• もっと見る
四季折々
« 自然観察 | Main | 健康問題 »
<< 2015年02月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
タカハシ
第42話 加太越えのトンネル番 (11/17)
ナカバヤシ
第42話 加太越えのトンネル番 (11/14)
れな
荘川桜に会いに行く (09/01)
山崎 肇
司馬遼太郎記念館を見学して (12/11)
屋形船san
JR保津峡から上桂まで歩く (10/08)
G.M
荘川桜に会いに行く (06/03)
どきゅんLINK
フジの花 (05/08)
第70話 コスモアイル羽咋を尋ねて[2013年05月26日(Sun)]
 今年のゴールデンウィークは、双子姉妹の家族8人に家内を加えた10人がそろって、荘川桜(岐阜県)、五箇山(富山県)の合掌造りの里を訪ね、片山津温泉で泊まった。翌日は、早朝に輪島(石川県)の朝市まで足を伸ばし、帰り道能登半島の付け根に近い羽咋市のコスモアイルに立ち寄った。

 荘川桜や五箇山の合掌造りの観光地は、数年前に訪れたこともあるので、孫たちに是非見せておきたいと思っていたが、輪島からの途中で能登半島の付け根あたりの辺鄙な街のコスモアイルへ立ち寄るとは思いもよらなかった。
 入り口でもらったリーフレットには「能登半島にこんなすごい施設があるんです」と書いてあり、NASA特別協力施設で、本物に遭える宇宙科学博物館と紹介していた。

ウォストーク1号・宇宙から帰還

 2階の展示室に入館してすぐ目の前に球形の宇宙船が目に飛び込んできて旧ソ連が世界最初の有人衛星船ウォストーク1号を打ち上げ、帰還した宇宙船だと直ぐに判った。

 展示室では簡単な説明書きだけだったので、当時のことを思い出すために、朝日クロニクル「週刊20世紀」(朝日新聞創刊120周年記念出版)を参照にしながら振り返ってみた。

DSC_0094.jpg


写真1 ウォストーク帰還用宇宙カプセル


 昭和36年(1961年)4月12日、ユーリ・ガガーリン空軍少佐を乗せた中央アジアのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、約1時間半で地球を一周して宇宙から帰還した。
 人類で最初に宇宙から地球を眺めたガガーリン少佐が「地球は青かった」との言葉が 強烈な印象だったことを今でも覚えている。

 NASAの日本人飛行士と友人の友だちから宇宙船から地球をみた球形の地球の写真を見せてもらったが、青い光の地球は神々しいまでに美しく光り輝いていた。

NASApix04.jpg


写真2 宇宙ステーッションから見た地球


 相手からの写真使用の了解が難しいので、写真2はその写真の一部を切り取った地球の姿である。

 フルシチョフ時代には国民的英雄になったガガーリン少佐は、翌1962年5月21日に日本を訪れている。これほどの英雄もブレジネフ時代になると、広告塔の役目を与えられなくなり、ソ連崩壊後、宇宙船がガガーリンの地上帰還直前に異状回転を起こしたばかりか、地上7キロで宇宙船から脱出、パラシュートで降下したことも明らかにしている。

 1967年4月23日のソユーズ1号では、コマロフの交代要員だったが、打ち上げは失敗に終わり、コマロフは死亡している。ソユーズに欠陥があることを打つ上げ以前に知ったガガーリンは、ブレジネフ大統領に面会を断られた。無力感からジェットパイロットに戻ったが、宇宙飛行に成功した7年後に34歳の若さで、ジェット機訓練中の事故で亡くなった。

 人類最初に宇宙から地球を見た英雄ガガーリン少佐の成功の陰に、こんな悲惨なドラマがあったことを知ることができた。

ルナ/マーズ・ローバー(アメリカ)
宇宙で活躍してきた探査のための車両かと思ってみてきたが、「月面や火星上で移動や資材の運搬のためにNASA(で設計試作された実験用のプロトタイプ(基本形、模範)の車両で無人での遠隔操作が可能になっている」と解説している。

DSC_0097.jpg


写真3 ルナ/マーズ・ローバー


 このルナ/ マーズ・ローバーは羽咋市の職員が交渉してNASAから借りてきたという。

ルナ24号

 ルナ24号とは、1976年にソ連が打ち上げた無人月探査機である。月ルナ計画は、1959年1月2日に月へ向かう軌道に探査機を投入することに成功、1966年4月3日にルナ10号が世界初の月周回探査機となった。
 1976年8月にルナ24号が月の土壌170gを地球に送り届け、これをもってルナ計画は終了した(ウィキペディアから)。

 旧ソ連の「ルナ24号月面着陸船」は、実際に月へ行った機体のバックアップ用として作られていた実物で、「本番用の機体になにかトラブルがあればすぐそのまま打ち上げられる、本物です!」だという。

DSC_0123.jpg



写真4 ルナ24号


アポロ11号月着陸に成功

 1961年に旧ソ連の有人衛星船ウォストーク1号を打ち上げの成功以来、アメリカは宇宙開発戦争でソ連に負け続けだった。

 この年の5月25日にケネディ大統領は「緊急の国家的必要」と題する特別教書を議会で演説している。
「いまこそ前進するときだ。新たな大いなる国家的事業に乗り出すときだ。米国は宇宙開発において明確に指導的役割を果たすべきである。……60年代のうちに月に人を着陸させ、無事に地球に回収するという目的達成のために、米国は邁進すべきであると私は信じる。これほど人類にとって輝かしい、またこれほど重大な宇宙計画はないであろう」と、第2の就任演説と言われるほどの高揚したものだったという。

 この演説から8年後の1969年7月21日、故ジョン・F・ケネディ大統領が60年代のうちに月に人を着陸させるという公約したとおり、3人乗りのアポロ11号を打ち上げ、着陸船(イーグル)で月面着陸を実現させた。

DSC_0122.jpg


写真5 アポロ11号月面着陸船


人類初の月面着陸の思い出

 この人類初の快挙を昼休みの休憩室のテレビで食い入るように見たことが思い出される。

 平成12年7月に書いた「昼寝の効用」の中で、「私が昼寝の習慣を持つようになったとはっきり記憶にあるのは、今から31年前(1969年)である。いつもなら昼寝に入りかけている時間に、アポロ11号宇宙船から出て宇宙服に身を包んだアームストロング、オルドリン両飛行士が、月面に降り立つ瞬間を衛星中継した時だ。休憩室ではいつもは暗くして昼寝をしていた連中が月面に降り立った瞬間を、固唾を呑んで見守っていた。20世紀のビッグニュースは『人類、ここに月を踏む』という見出しの下に『予定の時間を早め午前11時56分20秒』と、昭和44年7月21日夕刊の第一面全部を使って写真入で報じている」と書いている。

