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茨城・学びの会情報発信ブログ

「茨城・学びの会」月例会の報告を中心に発信しています。明日の学校づくり・授業づくりのために,会員のみなさんや授業づくり・学校づくりに関心のある方からのコメント等をいただければと思います。


12月例会のお知らせ [2016年11月25日(Fri)]

以下に12月例会のお知らせを配信しました。

12月例会の開催通知



訂正:先日配信した案内文書の授業実践視聴は、「全国の仲間に学ぶ 小学校5年 食料品をつくる工業」となります。ひたち野うしく小学校の実践と記載されていますが誤りです。


11月例会から [2016年11月07日(Mon)]

11月例会は,改めて「たぬきの糸車」(新潟県・呉井先生)の授業と川崎学びの会からお借りした,「冠詞」(中学2年)の授業を視聴しました。学んだことを本橋先生が,当日の夜に書いて送ってくれましたので紹介します。

茨城・学びの会 11月例会で学んだこと

小学校1年・国語「たぬきの糸車」(長岡市立上川西小学校 呉井弘美先生)

この授業は以前に何度か見ているのですが,改めて見直してみて次のようなことを学びました。

1 子どもがテキストと向き合っていること

  どの子どもも物語を読むことを心から面白がっていて,注意力が他のことに向かないのはなぜか考えながら見ていました。始めにたっぷりと音読を入れていることで,子ども一人一人がテキストに向き合い,物語の世界に入っているからではないかと改めて思いました。個人読みの豊かさだけではなく,いわゆる丸読みのときにも,他の友だちの読みをよく聴いています。その証拠に,誰かが読んでいるところを声に出さずに口だけ動かしている子どもがいました。これだけ音読に夢中になれるのは,自分の読み描いたイメージを思い浮かべて楽しく音読する,という単元のねらいがどの子どもの中にも浸透しているからだと思います。事実として子どもたちがそのように学んでいるということは,突き詰めるとそのねらいを毎時間繰り返し子どもたちに伝えるよう意識している呉井先生の指導力に行き着きます。

2 子どもたちがテキストを介してつながっていること

  どの子どもも必ず「80ページの2行目の・・・」と言ってから発言しています。そして,聴いている子どもたちはページをめくりながらその言葉を追っていくのです。この事実を前にすると,教師のやり方次第ではどの学校の1年生でもこういう学び方が可能であると言わざるを得ません。呉井先生が普段から「どこからそう思うの?」と,発言がテキストに沿うように繰り返し丁寧に指導されているのだと思います。テキストを媒介にしているからこそ,友だちの発言を聴いているうちに,その言葉から自分も想像をふくらませて発言したくなるのでしょう。

3 聴くことから話すことを導きだしていること

  個々の子どもに友だちと話してみたいところに線を引かせたあと,全体での交流を行いました。子どもたちは互いの発言を自然な姿で聴き,それからその発言の中から次の発言を紡ぎ出しているようなつながり方をしていました。なぜこういうことが起こるのか,考えながら見ていたのですが,最も有力な要因は呉井先生の「自分が線を引いていなくても,お友達が言ってくれたところと同じ気持ちだったら,それも言ってください」という指示だと思いました。そうすると,子どもは自分が線を引いていないところについての発言にもよく耳を傾けます。今日になって初めてやったわけではなく,日ごろからそのような点を大切にして指導されているのだろうと推測できます。聴くことの意味を子どもによく理解させる指導の大切さを改めて実感しました。

4 授業者の言葉が簡潔で,聴くことに重点を置いていること

  子ども同士がよく聴き合えるということは,普段から先生がよく聞いてくれているからだと思います。安心して発言できるのは,先生をはじめとする学級の全員が自分の言うことを聴いてくれると心から思えるからでしょう。本日の研修のある参加者から指摘されたのですが,子どもたち同士でわーっと盛り上がる場面でも,先生はすぐに制するようなことはせず,ひとしきり発言させておいて静まったところで次の問いを発するというところがありました。ここでも子どもたちは,どんな発言やリアクションをしても先生は受け入れてくれるという安心感をもったと思います。自分が授業者だったらなかなかそこまで待てないと思います。

5 一貫した指導観があること

  呉井先生が授業の中で行っているひとつひとつの指導や支援はすべて先生の指導観から必然的に生まれてくるように思います。どの子どもも授業に参加できるようにする,どんな発言も丁寧に引き受ける,あくまでテキストに沿って学ばせる,ということを実現するためには,そうすることがどうしても必要になる。授業づくりはパターン化ではなく,指導観に照らして,子どもの学ぶ様子を見て,その時に最適なことをその場その場で即興的に選択していくしかないということをつくづく思い知る授業でした。

中学2年・英語「不思議の国のアリスで考える冠詞」(川崎学びの会)

 この授業から学んだのは次のことです。

1 問題が明確であること

  英文の中の括弧に適する冠詞を入れる,という誰にでも一目瞭然の問題でした。そのために,多少英語が苦手な生徒もやる気を喪失せずに学びに入れたのではないでしょうか。実際に,ほとんどの生徒がよく考えていました。

2 問題の中につまずき(課題)が埋め込まれていること

  やるべきことはすぐわかるけれど,それぞれの括弧にどの冠詞が入るかは,簡単にはわからないように仕組まれていました。教科書では「初出は不定冠詞(a(n)),二度目はthe」のように一般化されているのですが,今回のテキストでは,eggという語が2度続けて出てくる部分があって,表面的に考えてもうまくいかないようになっています。よく読むと,それらのeggは特定のものではなく,一般的なものを指していることに気付きます。そこに気付いた女子生徒は,グループの友だちに夢中になって説明していました。こうして苦労して学んだことは,必ず自分の身になると思います。佐藤学先生の「基礎的なことほど機能的に学ぶ」という言葉を思い出しました。

3 冠詞の学習が単元計画の中で意味のあるつながりになっていること

  ここで1時間かけてじっくり探究したことで,さらっと教科書や先生から学ぶよりも生徒たちは冠詞について実感的な理解が得られたと思います。単元計画としてすばらしいと思ったのは,いずれ英語で日記を書く活動が待っているということです。生徒たちは冠詞に対してより注意深くなり,その都度「どれを選択するかな」というように,ネイティブスピーカーが無意識にしている思考過程をたどりながら英文を書けるようになることが予想されます。

4 一点突破,全面展開という学び方

  冠詞についてとことん探究していくために何度もテキストの英文を読むことになった生徒たちは,たとえ冠詞のことが十分にわからなくても,このテキストの意味はすべてわかったり,とりあえず全部読めるようになったりという副産物的な成果があったのではないかと思います。ネイティブに近い発音になるように徹底して練習させる授業では,何度も何度も繰り返し声に出して発音を練習しているうちに完全に英文を暗記してしまう,語句の読み方を調べているうちにその意味も理解してしまう,という現象が見られます。今回も,物語文をただ読むだけの授業や,冠詞の使い方を教師が全部説明してしまう授業よりも,結果的に生徒たちの英文への理解は深まったと思いました。

5 ここまでやったら音読で終わりたかった

  冠詞の使い方がわかり,英文の意味もわかった上で音読するとさらに英語が自分の体に入ってくると思います。そのことは,小学校1年生の国語での音読と全く同じ原理ではないでしょうか。今回の英語の授業でも,最後に一人一人が音読して自分の体を通すことによって初めて,冠詞のニュアンスが実感できたのではないかと思われます。そこが少し残念でした。
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