバグダッド政府の判断に委ねられた。アサド大統領がイラクの介入を公式に要請したが、拒否された。ロシアも、イランの航空機による戦闘員、武器、装備のシリアへの輸送を認めてほしいというイランの要請を「これらの航空機の安全を保証できない」という理由で3回拒否した。
Iホムスでの戦闘は激しく決定的なものになると誰もが予想していた。反政府勢力がタルビセとラスタンの町に到着すると、ガーファリ准将は、考えられるすべての隙間に対処し、シリア正規軍と「肩を並べて」展開した部隊が彼を失望させないと確信していた。その時、後方のシリア兵士が突然、目の前のヒズボラ戦闘員に発砲し始め、8人が死亡、数十人が負傷した。その瞬間、イラン人はシリア軍が自分たちに背を向け、シリア国民の支持を完全に失ったことを悟った。それは重くて大胆な決断を必要とする重要な瞬間だった。誰が味方で誰が敵か分からなくなった勢力の中で戦うことはもはや不可能であり、救えるものを救うために、ガーファリ准将は、自分と関係のあるすべての部隊にホムスとシリア全土から直ちに撤退するよう命じた。
Jガーファリ准将と(アフガニスタンのシーア派民兵組織)ファテミユーン旅団のアフガニスタン人戦闘員はラタキア空港に撤退した。彼らは数日後ロシアがイランの航空機4機による撤退を許可するまでそこに留まった。その日フメイミム基地から撤退した部隊の中には、主に(イラクのシーア派民兵組織)カターイブ・ヒズボラと(同)ハラカット・ヒズボラ・アル・ヌジャバのイラク人戦闘員94人が含まれていた。
K(レバノンのシーア派民兵組織)ヒズボラはアル・クサイルに撤退し、シリアの地元勢力の戦闘員はダマスカス南部のサイイダ・ザイナブに撤退した。後にレバノン国境を越えてベイルートに逃げた者もいた。ダマスカスのイラク人のうち、一部はバグダッドに向かい、家族とともに何年もシリアに住んでいた者もレバノンに向かった。シリア東部の国境付近の町アブ・カマルとデリゾールに駐留していたカターイブ・ヒズボラとハラカット・ヒズボラ・アル・ヌジャバの戦闘員は国境を越えてイラク側に撤退した。ファテミユーン旅団の部隊も出発し、バグダッド経由でテヘランとアフガニスタンへ向かった。ファテミユーン旅団の40〜50人の戦闘員を乗せたバス17台がイラク国境にシリアから逃亡したた。
(コメント)イランのイスラム革命防衛隊(IRGC)は、イラン国営通信社タスニムが発表した短い声明で、プールハシェミ准将を悼み、准将は「アレッポでテロリストのタクフィリ(不信仰の過激派)傭兵が仕掛けた攻撃で、殺害された」と伝えたが、殺害者は反体制派戦闘員ではなく、アサド指揮下のシリア軍将校であった。その瞬間がシリア軍崩壊の本当の始まりで、「裏切りはシリア軍司令官たちの階級の奥深くまで及んだ」と状況をフォローする元シリア軍司令官が語ったとされる。MEEの報道によれば、イランはアサド政権軍を守ろうとしており、親イランのレバノン民兵組織ヒズボラも、イスラエルとの戦闘で大きな打撃を被っていたにもかかわらず2千人規模の隊員を動員してホムスに派遣したが、アレッポでの軍事作戦会議でのプールハシェミ准将のシリア軍司令官発砲による殺害、イランが長年手塩にかけて育ててきたはずの準軍事組織バーケル旅団の裏切り、最後の防衛線と考えてきたシリア第3の都市ホムスでのシリア人兵士によるヒズボラ隊員への後ろから攻撃で、シリア軍が分裂し、統制がきかず、裏切り行為や逃亡も多数発生して、シリア国軍が反体制派勢力に対して自ら戦う姿勢を示さない中、味方と思っていたシリア人が必ずしも味方ではなく、疑心暗鬼の中、イランやヒズボラ、ならびにイラクやアフガンからのシーア派民兵組織も撤退するしか選択肢がなかったことが示される。注目されるのは、親アサドとみられていた関係国がアサドと運命を共にする、あるいは巻き込まれることを避けたことである。イラク政府がアサド大統領からの支援要請を断ったこと、さらには、2015年9月にシリア内戦に介入してアサド政権の後ろ盾であったはずのロシア軍が、自ら反体制派への攻撃に加わらなかっただけでなく、イランからの軍事支援を可能にするロシア軍管理の基地へのイランの航空機搬入要請を3度拒否していたことも、アサド政府軍の早期崩壊につながったと考えられる。結局、アサド大統領の軍隊統率能力が極端に低下していたことが原因ではあるものの、内戦や制裁で疲弊していたアサド政府軍も、外国軍部隊に頼るしかない外部依存勢力になり果てていたこと、トランプ政権の誕生を目前に控えて、シリアへの再軍事的介入を控えた、あるいは控えざるを得なかったプーチン大統領の政治的立場の弱さが露呈したアサド政府軍の崩壊であったと総括できる。
