堪能するには訓練が必要 ハイデガーの退屈にまつわる論考。 [2016年12月01日(Thu)]
堪能するには訓練が必要 ハイデガーの退屈にまつわる論考。
20世紀を代表する哲学者のハイデガーは「退屈」 にまつわる論考の中で「パーティーに際しての退屈な体験」 について書いている。おいしい食事が供され、心地よい音楽を聴き、 葉巻を吸い、会話もそれなりに楽しんだ。ところが帰宅後のふとした 瞬間に気がつくのだ。 「私は今晩、この招待に際し、本当は退屈していたのだ、と」。 これは一体どういうことか。 哲学者の國分功一郎氏の分析はこうである。「あの場でハイデッガーが退屈した のは、彼が食事や音楽や葉巻といった物を受け取ることができなかったから、 物を楽しむことができなかったからに他ならない。 そしてなぜ楽しめなかったのかと言えば、答えは簡単であって、 大変残念なことに、ハイデッガーがそれらを楽しむための訓練を受けていなかった からである」(國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』) 訓練を経て初めて楽しめるようになるのは古典文学を原典で読むとか 能楽を演じるといった高尚な趣味やスポーツばかりではない。 「食のような身体に根ざした楽しみも同じく訓練を必要とするのである」(同) 誰でもハイデガーと同じような経験をもっているのではないだろうか。 人の集まりでも自分と共通の方向性を持った者との会話と、 思考方法の異なるものとの対話では, 話がかみ合わず、会話が楽しいとは 感じられないときもある。 どんな人とも会話を楽しめるようにするにはそれなりにかなりの訓練が必要であろう。 政治家などはその訓練が出来ているということもいえるかもしれない。 音楽も同じで楽譜とか楽器を含めてそのものを理解しておくこと、 そして繰り返しその音楽を聞いていることが必要である。 それがないと、音楽もただの騒音としてしか耳にはいらない。 若い人たちの今の歌なども、年寄りが聴くと理解できないとか、 楽しむということができない。一方、昔の演歌などは、若者にとっては スローテンポで面白くないという現象が起きる。 音楽も聴く訓練をして聴くことが楽しみとなり、それを堪能することであろう。 食についても、食わず嫌いという言葉があるが、食べたことのない食材は 普通はおいしいとは感じない。やはり、これもいろいろ食べるという 訓練が必要であろう。 日本料理で家庭料理などでも、各家庭によりかなり味が違う。 微妙な味の違いがわかり、おいしいと思うまでにはかなりの 時間がかかることもいなめない。 東北の”ホヤ”などはおいしいと思う人と思わない人が半々ぐらいかと思う。 やはり好みということは避けられないだろう。偉大な哲学者でも楽しむための 訓練を受けていなければ堪能することが出来ないのだから、 我々、凡人も楽しむための訓練を、自分から意識して課し、努力していくこと が必要であり、 堪能できるようにしていきたいものである。人生が楽しくなると思う。 <データ> 日本経済新聞 『暇と退屈の倫理学』 (國分功一郎著) |