アメリカ同時多発テロ事件から今日で25年 [2026年09月11日(Fri)]
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■25年前の記憶
9.11から今日で25年。 当時大学3年生だった私は、アイスホッケーの合宿で長野県の民宿にきていた時、この事件が起きました。朝夕2回の練習があるのですが、その朝はもう少し寝ていられるはずだったのに後輩が騒がしく起こしてきて、何だと思って階下に行ったら衝突の瞬間の映像を繰り返し流すTVに釘付けになっていました。 現地では25年経過して風化が懸念されているようですが、忘れもしないあの日の記憶は今も私の瞼に鮮明に焼き付いています。2011年の3.11や、先日の8.13千葉豪雨も一生忘れ得ぬ記憶だと思います。 § あの日の教訓は何かと毎年、自問しています。 テロやハイジャックが許されない行為である事は論を待ちませんが、全能の錯覚をしているかのようなアメリカの「力」による支配に度々『これで本当に解決しているのだろうか?』という素朴な疑問が私は今も拭えません。後の対テロ戦争でも死者は増加し、今の世界に残ったものと言えば「テロの脅威」です。これは今や世界中に蔓延しており、一つの大きな要因となって各国で更なる軍事力強化のうねりが起きています。日本も然り。重要なのは一方通行のミサイルではなく、「対話」なのではないかと思います。 § 翻って、政治の世界でも外国人排斥の機運が高まっています。 私は留学経験から、グローバル化にたえうる日本(人)こそが目指すべき姿だという考えに至っています。文化や宗教が違えば行動様式に「差」が生じるのは当然ですが、その「差」をどう地域にソフトランディングさせるかが、日本の真の底力が問われる時だと思うのです。 世界に存在する「差」ー多様性とも呼ばれますーに人生の早いうちに触れる事が出来た自分にはある意味’耐性’がついていますが、強い同質性の中で長年生活してきた勤勉で良識ある日本人は、未知の外国人(の一部)の行いに対して、まるで異物が入ってきたように敏感に感じるのはある種自然なことだと理解できます。 ただ、往々にして「騒音がうるさい」・「ゴミの分別も守れないのか」等の’自分が守ってきたマナー’を相手が守っていない際に、日本人同士ならば『教えてあげよう』『一度ちゃんと説明せねば』という優しさが発動されるはずなのに、なぜか外国人に対しては(相手がたとえ単に無知の場合でも)その優しさが思うように発揮されず、逆に即応的に『出ていけ』・『取り締まれ』という反射的な感情を抱く人が増えてきた気がします。 一方、排外主義のカウンター(?)として、経営者らが言及するのをちょくちょく目にする機会も増えてきました。それは、事実として良し悪し抜きに、日本の労働や経済を支えるために既に外国人の力を借りているということです。コンビニ、飲食店、介護、等々…そしてこの傾向は一時的なものではなく長期的に続く予測なので、たとえちょっとこちらは‘面倒’と感じても、せめて一度や二度は「教えてあげよう」と相手と相互解決のソフトランディングを目指す心構えが必要だということです。実際は言語の壁以上に、やった事のない(話しかけるという)行為への精神的な障壁が、特に今の世代や単身世帯には大きいのではないでしょうか。 ポイントは、未知なるものに興味を持って話しかけるか、面倒だから自分の半径10mくらいを静謐のバリアで囲おうとするかです。これで、その後の相手の反応は大きく変わります。相手が○○人だから同じ○○人も同様の行為をするだろうと個人を見ずにマイナス判断するのは非常に危険です。 数年前に私と同じ建物にある外国人が入居した当初、ゴミの分別がめちゃくちゃでした。そこでゴミ袋を持ってインターホンを押して、拙い語力で「瓶とカン、ペットボトルは別だよ」と実演して分別を見せたところ、かなり改善されました。話せば分かる外国人はたくさんいます。むしろ驚くのは向こうだと思います。「見られているんだな」という牽制が働く効果もあります。 ゴミ分別に限らず、こういうちょっとしたトラブルは各地で起きている現象だと思います。 これを単に不快なものとしてさっさと排除しようとしてしまうと、その人からは思いやりではなく攻撃的な言動が表出されやすくなります。自分の周りからは一時的に排除されても、巡って誰かがそれを被ります。或いは自分がマイノリティーになった時や排他される側になった際、その人はそこで初めて別の手段が必要だと考えるのだと思います。 体格の大きな男が路上で大暴れしているような極端なケースは別ですが、できる限り「対話の可能性」をこちらから切る/選択肢として持たない、というのは大損だと思います。まぁ、日本人同士でも同じですが。 私などはまだまだ微力ですが、町会・自治会のご意見番と言われる人や、普段から親切お節介好きで顔を知られている地元の人など、昔から住んでいる地域の人たちの「現場対話力」が今こそ試されていると思います。要は、短期的な対策に留まらず、意思疎通を交えた長期的な解決を目指すべきです。 ■排外主義を乗り越える手段は「対話」 もう一つ。最近の政治に思う事があります。 政治では日本人が優遇される事を言った方が候補者は得です。外国人に投票権はありませんから、多少外国人に差別的で排外主義的な発言でも、外国人から咎められることはまずないでしょう。日本人からはそうだそうだと支持を得るかも知れません。米国トランプ大統領のアメリカファーストと同じ構造です。 逆に「外国人とも共生をめざそう」という(自分が外国に住んだら当然歓迎するような)当たり前のフレーズが言いにくくなっている気がします。 短期的に日本人(有権者)に有利な事を言った方が、たとえグローバル的には普及していない考えでも、日本人からはあまり批判されないどころか時に支持を得て、内弁慶でいられるからです。現に市議会でも外国人関連の「日本(人)を守れ」的なキツめの質問がかなり多くなっているようです。 § でも一歩距離を置いて俯瞰すると、そのような同質性の意見ばかりの場所に住むのは私は日本人として逆に怖い気がします。自分たちの感覚を外れたら即村八分。そこに前向きな対話や交流は生まれません。最初から「どうせ話しても分からないだろう」「面倒くさくていちいちやってられない」となれば、精神的鎖国も同じです。それで、日本人は世界に通用する考えを持てるのでしょうか。世界に尊ばれる国際人として通用するのでしょうか。 外国人が起こした特定の事件を引用して「これがまた起きたらどうする」・「その前に排除しろ」という類の理論は、関東大震災発生後のいわれなき朝鮮人等への虐殺と本質を同じにしてはいないでしょうか。学ぶべき教訓があるとしたら同じ過ちを犯さない事だと思います。 ちなみに、私は何でもかんでも外国人を擁護しようという気はありませんし、現に起きている犯罪は(国籍に関わらず)むしろ厳しく取り締まるべきと考えています。ただ、それを人種差別的に攻撃的に用いる現在の風潮は新たな衝突を生むのではないかという懸念に(歴史を振り返ると)強く想像が働くという事を主張したいのです。 今起きている目の前の犯罪解決はもちろん重要ですが、それを普遍的な人種によるものと捉えて主語を大きくしてしまうと人間同士の衝突が解消されず、本質を見誤ると思います。人自体を排除するのではなく、人の「行為」を改善して解決する方法を模索するべきが人間の目指すべき姿だと思います。そのための知恵を出せなければ、究極的に人間は死ぬまで対立してしまうと思います。 まあ、こんな事をいうと選挙で圧倒的に不利なので、私は永遠の「マイノリティー」かも知れません。ただ、今はいうなれば「文化の衝突」の初期段階。10年、20年後にはこの考えがもう少し浸透していると信じています。 誰だって、いつか、どこかで必ずマイノリティーになる時がくるのですからー。 |