https://www.middleeasteye.net/news/how-syrian-mutinies-and-betrayal-sunk-irans-support-assad
@2024年11月27日、HTS部隊率いる反政府軍のアレッポ攻撃が本格化
A2024年11月28日午前6時、危機感を感じたシリア共和国防衛隊サフトリ少将の呼びかけで、アレッポ中心部のアル・フルカン地区にある将校クラブの北部軍事作戦室で緊急会議招集。シリアにおけるイランの最高軍事顧問であるIRGCコッズ部隊のキオマルス・プールハシェミ准将、レバノンのヒズボラの指揮官2人、およびさまざまな治安部隊の将校らが集合。
B今後の作戦や対応などを巡って、会議は紛糾。アサド政府軍将校の一人が、警備員の一人からAKM攻撃用ライフルを奪い、プールハシェミ准将に銃弾を浴びせて殺害。ヒズボラ司令官のひとりも負傷。
Cこの後、数十人の将校と兵士が従わず戦闘を拒否するようになり、アレッポ市の西側の防衛がさらに崩壊した。イランが長年支援してきたシリアの準軍事組織「アルバーキル旅団」の裏切り攻撃も発生し、数十人が命を落とし、負傷した。
Dイランとレバノンの顧問と一部のシリア将校が「裏切り者の(シリアの)将校」によって「粛清」された。
Eイランの野戦軍司令部は、関連部隊に対し、追って通知があるまで前線から撤退するよう緊急命令を出した。一部の部隊はアレッポの南45キロにあるアブ・アル・ドゥフル空軍基地に撤退し、残りは東のアル・ナイラブ空軍基地に向かった。11月28日の終わりまでに、アレッポ西部の田園地帯はすべてシリア反体制派の手に落ちた。
Fロシアによって訓練され装備されたスヘイル・アル・ハッサン少将のエリート特殊任務部隊は、アレッポの東郊外に到着し、アル・ナイラブに駐留を開始。サーレハ・アブドッラー少将率いる第25師団もシリア軍を援護するためアレッポ郊外に到着し、アル・ナイラブ空港に陣取った。しかし、ハッサンも元副官のアブドッラーもそこでの防衛を行わず、代わりに彼らはハマに撤退し、そこで抵抗した。2日間持ちこたえたが、結局、12月4日、反政府勢力はハマに入り、防衛軍は、市から撤退した。
G2016年にアレッポを制圧する際に重要な役割を果たしたIRGCの著名な司令官、ジャバド・ガーファリ准将がホムスに到着し、指揮権を握った後、シリア国内のすべての外国軍に最初に届いた指令は「いかなる犠牲を払ってでもホムスを守れ」だった。ガーファリ准将の指示でホムスの北郊に土塁が設置され、部隊が再配置された。彼はシリアとIRGCの指導部に、ヒズボラやイラクの民兵組織戦闘員を含む増援部隊をホムスに送り込むべきだと提案した。彼は、イランの航空機が最初に彼らを輸送できるように、(ロシア軍の基地のあった)フメイミムとタルトゥースのロシア軍の了解を得る必要があった。ヒズボラは、イスラエルとの停戦に合意したばかりで、ホムスに2,000人の戦闘員を送り込んで応じた。シリア軍司令官によると、そのほとんどはアル・リダー部隊の戦闘員で、クサイルとダマスカス郊外に駐留していた。残りはイマーム・アル・マフディの兵士旅団に属し、アレッポと近くのシーア派の町ヌーブルとアル・ザフラから撤退していた。
Hイラク軍は、この段階でアサド大統領を支援することは非常に高くつき、2003年以来イラクで獲得してきたものすべてを危険にさらす可能性があると感じたため、ガーファリ准将の要請を全会一致で拒否した。イラクの介入はバグダッド政府の判断に委ねられた。アサド大統領がイラクの介入を公式に要請したが、拒否された。ロシアも、イランの航空機による戦闘員、武器、装備のシリアへの輸送を認めてほしいというイランの要請を「これらの航空機の安全を保証できない」という理由で3回拒否した。