 月面に立った宇宙飛行士

 「週刊20世紀・1969」の「人類、月に立つ」の中で、アームストロング船長が月面での第一声を書いている。「一人の人間のほんの小さな一歩だが、人類にとっては偉大なる跳躍の第一歩だ」である。
 また、「惑星地球からの人間、ここに月第一歩を印す。西暦1969年7月。我々は全人類の代表として平和にやってきた」と月面に置いてきた金属板に書いてあるという。

 月面着陸船の前に宇宙服を着た人形が展示されている。

DSC_0120.jpg


写真6 展示されている宇宙服を着た人形



 上記「週刊20世紀・1969」には、月面に立てた星条旗の前でポーズをとるオルドリン飛行士の写真が掲載されている
 その解説には、「大気がないため、宇宙服がふくれあがっている。背負った生命維持装置の重みのため前傾姿勢になってバランスをとっている。二人の月面での活動時間は約2時間半。太陽風測定器や地震計などを据え付け、石の採取と写真撮影を行った」と書いていて、この展示室で宇宙服を着た人形とは、やや異なっている。

EXPO‘70に展示された月の石

 2人の月面での活動は約2時間半で、太陽風測定器や地震計を据え付け、石の採取を行ったそうで、この採取した月の石は1970年大阪の千里丘陵で行われた「日本万国博覧会・人類の進歩と調和」のアメリカ館で展示された。

 会場のすぐ近くに住んでいたこともあって7、8回は訪れている。当然「月の石」もかなり長時間並んで観覧したが、43年も前のことでまったく記憶にない。

 国際情報社発行の「日本万国博覧会・下巻」に掲載されていた。長時間並んで素通りして見ていたので、印刷物であるが、「月の石」を見直すことができた。

 今あらためて「月の石」を眺めてみると、2年前の5月に登った阿蘇高岳の火砕流の跡の岩石のように見えた。

IMG_2404.jpg


 写真7 阿蘇高岳頂上付近の岩石


 「日本万国博覧会・下巻」には、「月の石」の写真が掲載されているが、著作権等に抵触しそうなのでコピーを断念した。

 実際の月面は阿蘇高岳の表面と比べてどうなのだろうか。
写真7の一部をトリミングして月の石によく似た石は写真8の右端の大きな岩石のようだった。

IMG_2404.jpg11.jpg


写真8 月の石に似た高岳の岩石


 NASAが莫大な費用をかけ、アメリカの威信にかけて採取してきた「月の石」を阿蘇・高岳の岩石と並べられては失礼と言うほかないが、イメージ的には、月の石は火山弾の中でも、マグマの破片がまだやわらかい状態で火口から放出され、空中を飛んでいる間に、丸みを帯びた表面になっていて、凸凹していてごつごつした感じで、灰色系統の色合いであった。

 コスモアイル羽咋には、地球に落ちてきた隕石が展示されていて、ガラスケースに開けた穴に手を入れてその重さを感じることができた。 
 展示している大きさから見て、意外と重たいと感じた。隕石の方は、黒っぽく、隕鉄と呼ばれる部類だそうだ。

 ここまで書き終えて晩酌をしながら、プロ野球セ・パ交流戦阪神タイガース対日本ハムファイターズを見ていると、時たま折から満月を大きく映し出されていた。

 日本では、餅つきをするウサギとして、そのシルエットがテレビの映像からはっきり見えたので、一眼レフを取り出して、5月25日の満月をズームで南東の空の写してみた。三脚を立てていなかったので、手振れで写真9を記録として撮るだけだった。

 月面は、「約30億年前には月の地質活動はほぼ終えたとみてよい」(Yahoo!百科事典)というから、2年前登った阿蘇高岳近くの中岳は噴煙を上げていた。写真7の高岳頂上付近とは違ってもっと荒涼とした月面であろうと思う。       

DSC_0006.jpg


 写真9 2013年5月25日の満月


 コスモアイル羽咋に立ち寄ったのがきっかけで、宇宙開発の思い出などをあれこれ書いてみたが、この辺でこの稿を収めることにした。   

 (平成25年5月26日)   



第68話 あまり歩かずに奈良市内を満喫(続き)[2013年03月13日(Wed)]
 東大寺北河原公敬別当の法話を聞くまでの3時間余りを市内の近場を散策した。奈良ホテルを訪ねたあと、県庁近くで昼前になった。


 一昨年夏休みに孫3人を連れて山口県庁にいったとき、県庁内の食堂を気軽に利用できたことを思い出して、奈良県庁6階の食堂に入った。
一般の人もけっこう利用していた。食券販売機には、人気No.1と表示した700円の定食を食べた。

屋上から見る奈良の景色

 県庁のエレベーター前には「屋上から奈良が一望できます」と書いて気軽に利用できるようだった。

 屋上の出入り口は南に面しているので、興福寺・五重塔(写真1) が目の前に飛び込んできた。奈良盆地が一望できるので、時計と反対に一回りした。

P2220111.jpg

 写真1 屋上から見る興福寺・五重塔


 屋上に黄色い花が咲き始めていたが、蝋梅(写真2)だとHさんが教えてくれた。完全に開いた蝋梅は見たことがあるが、つぼみでは分からなかった。

P2220151.jpg


写真2 開花し始めた蝋梅


 東西南北それぞれに写真を撮ったが、屋上から更に登れる階段があり、屋上ギャラリーでは、北方領土のパネルが展示されていた。

 この屋上階からも展望できたが、庇が出ていてデジカメはズームで引きつけて五重塔(写真3)を撮った。

P2220135.jpg


写真3 屋上階から見た五重塔


 屋上よりも5mほど高い場所から見下ろすと、五重塔や、奈良盆地を囲む山々が、さらによく見えた。

P2220132.jpg


写真4 南方向の説明用絵図

 
 東西南北から見る景色に説明用の絵(写真4)がついている。五重塔の左端に薄っすら見えるのは三輪山で、大神(おおみわ)神社は、三輪山そのものを神体とする標高467.1mの円錐形の山である。

 写真4の中央に白く見える若草山(標高342m)である。

P2220134.jpg


写真5 正面に若草山を望む


 奈良といえば、大仏さん(盧舎那仏像)。像の高さ約14.7メートルがおさまっている大仏殿(写真6)は、建物の高さが50mほどあるから、周辺の木立から大きく際立って見えた。

