鉄砲鍛冶師研究 7 和歌山県和歌山市の雑賀岬を散歩
雑賀衆について [2016年10月19日(Wed)]
和歌山県和歌山市の雑賀岬を散歩
雑賀衆について 和歌山市 雑賀の庄を散歩 和歌山の歴史をみる時、雑賀衆に触れなければならない。 戦国時代の鉄砲衆として名高いが、日本では珍しい 傭兵集団でもあったことである。室町時代末期から、 傭兵集団として大名から声が掛けられ、戦っている。 特に、種子島に鉄砲が伝来してから、近くの堺の鉄砲鍛冶 から大量の鉄砲を調達し、あるいは、多分、自家製も造り武装して、 その存在感が高まった集団である。 鈴木孫市(雑賀孫市)に率いられ、とにかく強かった。 浄土真宗の本願寺を支援した 事でも知られている。 天下統一を目指す織田信長や豊臣秀吉とも闘い、 紀州に猛攻撃をかけた天正5年{1577年}信長による雑賀攻め、 天正13年{1585年}秀吉による紀伊攻勢が行われた。 信長も秀吉も、鉄砲で武装した雑賀衆には苦戦したが、 強かった雑賀衆も秀吉の軍門に下った。 和歌山市南に雑賀城跡があり、その先の雑賀崎には 雑賀岬砦跡がある。 砦のあたりは、今は灯台になっているのではないだろうか。 また、幕末には黒船の見張り番所となり、現在では元番所お台場 の後が、番所庭園となっている。海に突き出した小さな半島が 美しい庭園となっている。双子島という島が沖合に見える 風光明媚なところである。 そこの旅館で雑賀のことを伺ったら、“以前、雑賀衆から 朝鮮に帰化した子孫の方が、雑賀に来られた。 ”さやか“と朝鮮では名乗っていた”という話をされた。 “雑賀衆も秀吉の朝鮮出兵に従軍し、そのうちの一部のものが 無謀な戦いに嫌気さし、朝鮮側についた”とのことであった。 “その子孫の方々が訪ねてこられました”という話をされた。 秀吉の朝鮮出兵には、その総大将の1人であった小西行長が、 極秘に朝鮮・中国側と和平交渉を進めていたという。 攻撃軍の総帥が最前線で秀吉の命とは逆の和平交渉を していたとは。日本人として珍しい、小西行長はもっと 研究しなければならない人物ではある。 それまで、鉄砲を持つ秀吉軍は、鉄砲を持たない朝鮮軍を 一気に蹴散らして、平壌まで占領したが、中国軍の介入と、 “さやか”により鉄砲の製法と、運用技術を学んだ 朝鮮軍に押し返され始め、第二次出兵の時は、 拠点を守るのが精いっぱいという状況になった。 それは“さやか”から鉄砲を学んだ朝鮮軍が鉄砲を製作し、 装備したからである。中国軍の支援もあるが。 秀吉軍の軍事的優位性は失われ、 対等の軍事力となったからである。 この鉄砲がなかったら朝鮮軍は多分、秀吉軍に対抗できなかった であろう。“さやか”は朝鮮国王より手厚く遇され、 その子孫も朝鮮において高官として優遇されたと聞いている。 雑賀衆もさることながら、“さやか”の事は歴史的事実として 認識しておくべきであろう。 <データ> 読書のすすめ 鉄砲無頼伝 津本 陽 鉄砲伝来の日本史 宇田川武久 鉄の首枷 小西行長伝 遠藤周作 注、雑賀衆とさやかについては、その関連を否定する説もある。 |