
国という字は國の略字となっているがその意味するところは何を現すものか考えてみるのも必要なことなのである。字がもつ意味を考えてみよう。
記
国という字の「囗」くに構えに「玉」になった理由が定かでないと。略字体にしたとしても、昭和17年の標準漢字に「國」の略字体に、「王」の字の入ったものが存在していたというから、「玉」にした理由が尚更わからない。
宝という字の宀は交差して覆う屋根をかたどり、家屋を意味する 宀と「囗」くに構えにの違いは屋根に対して囲みの状態。
宝という字の屋根に対し「国」の玉を囲むのは宝、玉を囲む状態。囚は 囲いの中の人、とらわれの身の状態。
「囗」を「くに構え」ではなく囲み、「とらわれ」と読めば「国」の示す「玉」は玉、宝が「とらわれ」た状態を意味する。
「囗」は無意識の内に「くに構え」と読み「護」「守」の意味を思い浮かべるが実は「とらわれ」「かこい」「にがさない」の状態をも意味し「国」の字が意味するのは「玉」「宝」を「にがさない」ための囲いに見え、列島丸ごとが、その状態になってることを示している。という事になる。
同じような類いでは、発散(米)する「氣」を封印、〆(シメ)たのが「気」というのがあるが、これを合わせて考えると「氣」を封印、〆られて奴隷化され宝を吸い上げられ、収奪されてる今の日本の状態を表し、「気」と「国」の2文字で、恐るべき収奪装置が完成していたのだ。
この「囗」を「くに構え」とし「とらわれ」「かこい」「にがさない」を意味させなかった策意を感じさせる。
民という字の成り立ちも、目を針で刺された状態を象していると言うから、「くに構え」というのが目眩ましだったというのにも気づかなかった。
そしてこの収奪装置こそ、奴らの命を繋ぐ装置に他ならなかったことにも気づかなかった。
國家の國という文字は戈(ほこ)で土地と民を守るもの、これが國だったが「国」という字は、新字体採用時点で「國」「くに」を意味するものではなかった ということは、その後の状態が如実に示しているではないか。
そしてこの線に沿って、今までシステム、ロジックが作られてきたと考えれば、今の状態になっている理解が深まるではないか。
1949年4月28日内閣告示第1号で略字体を正式な字体 (新字体)として採用GHQが政府に指示した「焚書」などの行為と、更にはこれを利用した行為は歴史と文化の破壊行為で、生きる源泉、食料と生きる喜びを奪うに等しい。
恐るべしGHQ。しかし時の強者、勝者、権力者は「焚書坑儒」のように同じことをやっている。 下記より引用
ちゃがら 2017/11/30 (Thu) 20:45:05
【ご参考】
『漢字は日本語である』(小熊勝美著・新潮社刊・新潮新書253)より
***************************
「国」の旧字は「國」であるが、古くから「口」の中に「王」や「玉」を書く略字があり、どちらかというと「王」を書くほうが主流だったらしい。
中国では「太平天国の乱」で有名な太平天国で作っていた硬貨に、国名として「口」の中に「王」と書いた字が刻まれているし、日本でも、大正12年と昭和6年の常用漢字表、昭和17年の標準漢字表のいずれもが、「國」の略字として「王」の入った字を採用しているのだ。
..それなのに、戦後、昭和24(1945)年の当用漢字字体表で「玉」の入った「国」が採用されたのはちょっと不思議である。
敗戦国日本で「国」の中に「王様」の入った字を使うのはふさわしくない、といった考えでもあったのだろうか。
..中国も偶然、同様に「國」を簡略化したが、これは共産主義の国に「王」の入った「国」の字はふさわしくないということで、意図的に点をつけて「国」にしたそうである。
付記
小生の姓名は、”國友”であるが、過去より略字を使用したということはない。一貫して”國友”の旧字を使用している。謄本上”國友”になっているからであろう。
また、近江、長浜の國友村の出自であるが、國友村から出た鉄砲鍛冶は皆、國友を名乗ったようである。鉄砲鍛冶の代名詞のようなもので國友といえば鉄砲鍛冶を現したようだ。
近江の国の長浜になぜ鍛冶集団がいたのか、刀鍛冶から鉄砲鍛冶になぜ変わったのであろうかということは不明である。
伝承としては、種子島に鉄砲が伝わり、室町幕府の将軍に献上された鉄砲をみた将軍が、國友の刀鍛冶集団に試作を命じたものと言い伝えられている。(國友鉄砲記)
、
平安時代に國友荘、國友庄という名はでていたようである。
國友の地名は、全国どこにもなく、近江の国長浜だけである。
北近江の山中にはたたら製鉄の遺跡が散在しており、姉川の上流には鍛冶という地名も残っている。國友村には恐らく鉄製造の”たたら製鉄”の民がすみつき、國友を名乗ったのであろう。