P2220138.jpg


写真6 東大寺大仏殿


 西方向には、東大阪市と奈良県生駒市との県境の生駒山地が横たわっている。

P2220128.jpg


写真7 遠くに生駒山地を見る


 子規の庭

 県庁から15分ほど歩いて、1時半には天平倶楽部に着いた。

 この建物の右隅の垣根に、「子規の庭」の案内(写真8)が出ていた。

P2220156.jpg


写真8 子規の庭の案内板


 天平倶楽部があるあたりに、江戸末期〜大正時代にかけて、『對山楼角定 (たいざんろうかどさだ)』と言う旅館があり、山岡鉄舟の命名といわれ、伊藤博文、 山県有朋、大山巌、正岡子規、岡倉天心、滝廉太郎などが宿泊した老舗旅館であったという。

 「なかでも俳人正岡子規は、明治28年10月26日から4日間滞在。この近辺を散策し、多くの句を残した。その一句2を伊予青石に刻んだ句碑(写真9)を建立し、当時子規が眺めたであろう柿の古木の元に彼が好んだ草花を配した小庭を作庭した」とその由来を書いていた。

P2220162.jpg


写真9 子規の句碑


 句碑には「秋暮るる 奈良の旅籠や 柿の味」で、子規の故郷の青石を使った石組だと紹介していた。

P2220166.jpg


写真10には、上記の句は、「子規が宿泊した對山楼の部屋は、この近辺にあったと思われ、夕食後月ヶ瀬出身の色白で美しい16歳の女中に剥いてもらった御所柿を食べていると、東大寺の鐘が聞こえてきた」と書いている。
その情景の余韻が、その後に立ち寄った法隆寺まで尾を引いて、子規の代表作の句「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」に結実したと解説している。

 この辺の経緯が通路に「子規と奈良」で張り出されていて、對山楼に泊まったときの様子を「くだものー御所柿を食ひし事」と題して「ホトトギス」第4巻第7号に回想した随筆が掲載されていた。

 「三日ほど奈良に滞留の間は幸に病気も強くならんので余は面白く見る事が出来た。この時は柿が盛(さかん)になっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので、殊に奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという……

 この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた……

 やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。

 彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという……」        
        
P2220168.jpg


 写真11 樹齢百数十年のトヨカ柿


 写真11には「正岡子規が、この地を訪れた1895年(明治28年)に現存した柿と思われ、子規はこの柿を食し、『柿食えば』の句を作ったかもしれない。この柿は樹上で渋柿から甘柿に変化する『不完全甘柿』という特殊な柿である」と解説してあった。

 子規の庭に立ち寄ったあと、東大寺北河原別当の法話「不退の行法、東大寺修二会(お水取り)」では、不退の行法として、一度も止むことなく1262回を数えるという。平重衡の兵火、戦国時代・松永・三好の兵火による焼失、第二次世界大戦後の食糧難などの危機にも絶えることなく続けられているという貴重な話を聞くことができた。

 「うたごえの会」では、声楽家の耕 善一郎先生、ピアノ演奏家のアマデウス大西先生の指導のもとに、童謡・唱歌を中心に楽しく歌うことができた。

 夕食は天平倶楽部が地産の食材を活用した新・大和料理に、お酒も飲むことができた。奇遇にも、この会をまとめている人が、前に勤めていた会社の女性だと知り、20数年ぶりの再会もあって、大いに満足して帰宅した。       

(平成25年3月13日)


第67話 あまり歩かずに奈良市内を満喫[2013年02月26日(Tue)]
 今東大寺・二月堂では、修二会(しゅにえ)行われている。そうしたおり、2月22日午後2時から天平倶楽部で北河原公敬東大寺別当の法話を聞く機会があった。
ハイキング仲間の4人が参加した。10時半に近鉄奈良駅で集合したので、法話を聞くまでの3時間あまり、市内を散策した。

 冬の奈良は観光客もまばらで、中国人らしい若者4、5人が旅行バッグを引きずりながら出会ったくらいだった。
 観光案内所で3時間くらいのコースとして興福寺から春日大社を経て二月堂のコースを推薦してもらっていた。
 猿沢池から浮見堂を目指していたら、途中で奈良ホテルの方へ入ってしまった。

奈良ホテル
 奈良へは何度も来たことがあるのに、この老舗のホテル近くには、行ったこともなかった。坂道を上がっていくとホテル前に出た。

 2階建ての木造建築(写真1)に、庭木の消毒している横を通って玄関前まで来たとき、Kさんがアセビの花が咲いていると教えてくれた。

P2220083.jpg

写真1 二階建て木造建築の奈良ホテル


 アセビを漢字で馬酔木と書くというのは知っていたが、実物(写真2)を見るのは初めてだった。

P2220072.jpg

写真2 玄関前に咲いていたアセビの花


 歴史のあるホテルの玄関になぜアセビが植わっているのか不思議に思ったのでネットで見ると、「馬が葉を食べれば苦しむという所からついた名前であるという。多くの草食哺乳類は食べるのを避け、食べ残される。そのため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多くなることがある。たとえば、奈良公園では、シカが他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多くなっている」(ウィキペディア)と書いていた。

 奈良新聞2012年7月18日に、「奈良の鹿愛護会は17日、奈良公園一帯で行った鹿の頭数調査の結果を発表した。鹿苑収容を含む総頭数は1370頭で、昨年より17頭少ない」と書いていた。天然記念物に指定されている鹿がこれほど多くいれば、アセビが多くなることが理解できた。

 ホテルの玄関ドアは自動開閉ではなく、「古色蒼然とした建物だ!」と話しながら中に入っていくと、「104年の歴史があります」とホテルの人が返事をしてくれた。

奈良ホテルとアインシュタイン博士
 ソファのある部屋に入ると、古めかしいピアノが置いてあり、アインシュタインがこのピアノを弾いた写真と説明がされていた。

P2220074.jpg

写真2 アインシュタインがピアノを弾いている写真


  1922年(大正11年)の 12月17日から2泊3日で、国際的物理学者アルベルト・アインシュタイン博士が、このホテルに滞在されたという。

 奈良ホテルのホームページの「アインシュタイン博士が弾いたピアノ2日間限定イベント2012.12/17(月)、18(火)」に、「日本へ向かう船上でノーベル物理学賞受賞の知らせを受けたこともあり、日本では熱狂的な歓迎を受けた。ホテルには大勢の学生らが集まり、アインシュタインも忙しい合間に趣味のピアノ演奏を楽しんだ……戦後すぐに大阪鉄道管理局庁舎に持ち出され、1992年に庁舎が解体される際に見つけられ……2009年の奈良ホテル創業100周年を機に、ホテルスタッフの地道な追跡調査の結果、奈良ホテルでアインシュタイン博士が弾かれたピアノであることであることが確認でき、里帰りを果たすことができた」と紹介されていた。


