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鉄砲鍛冶師研究 6 政治の決定が歴史を止めることがある。 徳川幕府は大船の建造と鉄砲の製造秘伝化  [2016年10月18日(Tue)]
政治の決定が歴史を止めることがある。
船の発達
以前から関心があったのであるが、”室町後期から織豊時代に かけて日本人が、フイリピンやベトナム、カンボジアの方面に 進出した時代がある。太平洋を突っ切る大型の構造船を持っていたのに、 何故、500石積みからー1000石積みのおわん形の安定性の悪い、 マストは1本、一枚帆の船だけになってしまったのか。” という疑問である。

その理由は、関ヶ原で勝利を収めた徳川家康が、慶長14年(1609)、 大名に対し500石以上の船を持つことを禁止し,特に、西国大名がもつ 500石以上の大船を集め沈めてしまったのである。
その結果、日本から航洋用の構造船がすがたを消してしまう。
幕府は"西国の大名に大船を持たせれば,海上から江戸を攻撃される ことになる"という恐怖があったからである。大船であれば、 3日位で鹿児島から江戸についてしまうが、500石積みならば 沿岸から離れて航海出来ず、港に寄らなければならなかったからだという。

日本人は海洋民族かという観点から見れば、室町時代である14世紀から 徳川初期に鎖国までの間は海洋の時代であった。
明(みん)に対する官貿易、私貿易が盛んになるとジャンク構造を もった航洋船が創られ、官貿易の船の中には1600石積みの大型船も あったという。そして西洋風の竜骨構造の構造船もわずかであったが 建造されていたのである。

この船の建造は、徳川家康によって止められ、日本の船舶は西洋に比べ 大きく立ち遅れることになった。
政治が、技術発展の歴史を止めるという大失敗の一つである。

以下引用 司馬遼太郎 司馬遼太郎が考えたこと より
"17世紀初めでせっかく成長しつつあった構造船の歴史はこの禁令で 一挙に消えてしまうのである。政治が、物事(この場合は船拍)を 近世から古代へ後退させるということをした恐るべき例として 記憶されていい。"


鉄砲の発達
同じような事例が鉄砲についても行われた。
1600年の関ヶ原のころは、日本は世界一といわれるくらいの鉄砲を 多く持つ国となっていたが、大阪の陣の後、鉄砲は幕府の許可を得た ところだけとなった。國友村は幕府お抱えとなり天領とされた。
技術としては、徳川初期には機関銃の原型と なるような連発銃や大砲なども生産されたが、幕府はそれらを秘匿し、 特に西国大名に知られるのを恐れ、優秀な鉄砲鍛冶を江戸にとどめ、 幕府お抱え鉄砲師とした。

鉄砲の製造は鉄砲師の秘伝としてその技術が他に散逸させぬようにした。 そして、"武士の魂は刀にあり"として武士の武器を鉄砲から刀に後退させて しまった。幕府は武士の鉄砲離れを起こさせるために、林羅山などを使い 思想的に武士たちを刀に戻すよう洗脳した。そしてそれは成功したのである。
鉄砲も火縄銃のままとして製造方法を秘伝として継承させ、そのため 鉄砲の発展を停滞させてしまい、 西欧に遅れをとった。
これも鉄砲から刀へ武器を後退させた政治の大失敗である。


以下引用 ジャレド・ダイヤモンド 銃・病原菌・鉄 より

他の社会と結び付いていない社会では、例えば、江戸時代の日本のように、 重要な技術が破棄されてしまう現象が実際に起こり、その状態が継続する ことがある。
 江戸時代の日本で、銃火器の技術が社会的に放棄されたことは よく知られている。日本人は、1543年に、中国の貨物船に乗っていた2人 のポルトガル人冒険家から火縄銃(原始的な銃)が伝えられて以来、 この新しい武器に感銘し、みずから銃の製造を始めている。 そして、技術を大幅に向上させ、1600年には、世界でもっとも 高性能な銃をどの国よりも多く持つまでになった。中略
また、銃は1600年以降に日本に伝来したほかのものと同様、 異国で発明されたということで、所持や使用が軽蔑されるようになった。
そして幕府が,銃の製造をいくつかの都市に限定するようになり、 製造に幕府からの許可を要求するようになり、さらに、幕府のためだけに 製造を許可するようになった。やがて幕府が銃の注文を減らす段になると 実用になる銃は日本からほとんど姿を消してしまったのである。中略
日本が新しい強力な軍事技術を拒否しつつ"けられたのは、人口が多く、 孤立した島国だったからである。
しかし、日本の平穏な鎖国も、 たくさんの大砲で武装したペリー艦隊の訪問によって1853年に終わりをつげ、 日本人は銃製造再開の必要性を悟ことになる。


飛び道具は武士道に反するという宣伝
”幕府は、林羅山(1583-1657)、その他学者を使って、大名の関心を鉄砲 から そらせるための思想宣伝を行っている。
林羅山は朱子学の大家として徳川家康の知遇を得た人で、秀忠、家光、家綱 と4代の将軍に仕え、学問や政治上の諮問に応えている。
飛び道具は武士道に反する卑怯なものだとか、鉄砲は卑しい足軽が 扱うもので、 武士が手にするものではないという思想は 林羅山によって創始された。
この思想攻勢はかなりの成功を収めたとみてよい。”

 以上、”火縄銃伝来の虚と実”より引用

鉄砲の製造の銓となる”ねじ”の普及、引き金の”ばね”の普及、火薬の爆発力の強化なども同時に停滞させてしまった。これらの技術が明治時代まで普及しなかった。旋盤の技術などの発見、発展を止めてしまったかもしれない。徳川政権維持のために社会の技術の発展を、鉄砲製造を秘伝としたことにより止めてしまったのである。


アメリカ ルーズベルトから仕掛けられた戦争を”回避する政治決定”ができなかった。
約70年前でも、少なくとも軍人には敗北がわかっていた戦争ー大東亜戦争ー 太平洋戦争ー第二次世界大戦ともいうーに 突入し、約310万人の日本人を死なせ、北方領土を含め多くの領土を失った 、軍人 東条英機による政治の決定があったことを忘れてはならない。
現代でも政治の決定には、注意深く監視の目を向け、日本人の未来への、 子孫への、布石となっているかどうかしっかり見ていく必要がある。

Posted by メディカルゆう  ゆう東洋医学研究所 at 09:59 | 湘南鎌倉 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
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