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鉄砲鍛冶師研究 9 江戸時代の科学技術ー2 天体望遠鏡の製作 太陽の黒点観測 [2016年10月21日(Fri)]
江戸時代の科学技術ー2



江戸時代の科学技術の発展の一つのきっかけになったのは、 鉄砲の伝来による技術の進歩である。この鉄砲製作は近江国  國友と和泉 堺がよく知られている。その技術集団の技術者から 新たな発明・発見があった。鉄砲鍛冶師は、 当時の時代の最先端をいくハイテク技術集団であったわけだが、 その技術者たちが江戸時代における科学技術の一端を担っていたのである。
1人の江戸時代の科学技術者を例にとりその業績を振り返ってみる。

國友一貫斎 (1778-1840)
日本で初めて天体観測をした科学者として知られているが、 その生い立ちから観てみよう。
國友一貫斎は安永7年(1778)に近江国 國友  (現在 滋賀県長浜市國友町)の國友鉄砲鍛冶の年寄脇の家、籐兵衛家に生まれる。 9歳で家督を継ぎ國友籐兵衛と名乗り、号を一貫斎とした。 鉄砲鍛冶としても優れた鉄砲を製作しており、10匁玉筒(鉄砲) や大型の100匁玉筒(大砲) などを製作し、それらの鉄砲は現存している。

天体望遠鏡の製作
江戸に6年間滞在した時にイギリス製のグレゴリー式反射望遠鏡をみてから、 10年後に55歳から天体望遠鏡の製作に取り掛かり完成させた。参考資料もない なかで、特に苦労したのは、反射鏡の作成で、金属による鏡の製作を銅と錫の 合金で創りあげた。合金の比重、割合の調整に苦労したとのこと。
日本では、江戸時代にすでに反射式天体望遠鏡を作製していたのである。
この反射式天体望遠鏡は数台、現存している。

天体観測と緻密な記録・太陽の黒点観測
天体観測を開始したのは、天保4年(1833)で10月11日から11月7日までの 月と木星を 観測した記録が残されている。また月面の観測図も残されており 月面のクレーター などが正確で現在の調査と比較しても大差がないそうだ。
太陽の黒点の観測は天保6年(1835)から初めて総回数216回およぶ連続観測 をしている。 この観測記録、ドイツのシュワーベが1826年に始めた観測に次ぐものである。 9年後だからほぼ同時期の観測といえ、日本は江戸時代にすでに太陽の黒点を 観測していたのである。
この記録は現存し、しかも現在の観測結果と照合しても十分価値が認められる ものであるそうだ。

気砲(空気銃)の製作  空気圧の概念
文政元年(1818)、にオランダより将軍家に献上された空気銃(風砲) の修理を依頼され玩具のような銃を修復した。それがヒントとなり、 気砲という空気圧を活用した気砲を作製した。この気砲はかなり威力が あり実戦につかえたようである。
既に江戸時代に空気圧の概念を知り、それを実用化したことはすばらしい。 しかも空気圧に堪える精密な耐圧構造(容器)を創り上げていたことである。
空気圧というものを発見し、それを実用化したこと、空気による 空気抵抗や流体力などを、すでに江戸時代に知っていたことである。
世界でもこの時代に作成されたのは数少なく、現在では1挺、1000万円以上 の価格(空気ポンプ付)がついているそうである。かなりの数が製造 されているので旧家の方は土蔵の中を調べてみたらどうだろうか。笑

玉燈(ぎょくとう) 灯油用灯火具
電気のない江戸時代において、明りは灯油や菜種油をもちいた燭台やちょうちん であったが、玉燈は油の量が豊富なため夜中に油を注ぎ足すことが不要で、 そのまま一晩でも使用可能にしたこと。周りをガラスで覆ったことで明るさが 増したことである。
水の上に油を浮かし、燈芯に火をつける方法をとる、経済的でもあったようだ。

懐中筆 毛筆ペン
現在でいう万年筆である。筆の軸の部分に綿がつめられていて、 スポイトを使用して墨汁をしみ込ませる。筆先の出し加減で墨の濃さが調節できる。
すでに日本では江戸時代に万年筆が発明されていた。

鋼製弩弓(どきゅう)
連発可能な弓を作製した。この弩弓は特殊な焼き入れをした鋼を使っており、 40-50メートルも飛び、強い弓と同じ威力があった。
日本は江戸時代に鋼製の弓を作製していた。