P2220075.jpg

写真3 アインシュタイン博士が弾いたピアノ


 アインシュタインが日本で相対性理論の講演で日本各地を回っていたとき、京都での案内を19歳の学生だった西堀栄三郎がしたことを知ったのは、NHKのプロジェクトXだったろうか。

 そのプロジェクトXの第一次南極観測隊南極観測隊の副隊長兼越冬隊長で、越冬中に北村隊員が観察中に火災を起こして観察器具を消失した時、西堀越冬隊長が「北村を手ぶらで帰すわけにはいかんなぁ」と言って手製の器具を渡したというエピソードを話していたが、出演していた北村隊員が思わず男泣きした映像を思い出した。

奈良ホテルの周辺を散策する
 奈良ホテルの南側には「名勝 旧大乗院庭園(写真4)」を見下ろすことができた。
P2220086.jpg

写真4 名勝旧大乗院庭園


 古風な屋根付の解説板(写真5)には、「興福寺領内にあり、庭園は平安時代、1114年ころに造営された後、室町時代中期に当時の造園第一人者の善阿弥に浄土教の思想を反映させた『浄土庭園』に改善し、昭和33年に名勝に指定された庭園」で、2010年4月から一般公開したという。
P2220084.jpg

写真5  「名勝旧大乗院」の解説板


 奈良ホテルは高台に建っていて、その北側には、大きなため池・荒池があった。
 そこから見る興福寺五重塔などの風景(写真6)は、古都奈良に調和した風景になっていた。

P2220088.jpg

写真6 荒池を挟んでみる興福寺五重塔


奈良県庁に入る
 玄関前に奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」(写真7)が、右手を差し出して迎えてくれた。

 2010年に平城遷都1300年記念事業で奈良をイメージして鹿の角の生えた童子で、今は奈良県のマスコットキャラクターに栄転したようだ。
P2220153.jpg

写真7 奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」


 1階の受付横には、樹齢570年余りの春日杉が展示されていた(写真7)。

P2220099.jpg

写真7 樹齢570年余の春日杉


 春日山一帯に生育する杉を春日杉という。あざやかな色と美しい木目で、貴重な銘木として知られている。

 展示の春日杉は、昭和36年(1961年)の第二室戸台風で倒伏したそうで、樹齢570年余りといえば、1390年の足利時代の三代義満将軍の頃だ。

 今年2月1日の朝日新聞夕刊「ニッポン人脈記・邪馬台国を求めて7」に、「欧米で盛んになった年輪年代学を80年代に日本に持ち込んだのが、奈良文化財研究所で環境考古学を担当する光谷拓実さんだった」と読んでいたので、特に興味があった。

 展示の春日杉の左側の白い線上に、「1709年東大寺大仏殿再建」、「1867年(慶応3年)明治天皇即位 王政復古」などの出来事が示されている。光谷さんは100分の1ミリ単位で読み取っていたが、機材が進化で、デジタルカメラとコンピューターで自動計測もできるようになったという。

 県庁での昼食後、屋上から奈良市内を展望したこと、1時半に天平倶楽部の「子規の庭」のことを書くことにしているが、長くなりすぎたので次回に回すことにした。


(平成25年2月26日)


第40話 2010年夏・千畳敷カールを周遊する[2010年08月20日(Fri)]
 連日の猛暑でエアコンなしでは過ごせない日々を過ごしている。8月も後半に入ったというのに、ここ大阪でも一昨日の最高気温は37.3℃で、平熱の体温より高いのだからソファにじっと耐えて横たえて、眠くなればテレビを見ながら寝入ってしまっている。

 この暑さでブログを書くにもなかなか気合が入らないが、2010年の夏を振り返って2900mの真夏の別天地・中央アルプス宝剣・木曽駒ケ岳の麓に広がる千畳敷カールでの散策を振り返ってみた。

 長野県中央アルプスの木曾駒ヶ岳へは、8月4日・5日にかけて、マイクロバスでハイキング仲間15人と出かけた。そのうち10人は木曾駒ヶ岳(2956m)山頂近くの山荘に泊まって翌朝・ご来光を仰いだあと、岐阜県側の木曽福島の「寝覚めの床」付近へ8時間かけて下山してきたが、筆者を含む残り5人は観光組で、千畳敷カールの周遊と木曽福島付近を楽しんだ。
 ちなみに、5日早朝4時半に木曽駒ヶ岳から岐阜県側の登山口「アルプス山荘」に予定より1時間強遅れて12時半に下山してきたパーティーは我々の仲間10人だけだった。険しいので、下山してくるパーティーは少ないようだ。


駒ヶ岳ロープウェイ

 中央道の駒ヶ根インターチェンジから菅の台バスセンターへ着いたのは8月4日の12時半だった。
 直ぐにマイクロバスから専用の山岳バスに乗り換えてしらび平(駒ヶ根ロープウェイ乗り場)へはほぼ計画通りだったが、日本一高い眺望絶佳のロープウェイは、9分間隔の臨時運行でも約1時間待たされた。

 乗り場の起点であるしらび平が標高1,661mで、終点の千畳敷が2,611.5mと、一気に950mも引き上げてくれるから、赤ちゃんを抱っこした奥さんも杖をついたおばあさんも行列の中で待っていた。
 上昇していくにつれて下界の駒ヶ根市街や南アルプスが広がり、急斜面では滝が見えていた。




写真1 駒ヶ根ロープウェイ(10年8月4日撮影)


 ロープウェイはゆっくり動いているようだが、中間点で反対の車両とすれ違いはあっという間で、秒速7mのスピードが実感できた。7分30秒で千畳敷駅に着いた。
 駅に架けてあった温度計は20℃だった。

 この記事をまとめるにあたって、千畳敷カールを検索してみると、駒ヶ根ロープウェイを運営している「中央アルプス観光株式会社」のホームページに、8月8日(日)ご来場のみなさまへとして「電気系統のトラブルによって運行を見合わせた旨」のお詫びが掲載されていた。


千畳敷カール

 2008年8月31日にこの地を訪れているので、この地に立つのは2回目だが、霧や雲のかかり具合が変化していている。眼前に切り立った岩肌は2度目の訪れても圧倒された。



写真2上段:急峻なカール壁(10年8月4日撮影)

下段:急峻なカール壁(08年8月31日撮影)


