国民国家とナショナリズム
もう少し明治維新を顧みてみましょう。
江戸末期の1853年、アメリカからやってきたペリー艦隊は日本に強硬に開国を迫ります。その近代的な軍備に驚愕し、江戸幕府は開国するわけですが、それがきっかけで日本は幕藩体制という統治機構から天皇制による近代国家へと変わっていく。
日本が西洋文明に対抗するには、西洋と同様に近代的な国民国家(ネーションステート)システムを創設しなくてはなりませんでした。
しかし、維新をリードした武士たちにとって、維新はこれまで仕えてきた将軍や藩主に刃向かうことでもあった。
そこで武家社会を超越する忠誠の対象として、天皇を担ぐ必要があったのです。そこで謳われたのが尊皇攘夷です。
また、アメリカやイギリスの近代的な軍事力に対等に向き合うには、軍事力を支えるだけの経済力も持たなくてはならなかった。それが富国強兵でした。

ペリーによる黒船来航。1854 年の 2 度目の来航。東京湾。(写真:アフロ)
この時から「国家」と「個人」の関係が生まれた。江戸時代の「士農工商」という身分制度が、明治維新で「四民平等」になった。その代わり、「民」は有事の際には国のために尽くすよう、教育されました。
それまで、農民の暮らしは藩政と距離がありました。
たとえば、維新の混乱期、板垣退助が会津を攻めた際、会津藩が悲壮な戦いをしているさなか、近くの農民たちは知らん顔をしていたという有名な話があります。それほど、政治と庶民には距離があったということでしょう。
それが近代国家になると、国民ひとりひとりが権利を持つと同時に、国家との関係で言えば、教育勅語に『一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ』とあるように、「戦になれば死にます」と教え込まされる国民教育が行われたわけです。

渡辺京司氏 日本はナショナリズムから卒業した。
2018年 1月31日