東京大空襲の手記【最終回】
[2008年03月30日(Sun)]
前回からのつづき
全員で家の焼け跡に戻り、地下に埋めてあった物を掘り出して捨ててあったリヤカーに積んで押しながら姉の嫁ぎ先である浅草橋の近くまでたどり着きました。
姉の家は義兄が出征中で四歳の娘と姑と三人暮らしでした。二、三日そこで世話になりましたが、この頃から毎夜のごとく空襲警報に悩まされるようになり、姉達三人は長野県の知り合いの家に疎開して行きました。
ある日、勤め先の役所に行ってみると、私の写真が飾ってあり、じゃが芋が供えてありました。皆はビックリしたり、喜んでくれたり、大変でした。そして友人の紹介で井の頭公園の裏辺りに家を借りることが出来ました。
引越しとなると大きな荷物は無くても電車では出来ないので、大八車を借りて来て家財道具を積み込み、父が引き、私が押して御徒町−神田−東京駅−四谷−新宿−荻窪−西荻−吉祥寺と歩きました。出発したのが朝の7時半で到着したのが夜の七時半ですから十二時間掛かったことになります。途中で警報がなれば車の下にもぐり込み、また、ひたすら車を押し続けました。道も正常ではなく、上り坂では大変な思いをしました。
その後、姉の家は五月二十五日に丸焼けになりました。
井の頭に引っ越してからは国分寺まで近くなったので通勤は楽になりました。あの時、役所の上空を艦載機が飛んできて狙い撃ちをしてきました。落下傘で降りてくるアメリカ兵も見ました。
そして、八月六日広島に、八月九日長崎に原爆を落とされ、遂に八月十五日に終戦となりました。軍隊は解散になり、三千円ずつお金を貰って家に帰りました。国破れて山河あり、戦い済んで日が暮れて、そんな感じでした。
−完−
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手記にもありますが母は東京大空襲では凄い風が吹いていたと話しています。とにかく風上に向かって逃げたと。広範囲の大規模火災では強い上昇気流が発生し、そのため地上では風が吹き荒れるとされています。風下に避難した人はほとんど亡くなったと。道端に無残にも横たわった焼死体を避けながら歩いたこと、焼けた都電に手がへばりついて離れなく助けを求めている人、まだ生きていて呻き声をあげていても助けられないジレンマなど、本手記にはない悲惨な話も多く聞くことができました。
家族には常に笑顔を絶やさない優しい母ですが、筆舌にし難い悲惨な過去を全く見せない強さに改めて尊敬の念を感じ、そして、繰り返してはならない歴史は風化することなく語り継ぐことの大切さと強く感じています。