 カールはドイツ語のKarで、山地の斜面をまるでスプーンでえぐったような地形であり、高山の山稜直下などに見られる。氷河が成長と共に山肌を削り、上からみると半円状ないし馬蹄形状の谷となる(ウィキペディア「圏谷(けんこく)参照」。

 北面には眼前に急峻なカール壁(写真2)が行く手を阻むようにそそり立っている。

 南面には雲に遮られながらも、南アルプスの山並みが広がっていて、その下に駒ヶ根市街地が見えている(写真3)。




写真3上段:南アルプの山並みと駒ヶ根市街地

下段:カール底の氷河湖・剣ヶ池


 終点のホテル千畳敷前から右手の急な坂道を下りていくと、カール底に氷河湖・剣ヶ池が見えてくる(写真3下段)。

 周遊コースを散策していると、宝剣岳周辺に霧がかかったり、晴れたり変化していてそのチャンスを見計らってデジカメのシャッターを切るのに忙しかった。剣ヶ池も見る位置や霧のかかり具合で池の色が変化して見えた。


宝剣岳

 眼前の宝剣岳は2931mあり、ロープウェイで2611mまで連れてきてもらっているから、320mも登れば頂上に到達できるが、険しい岩場をよじ登っていかなければならない。

 2年前には、駒ヶ根市で宿泊していて早朝から登頂する心構えで望んだが、後期高齢者を目前にして今はその元気は出てこない。

 2年前に登頂した時の写真を取り出してみて、いまさらながら険しい山だったと思う。ごつごつした岩場で足を置く位置や鎖を使ってよじ登るなどしてやっと登頂できた。




写真4 宝剣岳への登山道


 駒ヶ岳神社から極楽平まではジグザグの道で比較的登りやすかったが、極楽平から頂上までは、写真4のような岩場を慎重によじ登って登頂できた。下りも踏み外さないように一歩、一歩と下山していった。

高山植物のお花畑

 千畳敷カールを散策していると、高山植物をたくさん見ることができた。
 2年前のときには、8月末だったので、千畳敷カールでは、花はすでに散っていて宝剣岳の岩肌に紫色の花が僅かに見られたが、今回は8月初旬だったので、いろんな花が咲いていた。

 残念ながら、花の名前は皆目わからなかったが、接近してカメラを構えていた人が「クロユリだ」と話をしていたので、写真5上段だけはクロユリの名前を知ることができた。




 写真5 千畳敷カールで撮った高山植物(10年8月4日撮影)


 中学生の頃だったろうか、織井茂子が歌っていた「黒百合は 恋の花 愛する人に 捧げれば 二人は いつかは 結びつく あああ・・・あああ この花ニシパに あげようか あたしはニシパが 大好きさ」(菊田一夫作詩、古関祐而作曲)と歌を思い出したが、高山植物でこんなに小さい花で、真っ黒な黒色ではないことを初めて知った。

 10種類ほどの高山植物を撮ってきたが、花が小さく、こぢんまりと咲いているという印象だった。
 花の名前はわからなかったので、高山植物を検索してみて、ウィキペディアで以下のことを知った。

 高山植物(こうざんしょくぶつ)とは、一般には森林限界より高い高山帯に生えている植物のことを指す。広義には高山帯だけではなく、亜高山帯に生育する植物も含める。
高山植物の生育環境は、冬季の積雪と平均気温の低さ、一日の最高気温と最低気温の温度差が大きいこと、風が強いこと、貧弱な養分の土壌、陽射しが強く特に紫外線が多いこと、など多くの点で植物の生育には厳しいことが多い。

 よってその環境に応じた様々な特徴をそなえている。たとえば、地下茎や根が発達している割に茎や葉が小さく、樹木であっても、ほとんど草並の背丈で、地表に密着してクッション状に成長する。成長が可能な期間が短いため、一年草は少なく、多年生の草本が多い。また、全体に毛が多いものもよくある。

 これは、植物体表面を寒気から遮断することや、強い日差しから本体を守る役割があると見られる。また、植物体に比して花が大きく、派手なものが多い。植物の活動が夏に限られるため、ほとんど全種が同じ時期に花をつけ、一面に花が並ぶようすをお花畑とよぶ。


(平成22年8月20日)


第24話 東福寺の屋根付橋[2010年01月26日(Tue)]


 1月20日は二十四節気の一つ「大寒」。1年で寒さが最も厳しくなるころとされるが、天気予報ではぽかぽか陽気になるというので、19日にハイキング仲間3人で京都の社寺を巡ってきた。

 JR京都駅に10時に出発して東寺の境内を一巡りした後、東寺から400メートルほど西の羅城門跡を訪ねた。桓武天皇時代の794年に平安京に奠都したときの都の正門が羅城門である。この門を守護する東西の位置に東寺、西寺が置かれ、そのうち東寺は現代まで残っている。西寺跡へ歩きかけたが石碑だけだというので、東福寺に方向転換した。

 幹線道路から少し入ると、東福寺関連の寺院や幼稚園などの施設が立ち並んでおいて広大な寺域だなと思った。


臥雲橋は「単車・自転車は下車通行」

 付近の案内板の地図で確認して本町通(伏見街道)の1筋東側の道を歩いた。寺院の長い土塀(写真1上段)を南方向へ進んでいくと、写真1中段のように道の真ん中に屋根が載っていて道幅が狭くなっていた。
 この屋根のある道の中ほどで、下をのぞいてみると、切り込んだ渓谷に小さい川が流れているので橋だとわかった。
 橋を渡りきった道路際の立て看板に「重要文化財・臥雲橋保護のため単車・自転車は下車通行 車イスの方は、右側通行 周辺『火の要心』 大本山東福寺(写真1中段)」と書いていた。
 途中の道は自動車も走っていたので市道と思っていたが、境内でもらったリーフレットの地図を見て東福寺の中の私道だとわかった。




写真1上段 寺院の土塀が続く東福寺寺域

中段 屋根つき橋・臥雲橋

下段 臥雲橋から通天橋を見る


  臥雲橋がいつごろ架けられたかを、「古寺巡礼 京都18東福寺(著者:大岡 信/福島俊翁樺W交社発行)の年表で調べてみたが、他の2橋は載っているものの、この橋の記述はなかった。
 インターネットの「日本の屋根付橋」に、「相当古くから架けられていたようで、雪舟(1420〜1506年)作と伝えられている東福寺の伽藍図にも描かれているが、現在のものがいつ建てられたものかはよくわからない」という。


