第70話 コスモアイル羽咋を尋ねて[2013年05月26日(Sun)]
今年のゴールデンウィークは、双子姉妹の家族8人に家内を加えた10人がそろって、荘川桜(岐阜県)、五箇山(富山県)の合掌造りの里を訪ね、片山津温泉で泊まった。翌日は、早朝に輪島(石川県)の朝市まで足を伸ばし、帰り道能登半島の付け根に近い羽咋市のコスモアイルに立ち寄った。
荘川桜や五箇山の合掌造りの観光地は、数年前に訪れたこともあるので、孫たちに是非見せておきたいと思っていたが、輪島からの途中で能登半島の付け根あたりの辺鄙な街のコスモアイルへ立ち寄るとは思いもよらなかった。
入り口でもらったリーフレットには「能登半島にこんなすごい施設があるんです」と書いてあり、NASA特別協力施設で、本物に遭える宇宙科学博物館と紹介していた。
ウォストーク1号・宇宙から帰還
2階の展示室に入館してすぐ目の前に球形の宇宙船が目に飛び込んできて旧ソ連が世界最初の有人衛星船ウォストーク1号を打ち上げ、帰還した宇宙船だと直ぐに判った。
展示室では簡単な説明書きだけだったので、当時のことを思い出すために、朝日クロニクル「週刊20世紀」(朝日新聞創刊120周年記念出版)を参照にしながら振り返ってみた。
昭和36年(1961年)4月12日、ユーリ・ガガーリン空軍少佐を乗せた中央アジアのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、約1時間半で地球を一周して宇宙から帰還した。
人類で最初に宇宙から地球を眺めたガガーリン少佐が「地球は青かった」との言葉が 強烈な印象だったことを今でも覚えている。
NASAの日本人飛行士と友人の友だちから宇宙船から地球をみた球形の地球の写真を見せてもらったが、青い光の地球は神々しいまでに美しく光り輝いていた。
相手からの写真使用の了解が難しいので、写真2はその写真の一部を切り取った地球の姿である。
フルシチョフ時代には国民的英雄になったガガーリン少佐は、翌1962年5月21日に日本を訪れている。これほどの英雄もブレジネフ時代になると、広告塔の役目を与えられなくなり、ソ連崩壊後、宇宙船がガガーリンの地上帰還直前に異状回転を起こしたばかりか、地上7キロで宇宙船から脱出、パラシュートで降下したことも明らかにしている。
1967年4月23日のソユーズ1号では、コマロフの交代要員だったが、打ち上げは失敗に終わり、コマロフは死亡している。ソユーズに欠陥があることを打つ上げ以前に知ったガガーリンは、ブレジネフ大統領に面会を断られた。無力感からジェットパイロットに戻ったが、宇宙飛行に成功した7年後に34歳の若さで、ジェット機訓練中の事故で亡くなった。
人類最初に宇宙から地球を見た英雄ガガーリン少佐の成功の陰に、こんな悲惨なドラマがあったことを知ることができた。
ルナ/マーズ・ローバー(アメリカ)
宇宙で活躍してきた探査のための車両かと思ってみてきたが、「月面や火星上で移動や資材の運搬のためにNASA(で設計試作された実験用のプロトタイプ(基本形、模範)の車両で無人での遠隔操作が可能になっている」と解説している。
このルナ/ マーズ・ローバーは羽咋市の職員が交渉してNASAから借りてきたという。
ルナ24号
ルナ24号とは、1976年にソ連が打ち上げた無人月探査機である。月ルナ計画は、1959年1月2日に月へ向かう軌道に探査機を投入することに成功、1966年4月3日にルナ10号が世界初の月周回探査機となった。
1976年8月にルナ24号が月の土壌170gを地球に送り届け、これをもってルナ計画は終了した(ウィキペディアから)。
旧ソ連の「ルナ24号月面着陸船」は、実際に月へ行った機体のバックアップ用として作られていた実物で、「本番用の機体になにかトラブルがあればすぐそのまま打ち上げられる、本物です!」だという。
アポロ11号月着陸に成功
1961年に旧ソ連の有人衛星船ウォストーク1号を打ち上げの成功以来、アメリカは宇宙開発戦争でソ連に負け続けだった。
この年の5月25日にケネディ大統領は「緊急の国家的必要」と題する特別教書を議会で演説している。
「いまこそ前進するときだ。新たな大いなる国家的事業に乗り出すときだ。米国は宇宙開発において明確に指導的役割を果たすべきである。……60年代のうちに月に人を着陸させ、無事に地球に回収するという目的達成のために、米国は邁進すべきであると私は信じる。これほど人類にとって輝かしい、またこれほど重大な宇宙計画はないであろう」と、第2の就任演説と言われるほどの高揚したものだったという。
