明治時代の日本人の親子ずれの情景
ナショナリズムを経済で乗り越える
渡辺京二氏は1930(昭和5)年、京都府に生まれる。中国・北京や大連で小学時代を過ごし、戦後、熊本に戻ると旧制中学から五高へ進学した。
大連時代に左翼思想に目覚め、18歳で共産党に入党するが、1956年左翼思想と決別する。1969年から熊本の公害病である水俣病に関して、15年ほど闘争運動に参加。
作家・石牟礼道子の編集者でもあり、当時から現在まで同志の関係は続く。46歳で『評伝 宮崎滔天』を発表。
予備校で現代文の講師として教壇に立ちながら、日本の近世・近代の研究に在野で取り組み、独自の視点から日本近代史、近代思想史家論を描いてきた。
1945年の敗戦後、マッカーサーらGHQ(連合国最高司令官総司令部)の民主主義教育が行き届いたこともあり、日本は戦争に対して痛烈に反省に転じた。
復興の過程では経済成長が国家の最優先課題となり、経済性が社会の価値観の中心となりました。
池田勇人首相がフランスに行った際、シャルル・ド・ゴール大統領に「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されたほどです。
つまり、日本は経済的な成長さえできればいいと割り切った。その結果、どうなったか。
付記
異論もあると思うが、自分自身で自問自答してみるのもよいと思う。
アメリカは日本を骨抜きにして2度と武力を持たせないというのが初期のマッカーサーの方針であった。アメリカ自身の方針であった。
朝鮮戦争で占領していたアメリカ軍が朝鮮半島に動員され、日本が軍事的にがら空きになり、治安と防衛が手薄になったところでその穴埋めのため、GHQの命令で日本人による警察予備隊を編成した。
現在の自衛隊の前身である。
アメリカ軍は現在でも日本が軍事的に強国になるのを恐れており、その対策として在日米軍と自衛隊の一体化を図っている。横田基地などでの統合ははその例となろう。
朝鮮半島で、南北の首脳会談で朝鮮戦争終結宣言が出されるのであろうから、これからの軍事情勢はかなり流動的になると思われる。