東福寺三名橋

 そのリーフレットの「もっと知りたい東福寺」の中の「東福寺三名橋とは」に、「広大に境内に北谷、中谷、南谷の三つの渓谷を巧みに取り入れている東福寺。通天橋からの中谷にあたり、ここからかかる三つの歩廊橋は上流から偃月橋(重文)、通天橋、臥雲橋。これを『東福寺三名橋』と呼びます」と説明している。

 写真1下段は、臥雲橋から上流側の通天橋を撮ってみたが、木々に隠れてその全貌は分かり難かった。文章だけでは三つの橋と寺院や広大な寺域を理解しにくいので、リーフレットから絵図だけを切り取ってみたのが、図−東福寺全体図である。




図−東福寺全体図


通天橋

 境内で買い求めたガイドブック「東福寺(臨済宗大本山東福寺発行)」の通天橋には、「法堂から開山堂(常楽庵)に至る渓谷(洗玉澗:せんぎょくかん)に架けられた橋廊です。1380(天授6)年、春屋妙葩(しゅんおくみょうは:普明国師)が谷を渡る苦労から僧を救うため架けたとつたえられ、歩廊入口には同国師の筆に成る『通天橋』の扁額をかかげます。南宋径山(きんざん)の橋を模し、聖一国師が名付けました。

 その後、第四十三住持、性海霊見が修造し、長廊を架したともいわれますが、その後も幾度か架け替えられ、現在のものは、1959(昭和34)年、台風によって倒壊したものを1961(同36)年、再建したものです」と説明している。




写真2上段:通天橋を接近して撮影

中段:下流側から少し離れて通天橋を見る

下段:上流側から臥雲橋を見る


 写真2上段は通天橋に近づいて写した。通天橋は橋の前後も屋根のついた長い歩廊(2列の柱の間につくった通路。回廊−大辞泉)が続いていた。

偃月(えんげつ)橋

  ガイドブックには「偃月橋は本坊より塔頭、龍吟、即宗両院に至る三ノ橋渓谷に架かる木造橋廊です。桁行十一間、梁間一間、単層切妻造りの屋根は桟瓦葺。1603(慶長8)年につくられ・・・・・・」と解説している。

 上記年表には「慶長八(1603)年六月十二日、惟杏永哲示寂、十月、偃月橋を改架する」と書いているから、渓谷を渡る苦労救うために通天橋、臥雲橋と相前後して架けられていたのかもしれない。




写真3上段:桟瓦葺の偃月橋

下段:偃月橋の高欄と橋脚


 通天橋は上記のように、昭和34年の台風で倒壊して再建されたが、偃月橋は被害が出なかったのだろうか。
 この橋の屋根を支える柱には、シロアリが食い荒らした穴が多数見られたので、係りの人に聞くと、シロアリ以外に獣が爪で引っかいた傷跡もあると言っていた。
柱や高欄の傷を見ると、今から400年前の屋根つき橋が原形を保っているのだろうか。


東福寺三名橋を見て

 写真2下段は、臥雲橋を渓谷の上流側から撮ったもので、屋根つき橋の下部や高欄、屋根の構造が分かる。東福寺に架かるこれら3つの橋は同じ構造形式でラーメン(骨組)構造になっている。

 注)ラーメン(Rahmen)とは、構造形式のひとつで、主に長方形に組まれた骨組み(部材)の各接合箇所を剛接合したものを言う。同じ構造である。(出典*ウィキペディア)

 橋の構造に詳しいIさんが、川の流れに沿った2本の柱は筋交いが入っていて、この方向に来た地震波には耐震補強がなされているが、川の流れに直角(南北)方向=橋軸方向から来た地震波に対して十分に耐えられるか疑問である」と言っていた。

 一般に架かっている橋でも台風などの風に対しての安定計算は欠かせないが、屋根つき橋は、渓谷から吹き上げてくる風に屋根が吹き飛ぶことも心配である。昭和34年の台風といえば、伊勢湾台風だろうと思われる。


屋根付橋にした訳

 渓谷を上がったり降りたりする僧の苦労を救うという理由で橋を架けたのは理解できるが、屋根をつけた理由が通天橋を見ていて理由が分からなかった。

 偃月橋の際の受付の女性に聞くと、「秀吉の時代、北政所が橋を渡るときに雨に濡れないように屋根を付けた」と言っていたが、果たしてどうだろうか。

 上田 篤「橋と日本人」(岩波新書1984年)の屋形橋の中で、「屋根のある橋―というのが、意外に日本にはすくない。外国には、たとえばフィレンツェのボンテ・ベッキョや、ベネチアのリアルト橋などがある。ヨーロッパの中世の町の橋には、建物ののった家橋が多かった……

 中世のヨーロッパの都市の絵図をみると、屋根のある橋はいっぱいある。その理由は、たとえばスイスのルツエルンの町などをみるとよくわかる。要するに家橋は、防塁の延長なのである。川によって町が二つにわけられているとき、城壁は川によってさかれてしまうが、そのばあい、家橋が両方の城壁をつなぐように、川中に延々とつづいて、そのかわりをはたしている・・・・・・

 それにひきかえ、わが国の中・近世の都市では、城内町というのはほとんど発達しなかったから、城壁橋というのもあまりみかけない。ただ『甲陽軍艦』などによると、橋の上に廊下をもうけ左右に壁をつけ、狭間(さま)をきり、矢を防ぐようにした廊下橋はあったようだ。しかしそれも溝や堀をまたぐほんの短いもので、本格的に川の上にかかった橋かどうかわからない。
 
 こういう軍事上の橋は別にしても、雨の多い日本の風土をかんがえると、屋根のある橋がもっとあってもふしぎではない。ところが、そういう「屋形橋」は、庭園などにある廊下橋と、神社の参道にかかる鞘(さや)橋ぐらいのもので、前者は多く貴人が月や紅葉をめでるための建築であり、後者は人間というより橋を風雪からまもるための施設である。前者の例に京都の東福寺の通天橋があり、後者の代表に四国の金此羅神宮の鞘橋や、九州の宇佐八幡宮の呉橋などがある」と説明している。

 東福寺の屋根付き橋のことを調べている中で、たまたま所用で箕面市坊島のヴィソラに出かけた。新御堂筋を跨いで東西の商店街を結ぶ萱野三平橋には立派な屋根が取り付いていることに気がついた。




写真4上段 新御堂筋に架かった萱野三平橋

下段 鉄骨がむき出しの萱野三平橋の歩道面


 この道路を走っていると突然に異様な構造物が横切っていて周辺の景色と異質な感がある。屋根と言ってもところどころ明かり窓から雨が吹き込んでくる。どんな目的で屋根を付けたのだろうか。
 この橋から、別の屋根付橋を思い出した。いずれ調べてまとめたいと思っている。

