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読書のすすめーー眞説 鉄砲伝来 宇田川武久 [2017年03月04日(Sat)]
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読書のすすめーー眞説 鉄砲伝来 宇田川武久

読書のすすめ
鉄砲は天文12年{1543}種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられた というのが通説であるが、その船に五蜂(倭寇の王直)が乗り合わせていた といい、その五蜂と筆談したということが明らかになっている。

その五蜂は実は以前から日本に現れており、1540年には長崎の五島列島に 屋敷をもっていたという説もある。

倭寇とは日本人や、中国人や朝鮮人が混合した海賊集団であり、 時には密貿易の主体でもあったわけだ。後にその五峰{王直}が松浦党の 平戸島に移り住み、足掛け17年間もこの地を本拠地にしていたもので、 ポルトガル船を平戸に来航させたのも彼であるという。

 倭寇は、東南アジアにも足を延ばしていたこともあり、またポルトガル人 とも接触があったわけであるから,倭寇の五峰は以前から鉄砲の存在は 知っており、1543年以前に鉄砲を日本に持ち込んでいただろうという 見解は納得できる。小生もその見方に賛同する。

また、平時は密貿易をおこない、時には暴力的な海賊にもなるというのが 倭寇の実像であろうから、五峰は五島列島を拠点に、日本各地に寄港して 密貿易をしていたのではないかと思う。

特に鉄砲の火薬となる硝煙が日本にはないのでその貿易で巨万の富を 築いたというこということは既に知られている。

日本も戦国時代で各地に戦国大名が跋扈していた時でもあり、 鉄砲の売り込みにも一役になっていたのではないかと思う。 硝煙の取引とともに鉄砲が広がった可能性がある。

最初の頃は、鳥撃ち用の贈答品であったようだが瞬く間に全国に広がり、 軍事用に転用されたことに注目しなければならない。日本より早く鉄砲が 伝わった東南アジアで、鉄砲の量産できたところはない。 やはり技術の日本だ。

朝鮮王朝は秀吉の攻撃に対し鉄砲がなく初期には、簡単にソウル、 平城まで攻められたが、後に降倭という捕虜になったものの協力を得て、 鉄砲の生産を始めたという経緯がある。

秀吉軍は第二次出兵はしたものの、鉄砲で武装した朝鮮王朝軍は互角の 闘いが出来るようになり、秀吉軍は苦戦を余儀なくされている。 すでに闘いの主力は鉄砲になっていたということである。

秀吉の死後、秀吉軍は撤退したが、その後、朝鮮王朝は今度は女真族に 北方から攻撃された が、それに対し降倭の子孫と彼らが制作した鉄砲が、女真軍を撃退するのに 力を発揮したという。

また南下するロシアに対し、清軍に協力して朝鮮王朝軍の降倭の鉄砲隊が活躍した という史実も有るというようなことがこの本に述べられている。
韓国の方も是非この本を読んでほしいと願うところである。

鉄砲は、それまで弓と槍と刀の武器しかなかった日本に画期的な 武器をもたらしたもので、その武器を製作出来たことにより、 日本は東南アジアのような 西欧の植民地にならずにすみ、独立を維持出来たわけである。

当時の日本が世界一の 鉄砲保有国になったともいわれており、ポルトガルもオランダも 日本を植民地にするのをあきらめたと言える。 鉄砲の伝来の意味をよく考える時であり、また、日本が、 鉄砲を大量に生産できたという ことは特筆すべきと思う。

その生産を実行した鉄砲鍛冶の技術力にも 注目する必要があると思う。当時の時代では最先端の技術集団であったのであろう。

<データ>眞説 鉄砲伝来 宇田川武久 2006年10月10日 初版第一版
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Posted by ゆう東洋医学研究所 at 19:26 | 読書のすすめ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
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