この演説から8年後の1969年7月21日、故ジョン・F・ケネディ大統領が60年代のうちに月に人を着陸させるという公約したとおり、3人乗りのアポロ11号を打ち上げ、着陸船(イーグル)で月面着陸を実現させた。
人類初の月面着陸の思い出
この人類初の快挙を昼休みの休憩室のテレビで食い入るように見たことが思い出される。
平成12年7月に書いた「昼寝の効用」の中で、「私が昼寝の習慣を持つようになったとはっきり記憶にあるのは、今から31年前(1969年)である。いつもなら昼寝に入りかけている時間に、アポロ11号宇宙船から出て宇宙服に身を包んだアームストロング、オルドリン両飛行士が、月面に降り立つ瞬間を衛星中継した時だ。休憩室ではいつもは暗くして昼寝をしていた連中が月面に降り立った瞬間を、固唾を呑んで見守っていた。20世紀のビッグニュースは『人類、ここに月を踏む』という見出しの下に『予定の時間を早め午前11時56分20秒』と、昭和44年7月21日夕刊の第一面全部を使って写真入で報じている」と書いている。
月面に立った宇宙飛行士
「週刊20世紀・1969」の「人類、月に立つ」の中で、アームストロング船長が月面での第一声を書いている。「一人の人間のほんの小さな一歩だが、人類にとっては偉大なる跳躍の第一歩だ」である。
また、「惑星地球からの人間、ここに月第一歩を印す。西暦1969年7月。我々は全人類の代表として平和にやってきた」と月面に置いてきた金属板に書いてあるという。
月面着陸船の前に宇宙服を着た人形が展示されている。
上記「週刊20世紀・1969」には、月面に立てた星条旗の前でポーズをとるオルドリン飛行士の写真が掲載されている
その解説には、「大気がないため、宇宙服がふくれあがっている。背負った生命維持装置の重みのため前傾姿勢になってバランスをとっている。二人の月面での活動時間は約2時間半。太陽風測定器や地震計などを据え付け、石の採取と写真撮影を行った」と書いていて、この展示室で宇宙服を着た人形とは、やや異なっている。
EXPO‘70に展示された月の石
2人の月面での活動は約2時間半で、太陽風測定器や地震計を据え付け、石の採取を行ったそうで、この採取した月の石は1970年大阪の千里丘陵で行われた「日本万国博覧会・人類の進歩と調和」のアメリカ館で展示された。
会場のすぐ近くに住んでいたこともあって7、8回は訪れている。当然「月の石」もかなり長時間並んで観覧したが、43年も前のことでまったく記憶にない。
国際情報社発行の「日本万国博覧会・下巻」に掲載されていた。長時間並んで素通りして見ていたので、印刷物であるが、「月の石」を見直すことができた。
今あらためて「月の石」を眺めてみると、2年前の5月に登った阿蘇高岳の火砕流の跡の岩石のように見えた。
「日本万国博覧会・下巻」には、「月の石」の写真が掲載されているが、著作権等に抵触しそうなのでコピーを断念した。
実際の月面は阿蘇高岳の表面と比べてどうなのだろうか。
写真7の一部をトリミングして月の石によく似た石は写真8の右端の大きな岩石のようだった。
NASAが莫大な費用をかけ、アメリカの威信にかけて採取してきた「月の石」を阿蘇・高岳の岩石と並べられては失礼と言うほかないが、イメージ的には、月の石は火山弾の中でも、マグマの破片がまだやわらかい状態で火口から放出され、空中を飛んでいる間に、丸みを帯びた表面になっていて、凸凹していてごつごつした感じで、灰色系統の色合いであった。
コスモアイル羽咋には、地球に落ちてきた隕石が展示されていて、ガラスケースに開けた穴に手を入れてその重さを感じることができた。
展示している大きさから見て、意外と重たいと感じた。隕石の方は、黒っぽく、隕鉄と呼ばれる部類だそうだ。
ここまで書き終えて晩酌をしながら、プロ野球セ・パ交流戦阪神タイガース対日本ハムファイターズを見ていると、時たま折から満月を大きく映し出されていた。
日本では、餅つきをするウサギとして、そのシルエットがテレビの映像からはっきり見えたので、一眼レフを取り出して、5月25日の満月をズームで南東の空の写してみた。三脚を立てていなかったので、手振れで写真9を記録として撮るだけだった。
月面は、「約30億年前には月の地質活動はほぼ終えたとみてよい」(Yahoo!百科事典)というから、2年前登った阿蘇高岳近くの中岳は噴煙を上げていた。写真7の高岳頂上付近とは違ってもっと荒涼とした月面であろうと思う。
コスモアイル羽咋に立ち寄ったのがきっかけで、宇宙開発の思い出などをあれこれ書いてみたが、この辺でこの稿を収めることにした。