 


(平成22年1月26日)
第12話 JR保津峡から上桂まで歩く[2009年09月21日(Mon)]


 暑かった今年の夏もようやく収束し、爽やかな秋風が吹き始めた9月14日、ハイキング仲間5人で京都西山トレイルのうち、JR保津峡駅から上桂の「仁左衛門の湯」まで約16キロを歩いてきた。

 計画では嵐山公園から松尾大社の背後の松尾山を経て上桂の「仁左衛門の湯」まで歩くことにしていた。

 爽やかな秋風に颯爽と歩きだした平均年齢約70歳の5人は、保津峡駅から嵐山の亀山公園までは張り切って歩いたが、昼食が済んだころから元気がなくなり、松尾山のすそのアスファルトの道を選んだ。


JR保津峡から嵐山まで

 JR保津峡駅を10時15分に出発して保津川を右手に見ながらゆっくり登っていくと、先ほど降り立った保津峡の駅が見える。保津川に架かった駅をちょうど山陰線の電車が走り去っていくところだった(写真1)。



写真1 保津川に架かったJR保津峡駅


 このあたりの山道は、アスファルトの道(写真2)だが、木陰があり、川風が心地よく吹いているので歩きやすかった。狭い道なので小型車がスピードは出さずに数台が通り過ぎていった。



写真2 保津川左岸沿いの山道


  6丁峠までの山道をゆっくり登っていく途中では、木陰から「ミーンミンミンミンミンミー…」と平地ではあまり聞けない蝉の鳴き声が聞こえてきた。

 フリー百科事典「ウィキペディア」によると、この鳴き声はミンミンゼミで「西日本では都市部にはほとんど生息しておらず、やや標高が高い山地を好んで生息している。成虫は7月-9月上旬頃に発生し、サクラ、ケヤキ、アオギリなどの木によく止まる」と解説している。

 箕面の市街地では、7月から8月の早朝から「シャアシャアシャアシャアシャア」とうるさく鳴いていたクマゼミの鳴き声も、9月になって蝉の声ははいってもう聞かれなくなった。代わって近所からもらったスズムシが少し曇った昼間や、夕方から夜にかけて今でも鳴いている。


芭蕉の句碑

  清滝川が保津川へ合流する近くの木陰から川下りの屋形船がちらっと見えた。その近くに芭蕉の句碑の案内があったので、少し道から外れた宿の前に立ち寄ってみた。

清滝や波に散り込む青松葉 松尾芭蕉



写真3 木陰から保津川下りの屋形船が見えた!


嵯峨鳥居本伝統的建造物郡保存地区

 六丁峠からは両側とも木々に囲まれた薄暗い道をどんどん下りていくと、赤い鳥居と茅葺き屋根の茶店二軒が見えた。
 鮎料理が有名だそうで、どちらも江戸時代からの老舗だそうだ。

 この地区は嵯峨鳥居本伝統的建造物郡保存地区で国の重要伝統的建造物郡保存地区にも指定されているだけあって趣がある。





写真4 愛宕神社一之鳥居付近の街道


 嵯峨鳥居本建造物群保存地区を解説した案内板によると、室町末期ころ、農林業や漁業を主体とした集落として開かれたという。江戸中期になると愛宕詣での門前町としての性格も加わり、江戸末期から明治、大正期にかけてこの愛宕街道沿いには、農家、町家のほかに茶店なども並ぶようになったそうだ。

 愛宕山の愛宕神社は古くから修験者の道場で、火伏せの神(神仏が霊力によって火災を防ぐこと)として信仰を集めていた。その修験者によって江戸中期に愛宕信仰が全国的に広まった。

 この愛宕街道から嵐山・亀山公園で昼食をとったあと、渡月橋を経て松尾山麓のアスファルト道を歩いた。

 松尾大社を過ぎて苔寺へ行く道の旧街道沿いに、樹齢推定500年と言う「椋の木」のご神木があった。近くの小学校からランドセルを背負った子どもたちの下校と重なった。

 松尾中学校の学校案内によると、「この地は古くより開け、物集女街道は、山陰街道、西国街道に通じ、古代よりの重要な通路となっています」と紹介していた。




写真5 樹齢推定500年の椋の木


  10時15分にJR保津峡駅を出発して、約5時間で上桂の仁左衛門の湯には3時過ぎに着いた。温泉で汗を流し、しっかりストレッチで疲れを取って、湯上りのビール1杯飲んだあと、梅田に出た。

曽根崎にも蝉が鳴いていた?

 梅田に出て曽根崎の中華料理の「aa(ミンミン)」へ行った。

 入り口の店員に「蝉が鳴いているか」と言うと店員は「?」とけげんな顔をした。そこで「ミーン、ミーン」と言ったところ、にっこり笑って駄洒落と理解してくれた。

 二階の椅子に座って注文を聞きに来た店員に同じ駄洒落を発したが、全く反応がなかった。胸に「只今日本語を勉強中です」と札を吊り下げた女性が3人もいた。どうりで理解できないはずだと分かった。

 この駄洒落は10年以上前から使っていて、ハイキングの目的地近くでの打ち上げはビールに餃子が定番で、「蝉が鳴く」は餃子の店を探す合言葉になっていた。



(平成21年9月21日)
第3話 荘川桜に会いに行く[2009年06月02日(Tue)]


 4月12日の天声人語に、「桜の画家」で知られる中島知波さんが、「花を描くというより幹を描く。桜の表情は花より幹に真骨頂がある」という話題に触発され、木の幹に目を注ぐようになった。
 ちょうどタイミングよく5月26日の卒業50周年記念同窓会旅行で、樹齢450年といわれる荘川桜の巨樹の幹を見ることができた。
荘川桜はひるがの高原から世界遺産の白川郷へ行く途中の国道156沿いの、日本を代表するロックフィルダム・御母衣ダムの湖畔に、昭和35年に移植されて岐阜県指定天然記念物・荘川ザクラとして今日に至っている。

