奥久慈 矢祭町について
6月に縁があって、福島県矢祭町に鎌倉から出かけた。
東海道を北上し、水戸街道に入り土浦で1泊した。土浦駅の真ん前が市役所になっている。
昔、デパートがはいっていたのだが、郊外にスーパーができて、撤退してしまった。長いこと空き家のままだったが、市役所が移転してきたものである。
その近くにホテルがあり、そこに投宿した。
翌日、水戸街道をさらに北上し水戸市に入りそこから188号線により内陸にはいって大子町の温泉に入った。矢祭町はさらにその先にある。
久慈川添いに沿って山の中に入っていくと矢祭町にたどり着く。かなり遠いという印象であった。矢祭町に高野という集落がありそこが目的地であった。
小田川という川が久慈川に注いでいてその周辺が豊かな水田が広がっていた。おそらく鎌倉時代から変わらぬ姿であろう。
高野という地名に関心があったのは、鎌倉時代の初期、藤原北家の系統の宇都宮宗綱の次男が八田知家といい、頼朝の御家人として鎌倉で活躍していた。
その長男の系統が4代後から小田氏を名乗り戦国大名として茨城県南部を地盤としていた。
その八田知家の8男時家が高野の地名をとり高野を名乗り、高野時家と称した。
常陸の国八郷に柿岡城を築城している。現在は、その城跡は柿岡小学校となっている。
そして、その高野時家が、矢祭町のあたりをいう高野郡を知行地として与えられていた。
高野郡というのは、白川郡の南半分を高野郡として独立させたもので、高野、依上などを含む地域であった。現在は矢祭町は福島県東白川郡、依上郡太子町は茨城県となっている。
水田としては、久慈川沿いのみで大した領地ではないが、八溝山周辺の金山があり、ここから鎌倉以前から金を産出していた重要な地域であった。
八溝黄金神社他、金沢とか胴坂など八溝川沿いから金を産出していたのである。
高野時家は御家人として鎌倉幕府でも重要な役職についていたようで、その子孫は六波羅探題での役人として活躍して、室町時代は将軍家の官僚として仕えて発展していたといわれる。
また、つくば市では高野姓が最も多く地元でも多くの子孫が残っている。
矢祭町史によれば,和泉守時知跡を白川結城氏に知行権を与えるとあるので、高野時家からそのあと高野(和泉守)時知まで高野4代目に当たる時代まで領有していたと推定される。
矢祭町史 中巻p133
“延元元年の高野郡知行権というのは、実質的には地頭権であって、翌延元2年のものは郡内の所領(和泉守時知跡)をえたことを意味する。”
歴史をたどり、自らのルーツを探訪するのもまたいいのではないだろうか。