Iホムスでの戦闘は激しく決定的なものになると誰もが予想していた。反政府勢力がタルビセとラスタンの町に到着すると、ガーファリ准将は、考えられるすべての隙間に対処し、シリア正規軍と「肩を並べて」展開した部隊が彼を失望させないと確信していた。その時、後方のシリア兵士が突然、目の前のヒズボラ戦闘員に発砲し始め、8人が死亡、数十人が負傷した。その瞬間、イラン人はシリア軍が自分たちに背を向け、シリア国民の支持を完全に失ったことを悟った。それは重くて大胆な決断を必要とする重要な瞬間だった。誰が味方で誰が敵か分からなくなった勢力の中で戦うことはもはや不可能であり、救えるものを救うために、ガーファリ准将は、自分と関係のあるすべての部隊にホムスとシリア全土から直ちに撤退するよう命じた。
Jガーファリ准将と(アフガニスタンのシーア派民兵組織)ファテミユーン旅団のアフガニスタン人戦闘員はラタキア空港に撤退した。彼らは数日後ロシアがイランの航空機4機による撤退を許可するまでそこに留まった。その日フメイミム基地から撤退した部隊の中には、主に(イラクのシーア派民兵組織)カターイブ・ヒズボラと(同)ハラカット・ヒズボラ・アル・ヌジャバのイラク人戦闘員94人が含まれていた。
K(レバノンのシーア派民兵組織)ヒズボラはアル・クサイルに撤退し、シリアの地元勢力の戦闘員はダマスカス南部のサイイダ・ザイナブに撤退した。後にレバノン国境を越えてベイルートに逃げた者もいた。ダマスカスのイラク人のうち、一部はバグダッドに向かい、家族とともに何年もシリアに住んでいた者もレバノンに向かった。シリア東部の国境付近の町アブ・カマルとデリゾールに駐留していたカターイブ・ヒズボラとハラカット・ヒズボラ・アル・ヌジャバの戦闘員は国境を越えてイラク側に撤退した。ファテミユーン旅団の部隊も出発し、バグダッド経由でテヘランとアフガニスタンへ向かった。ファテミユーン旅団の40〜50人の戦闘員を乗せたバス17台がイラク国境にシリアから逃亡したた。
(コメント)イランのイスラム革命防衛隊(IRGC)は、イラン国営通信社タスニムが発表した短い声明で、プールハシェミ准将を悼み、准将は「アレッポでテロリストのタクフィリ(不信仰の過激派)傭兵が仕掛けた攻撃で、殺害された」と伝えたが、殺害者は反体制派戦闘員ではなく、アサド指揮下のシリア軍将校であった。その瞬間がシリア軍崩壊の本当の始まりで、「裏切りはシリア軍司令官たちの階級の奥深くまで及んだ」と状況をフォローする元シリア軍司令官が語ったとされる。MEEの報道によれば、イランはアサド政権軍を守ろうとしており、親イランのレバノン民兵組織ヒズボラも、イスラエルとの戦闘で大きな打撃を被っていたにもかかわらず2千人規模の隊員を動員してホムスに派遣したが、アレッポでの軍事作戦会議でのプールハシェミ准将のシリア軍司令官発砲による殺害、イランが長年手塩にかけて育ててきたはずの準軍事組織バーケル旅団の裏切り、最後の防衛線と考えてきたシリア第3の都市ホムスでのシリア人兵士によるヒズボラ隊員への後ろから攻撃で、シリア軍が分裂し、統制がきかず、裏切り行為や逃亡も多数発生して、シリア国軍が反体制派勢力に対して自ら戦う姿勢を示さない中、味方と思っていたシリア人が必ずしも味方ではなく、疑心暗鬼の中、イランやヒズボラ、ならびにイラクやアフガンからのシーア派民兵組織も撤退するしか選択肢がなかったことが示される。注目されるのは、親アサドとみられていた関係国がアサドと運命を共にする、あるいは巻き込まれることを避けたことである。イラク政府がアサド大統領からの支援要請を断ったこと、さらには、2015年9月にシリア内戦に介入してアサド政権の後ろ盾であったはずのロシア軍が、自ら反体制派への攻撃に加わらなかっただけでなく、イランからの軍事支援を可能にするロシア軍管理の基地へのイランの航空機搬入要請を3度拒否していたことも、アサド政府軍の早期崩壊につながったと考えられる。結局、アサド大統領の軍隊統率能力が極端に低下していたことが原因ではあるものの、内戦や制裁で疲弊していたアサド政府軍も、外国軍部隊に頼るしかない外部依存勢力になり果てていたこと、トランプ政権の誕生を目前に控えて、シリアへの再軍事的介入を控えた、あるいは控えざるを得なかったプーチン大統領の政治的立場の弱さが露呈したアサド政府軍の崩壊であったと総括できる。
https://www.middleeasteye.net/news/how-syrian-mutinies-and-betrayal-sunk-irans-support-assad
Posted by 八木 at 15:30 | 情報共有 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)