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衆議院解散総選挙に思ふ [2017年09月21日(Thu)]
■衆議院解散へ
衆院の解散に伴う来月の総選挙へ向けて、にわかに周囲が喧しい。選挙がない普段の政治にもそれくらい心血を注げばいいのにと傍で見ながら思う。
与党は温めてきた改憲案をここにきて見送り、消費増税は教育に使途を変更するようだ。
野党は「森友・加計問題隠し」と今回の解散へ批判を強めている。
民進離党組は人気にあやかり選挙向けの党結成を急ぐ。
・・・毎回似たようなこの構造を、一体いつまで繰り返すのかと憂いに近い感情を抱かされる。

■かわるものと、かわらぬもの
イギリスの生物学者チャールズ・ダーウィンは言った「変化するものが生き残る」と。この考えはビジネス等にも転用されて今では余りにも有名である。
                 §
言われてみれば選挙が近付くと、確かにある種の「変化」が起きる。
第一に、「与党」
それまでそっぽを向いていた政治家たちが急に国民に向けて、大衆受けするようなことを言い出す。
往々にしてそれは国民の税金を使って行う事業である(かつての地域振興券や現金給付もそれだ)。
政策を吟味しその真贋を見極める充分な時間と情報を与えず、選挙戦の喧騒の中に有権者を放り込む。これこそポピュリズムではあるまいか。
第二に、「野党」
風向きの悪くなった野党議員の多くが機会を計って別の塒(ねぐら)を求め彷徨う(かつての創新、維新、結い、みんな…どこへ行った。見送られることもなく)。選挙の度に‘新居’を求めてたゆたう者の後ろ姿を見るのは、もはや新しくない光景として定着した。
第三に、「有権者」
目先の欲求に負ける有権者たちは少なくない。加計問題で揺れる今治のある議員曰く、これだけ問題になってもまだ地元の多くの市民は獣医学部が心底欲しいとのこと。結局、自分たちの利益になると欲が出る。武士は食わねど高楊枝という文句もどこへやら、正しくないものはたとえ自分の利になっても受け取らないという武士道の精神は、綺麗事のように響く。原発然り。当事者になっても貫く事ができる者はごく少数だ。

与党、野党、有権者・・・それぞれ自分達に甘い判断をする者が政治の主体者となるならば、どうして社会が良くなることができようか。時代の流れが求めている以上に、焦りなどから自ら過度に変わりすぎてしまう者が多い。当選という短期的な勝利の裏側で、世の中が支払う代償は大きすぎるものがある。
                  §
■もう1つのデジャブ
政治に携わる者としては恥ずかしながらもそんなあるまじき虚無感や厭世感を私が抱いてしまう中で、もう1つ決まって思い出すのが学生時代に読んだマックス・ヴェーバー『職業としての政治』である。
ーー政治とは、情熱と判断力の2つを駆使しながら、堅い板に力を込めてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業であるーー自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中がー自分の立場からみてーどんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。ーー

第一次大戦に敗北したドイツ国民に語られたヴェーバーの言葉は、東日本大震災や原発事故・放射能汚染・その他多くの自然災害といった‘戦争ではないが数々の苦境’を体験した我々だからこそ、今ならかみしめることができると思う。1人1人が行動に移す時なのだ。
節操なく変わる政治と市民の関係から、大事なものは変えない姿勢へ‘変わる’ことこそが、今の我々には求められている。真の市民と共に歩みたい。
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