荘川桜や五箇山の合掌造りの観光地は、数年前に訪れたこともあるので、孫たちに是非見せておきたいと思っていたが、輪島からの途中で能登半島の付け根あたりの辺鄙な街のコスモアイルへ立ち寄るとは思いもよらなかった。
入り口でもらったリーフレットには「能登半島にこんなすごい施設があるんです」と書いてあり、NASA特別協力施設で、本物に遭える宇宙科学博物館と紹介していた。
ウォストーク1号・宇宙から帰還
2階の展示室に入館してすぐ目の前に球形の宇宙船が目に飛び込んできて旧ソ連が世界最初の有人衛星船ウォストーク1号を打ち上げ、帰還した宇宙船だと直ぐに判った。
展示室では簡単な説明書きだけだったので、当時のことを思い出すために、朝日クロニクル「週刊20世紀」(朝日新聞創刊120周年記念出版)を参照にしながら振り返ってみた。
写真1 ウォストーク帰還用宇宙カプセル
昭和36年(1961年)4月12日、ユーリ・ガガーリン空軍少佐を乗せた中央アジアのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、約1時間半で地球を一周して宇宙から帰還した。
人類で最初に宇宙から地球を眺めたガガーリン少佐が「地球は青かった」との言葉が 強烈な印象だったことを今でも覚えている。
NASAの日本人飛行士と友人の友だちから宇宙船から地球をみた球形の地球の写真を見せてもらったが、青い光の地球は神々しいまでに美しく光り輝いていた。
写真2 宇宙ステーッションから見た地球
相手からの写真使用の了解が難しいので、写真2はその写真の一部を切り取った地球の姿である。
フルシチョフ時代には国民的英雄になったガガーリン少佐は、翌1962年5月21日に日本を訪れている。これほどの英雄もブレジネフ時代になると、広告塔の役目を与えられなくなり、ソ連崩壊後、宇宙船がガガーリンの地上帰還直前に異状回転を起こしたばかりか、地上7キロで宇宙船から脱出、パラシュートで降下したことも明らかにしている。
1967年4月23日のソユーズ1号では、コマロフの交代要員だったが、打ち上げは失敗に終わり、コマロフは死亡している。ソユーズに欠陥があることを打つ上げ以前に知ったガガーリンは、ブレジネフ大統領に面会を断られた。無力感からジェットパイロットに戻ったが、宇宙飛行に成功した7年後に34歳の若さで、ジェット機訓練中の事故で亡くなった。
人類最初に宇宙から地球を見た英雄ガガーリン少佐の成功の陰に、こんな悲惨なドラマがあったことを知ることができた。
ルナ/マーズ・ローバー(アメリカ)
宇宙で活躍してきた探査のための車両かと思ってみてきたが、「月面や火星上で移動や資材の運搬のためにNASA(で設計試作された実験用のプロトタイプ(基本形、模範)の車両で無人での遠隔操作が可能になっている」と解説している。
写真3 ルナ/マーズ・ローバー
このルナ/ マーズ・ローバーは羽咋市の職員が交渉してNASAから借りてきたという。
ルナ24号
ルナ24号とは、1976年にソ連が打ち上げた無人月探査機である。月ルナ計画は、1959年1月2日に月へ向かう軌道に探査機を投入することに成功、1966年4月3日にルナ10号が世界初の月周回探査機となった。
1976年8月にルナ24号が月の土壌170gを地球に送り届け、これをもってルナ計画は終了した(ウィキペディアから)。
旧ソ連の「ルナ24号月面着陸船」は、実際に月へ行った機体のバックアップ用として作られていた実物で、「本番用の機体になにかトラブルがあればすぐそのまま打ち上げられる、本物です!」だという。
写真4 ルナ24号
アポロ11号月着陸に成功
1961年に旧ソ連の有人衛星船ウォストーク1号を打ち上げの成功以来、アメリカは宇宙開発戦争でソ連に負け続けだった。
この年の5月25日にケネディ大統領は「緊急の国家的必要」と題する特別教書を議会で演説している。
「いまこそ前進するときだ。新たな大いなる国家的事業に乗り出すときだ。米国は宇宙開発において明確に指導的役割を果たすべきである。……60年代のうちに月に人を着陸させ、無事に地球に回収するという目的達成のために、米国は邁進すべきであると私は信じる。これほど人類にとって輝かしい、またこれほど重大な宇宙計画はないであろう」と、第2の就任演説と言われるほどの高揚したものだったという。
この演説から8年後の1969年7月21日、故ジョン・F・ケネディ大統領が60年代のうちに月に人を着陸させるという公約したとおり、3人乗りのアポロ11号を打ち上げ、着陸船(イーグル)で月面着陸を実現させた。