 この桜を知ったのは、朝日新聞夕刊のコラム06年3月28日の「ニッポン人・脈・記桜の国でA ダム水没『木を殺すな』」である。

 この記事に触発されてその年の4月下旬に友人4人と訪れた。その年の開花は5月中旬だったそうで,花を見ることはできなかった。
 


 さらにさかのぼって、このダムが建設中だった昭和33年には、学校から同級生全員が現場見学しているので、同級生と51年ぶりにこの地を訪れたことになる。

 今年の荘川桜は5月初旬が満開だったそうで、5月26日では葉桜だったが、その見事な幹を目に焼き付けるとともにデジカメに収めてきた。




写真1 岐阜県指定荘川ザクラの全景



 写真1は御母衣ダム湖へ移植された2本の巨桜の全景である。近づいてそれぞれの幹を写した。
 どちらの幹も全体に力瘤があちこちに付いたようになっていてどっしりとしている。この大樹にびっしりと枝葉が付いているから自らの根だけでは支えきれないのだろう。枝を受けた棒で支えられてはいるが、この力強い幹が生い茂った葉を支えている。
全国に桜の名所は数々あるが、ソメイヨシノなどの群生した桜の名所を見に行くのとは違って、たった2本の桜に会いに行くだけの値打ちのある風格を備えたアズマヒガンの幹だった。






写真2・写真3 移植された2本のアズマヒガンの幹(09年5月27日撮影)


岐阜県指定天然記念物・荘川ザクラ

 この2本の桜の大樹の側に解説板があって、名称:荘川ザクラ・岐阜県指定天然記念物になっていて「2本ともアズマヒガン桜で5メートル余の大樹で樹齢400年と推定される。昭和35年秋に現在地に移植されたものである」とあるから、今ではおよそ450年の古木になっている。説明事項に「初代電源開発総裁高碕達之助氏の計らいにより、重さ40tはあったという巨樹を現在地に移植したものである」と簡略に書いている。

 高碕達之助さんは高校時代の昭和29年(1954年)に、校内の掲示板に「わが校の大先輩が大臣に就任されました」と掲示されたことも記憶にあってとくに親しみがあった。
その後、昭和33年に電源開発株式会社の御母衣ダム工事のロック採取に100トン大発破を仕掛け、岩山を砕いたときの現場を見学しているが、その当時高碕達之助さんが初代総裁だったことは知らなかった。

 現場見学に出かけたのは、「もはや戦後ではない」といわれた昭和31年の経済白書の2年後だ。卒業アルバムを見ると、横に6人掛けのバス1台に40人ほどが乗っていてかなり窮屈なバスの中の様子が写っている。また、当時の荘川の流れと建設予定のダム本体の断面が描かれた写真もあった。




写真4 荘川沿いに建設された御母衣ダム(卒業アルバムから)


 今回の旅行で写真5に御母衣ダムの完成後の全景を写してきた。



写真5 御母衣ダムの全景(09年5月27日撮影)


 3年前に荘川桜を訪れる前に、前記朝日新聞のコラムとインターネットで電源開発株式会社J_POWERの「荘川桜物語」を読んでいたが、今回あらためて読み返してみて感激を新たにしたので、その物語を抜粋してみた。

荘川桜物語

 昭和28年(1953年)、御母衣ダム建設計画が持ち上がったときに結成された御母衣(みぼろ)ダム絶対反対期成同盟死守会」の解散式が昭和34年(1959年)11月13日に行われた。
死守会の解散式には、高碕も招かれた。

 このとき高碕は、74歳。高齢のため、すでに電源開発総裁の職を辞していた。しかし、荘川村へと足を運んだ。高碕は、死守会の書記長を務めていた若山芳枝ら万感こもる握手を交わし、式は終わった。
 その直後のこと、突然「周囲を見てみたい」と、高碕が若山にいった。
 
 高碕は、水没予定地をゆっくりと歩き出した。沈みゆく学校や、鉄橋や、家々を見てまわった。そして学校のとなりにあった光輪寺の境内にきたとき、ふと、歩みを止めた。

 「境内の片隅に、幹周一丈数尺はあろうと思われる桜の古木がそびえていた。葉はすっかり落ちていたが、それはヒガン桜に違いなかった。私の脳裡には、この巨樹が、水を満々とたたえた青い湖底に、さみしく揺らいでいる姿が、はっきりと見えた。この桜を救いたいという気持(きもち)が、胸の奥のほうから湧き上がってくるのを、私は抑えられなかった」

 高碕は、木の幹に手を遣りながら、「助けたい」といった。それを聞いた若山は、不思議に思ったという。

 高碕は、その場にいた電源開発社員に桜を救ってくれるよう、頼み込んだ。


 さらに帰京後、昭和35年(1960年)の早春、大阪倶楽部のホールの一隅で、高碕達之助は笹部新太郎(日本随一の桜研究家として知られる)と対座した。

 「笹部さん、この桜の樹齢はいったいどれくらいのものですか」
 高碕は、一葉の写真を差し出しながらそういった。

 「まず400年を下らぬものと思う」
 笹部が答えると、その顔をじっと見つめながら高碕がいった。
 「この桜が、いま、私のやっている御母衣の電源開発の工事のためにダムの水底に埋められてしまうことになる。それが余りに惜しいので、できることなら何とかして活かして遺したい」 そして続けた。

 「活着の見込みはありますか」 笹部は無愛想に答えた。
 「そんな老木をよしんばあなたがどこの大学や府県の技術者などにご相談になったとしてもおそらく自信をもって活着可能といい切れる人はまず無いでしょう」

 「あなたはどうです」
 高碕は間髪入れずに訊きなおした。それは、通商産業大臣や経済審議庁長官を歴任した高碕の得意とする筆法に違いなかった。

 「私だとてそんなことに自信は持てませんナ」 にべもない笹部に、高碕は食い下がった。

 「絶対に駄目ですか」 詰め寄られた笹部は反駁した。

 「絶対などという言葉は、こと活き物に関する限りいやしくも私は使いたくありません」
 そう答えながら、知らず知らずのうちに言葉を継いでいた。

 「やればいいのでしょう」
 
 そういった次の瞬間、笹部は「とんでもないことになった」と思った。というのも、老桜の移植を、高碕が本気で考えていることを知ったからである。高碕は笹部にこう迫った。

 「万事あなたにお委せしますから早々に移植にかかってください。一万人の労働力と、機械器具の類は何でもありますから」

 死守会の解散式のあと、補償交渉で苦労された高碕さんの「周囲を見てみたい」という言葉と、自宅に植物研究室を設けるほどの自然愛好家であった氏の熱意があったからこそ、村の象徴でもあった桜の古木を湖底から湖畔に移植できた。
 さらに、桜研究家の笹部さんの上記のやり取りがあったからこそ今日の荘川桜がある。


(平成21年6月3日)
プロフィール

箕面だんだんクラブさんの画像
箕面だんだんクラブ
プロフィール
ブログ
リンク集
https://blog.canpan.info/masataka/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/masataka/index2_0.xml