秘伝から規格の統一と大量生産へ
大小御鉄砲張立製作控 鉄砲製作工程表の公表 発想の転換
江戸時代になり、徳川氏は鉄砲の製作を公開することを禁止し、 鉄砲の製作は秘伝とした。 親子兄弟であってもその方法を見せたり語ったりすることを禁じた。
文政2年(1819)一貫斎は上記文書を著し、鉄砲生産の詳しい方法、工程のほか、 工具の種類まで書き残し、多くの職人に製作の技術を伝え、 規格の統一を図り大量生産ができるようにした。
これが近代化の重要なポイントで、工業化と大量生産への発想の転換である。 しかし一貫斎は、何故か、ねじの作成の部分を記述していないのである。
いわゆる”ブラックボックス”を設けていたということである。したたかーー。笑
この書は、元老中・松平定信の依頼により著されたが、実際の大量生産には 間に合わなかった。幕末には新式鉄砲が輸入され,”時すでに遅し”であった。

風船[かぜふね?]――飛行機の構想
現在の飛行機・飛行船に当たる風船を考案したようであるが、残念ながら、 実現されず、構想の設計図なども発見されていない。
しかし、”鳥のように大空を羽ばたくことを考えたのは、 空気抵抗と流体力を会得した者 のみが描ける夢だった。 國友一貫斎の"大鳥秘術"は、 まさに現代の飛行機だったのである。”
以上、江戸時代の科学技術より引用
江戸時代に、すでに、具体的に空を飛ぶ方法を考想し、実現への設計図 を描いたらしい、恐るべき頭脳の持ち主である日本人がいたとは、 日本という国はほんとにすばらしいと思う。

 基礎研究の徹底ー現在も日本に求められること
明治時代は、江戸時代の科学技術を土台にして、急速に近代化することができた。 江戸時代の技術の蓄積があったからこそ、近代化を可能にしたといえる。 もしそれがなかったならば、日本の近代化を大幅に遅れたであろう。
また、敗戦後の日本が、急速に工業技術にて発展できたのは、その一つは軍需産業 の研究と生産実績を土台にしてきたからであることは広く知られている。
一例をあげれば現在のニコンは昔、 日本工学といって海軍の双眼鏡などの製作をおこなっていた企業であり、 その時の技術が土台になっている。 現在では人工衛星にそのレンズが活用されている。

現在の日本は、科学技術において少し停滞しているような感がするが、 昔の先達の意思をくみ、基礎研究からしっかり取り組み、新しい技術を開発 してもらいたい。 日本には、必ず優れた科学技術者が誕生してくるので、科学技術を発展させ "ものつくり日本"として再び復活させることは十分可能であると信ずる。
日本は自信をもって、更に、科学技術の発展に力をいれよう。
政府は、基礎研究に十分すぎる資金を投入し、人材を育成せねばならない。
特に、世界に先駆け”水素” のエネルギー転換技術の研究、開発と実現に期待する。

<データ>
江戸時代の科学技術  長浜市長浜城 歴史博物館

<付記 1>
國友一貫斎の言葉
新規の細工(さいく)五度十度仕損(しそこない)しは常也(なり)。 此(この)仕損度々聊(いささか)たり共近寄也。
(新しい仕事は、5回や10回失敗することは常である。 失敗のうちに少しずつ成功に近ずいていくものである。)

<付記 2>
”義の人” 國友一貫斎
”天保7年(1836)全国的に天候不順で、米の作柄が大変悪くなりました。 そのため、米の値段は大変高くなり、全国的な大飢饉がおこりました。
世にいう、天保の大飢饉です。
國友村でも作柄が悪い上に、姉川が氾濫し、田畑が濁流にのまれ危機に 見舞われました。 もともと鍛冶職人が多く、農民の少ない村の食糧事情は他の村以上でした。 村の人々は餓死寸前までに追い込まれたのです。
この時、國友一貫斎は、片時も忘れることのなかった天体観測を断念し、 愛用していた天体望遠鏡を各地の大名に売り、國友村の人々を救いました。 一貫斎は”天、遂に人の努力を無にせず”と叫び、 苦労して創った望遠鏡が 人々の役に立ったことを神仏のおかげと感謝したと伝えられています。”

”科学者一貫斎と天体望遠鏡”より引用。

鉄砲師、科学者、発明家、天才であるだけでなく、人間を愛する、 自己犠牲も恐れない、 情愛の深い”義の人”でもあった。
Posted by ゆう東洋医学研究所 at 10:52 | 湘南鎌倉 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
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