写真5 アポロ11号月面着陸船
人類初の月面着陸の思い出
この人類初の快挙を昼休みの休憩室のテレビで食い入るように見たことが思い出される。
平成12年7月に書いた「昼寝の効用」の中で、「私が昼寝の習慣を持つようになったとはっきり記憶にあるのは、今から31年前(1969年)である。いつもなら昼寝に入りかけている時間に、アポロ11号宇宙船から出て宇宙服に身を包んだアームストロング、オルドリン両飛行士が、月面に降り立つ瞬間を衛星中継した時だ。休憩室ではいつもは暗くして昼寝をしていた連中が月面に降り立った瞬間を、固唾を呑んで見守っていた。20世紀のビッグニュースは『人類、ここに月を踏む』という見出しの下に『予定の時間を早め午前11時56分20秒』と、昭和44年7月21日夕刊の第一面全部を使って写真入で報じている」と書いている。
月面に立った宇宙飛行士
「週刊20世紀・1969」の「人類、月に立つ」の中で、アームストロング船長が月面での第一声を書いている。「一人の人間のほんの小さな一歩だが、人類にとっては偉大なる跳躍の第一歩だ」である。
また、「惑星地球からの人間、ここに月第一歩を印す。西暦1969年7月。我々は全人類の代表として平和にやってきた」と月面に置いてきた金属板に書いてあるという。
月面着陸船の前に宇宙服を着た人形が展示されている。
写真6 展示されている宇宙服を着た人形
上記「週刊20世紀・1969」には、月面に立てた星条旗の前でポーズをとるオルドリン飛行士の写真が掲載されている
その解説には、「大気がないため、宇宙服がふくれあがっている。背負った生命維持装置の重みのため前傾姿勢になってバランスをとっている。二人の月面での活動時間は約2時間半。太陽風測定器や地震計などを据え付け、石の採取と写真撮影を行った」と書いていて、この展示室で宇宙服を着た人形とは、やや異なっている。
EXPO‘70に展示された月の石
2人の月面での活動は約2時間半で、太陽風測定器や地震計を据え付け、石の採取を行ったそうで、この採取した月の石は1970年大阪の千里丘陵で行われた「日本万国博覧会・人類の進歩と調和」のアメリカ館で展示された。
会場のすぐ近くに住んでいたこともあって7、8回は訪れている。当然「月の石」もかなり長時間並んで観覧したが、43年も前のことでまったく記憶にない。
国際情報社発行の「日本万国博覧会・下巻」に掲載されていた。長時間並んで素通りして見ていたので、印刷物であるが、「月の石」を見直すことができた。
今あらためて「月の石」を眺めてみると、2年前の5月に登った阿蘇高岳の火砕流の跡の岩石のように見えた。
写真7 阿蘇高岳頂上付近の岩石
「日本万国博覧会・下巻」には、「月の石」の写真が掲載されているが、著作権等に抵触しそうなのでコピーを断念した。
実際の月面は阿蘇高岳の表面と比べてどうなのだろうか。
写真7の一部をトリミングして月の石によく似た石は写真8の右端の大きな岩石のようだった。
写真8 月の石に似た高岳の岩石
NASAが莫大な費用をかけ、アメリカの威信にかけて採取してきた「月の石」を阿蘇・高岳の岩石と並べられては失礼と言うほかないが、イメージ的には、月の石は火山弾の中でも、マグマの破片がまだやわらかい状態で火口から放出され、空中を飛んでいる間に、丸みを帯びた表面になっていて、凸凹していてごつごつした感じで、灰色系統の色合いであった。
コスモアイル羽咋には、地球に落ちてきた隕石が展示されていて、ガラスケースに開けた穴に手を入れてその重さを感じることができた。
展示している大きさから見て、意外と重たいと感じた。隕石の方は、黒っぽく、隕鉄と呼ばれる部類だそうだ。
ここまで書き終えて晩酌をしながら、プロ野球セ・パ交流戦阪神タイガース対日本ハムファイターズを見ていると、時たま折から満月を大きく映し出されていた。
日本では、餅つきをするウサギとして、そのシルエットがテレビの映像からはっきり見えたので、一眼レフを取り出して、5月25日の満月をズームで南東の空の写してみた。三脚を立てていなかったので、手振れで写真9を記録として撮るだけだった。
月面は、「約30億年前には月の地質活動はほぼ終えたとみてよい」(Yahoo!百科事典)というから、2年前登った阿蘇高岳近くの中岳は噴煙を上げていた。写真7の高岳頂上付近とは違ってもっと荒涼とした月面であろうと思う。
写真9 2013年5月25日の満月
コスモアイル羽咋に立ち寄ったのがきっかけで、宇宙開発の思い出などをあれこれ書いてみたが、この辺でこの稿を収めることにした。
(平成25年5月26日)