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雨ニモマケズ 風ニモマケズ

- 災害系ボランティア情報 ブログ-

日本は台風・火山・地震と世界でもっとも自然災害の多い国です。

阪神・淡路大震災以降、大規模災害でのボランティアによる救援活動は、いまや被災地の復興には欠かせぬものとなり、その活動は被災者へのエールにもなっています。
雨にも負けず、風にも負けず、汗を流す災害ボランティアに対する各方面からの応援をよろしくお願い申し上げます。         


朝日山復興隊【9】 [2006年05月31日(Wed)]
前回のブログで紹介した泥と瓦礫にまみれた浦柄ですが、その泥と闘った勇者たちです。

浦柄で活動するあの「04救援隊」の貴重な写真です。

家に流れ込んだ汚泥をポンプで汲み出すSHINCHAN(福島)

高速のSAで拾われた旅人のMASARU(福岡)

使える材を運びだす名城大ボランティア

朝日山復興隊【8】 [2006年05月31日(Wed)]
朝日山復興春の陣で住民とボランティアが共に汗しながら整備する朝日山は小千谷市浦柄地区にあります。
この浦柄地区は集落を流れる朝日川が地震でせきとめられ、また養鯉池の決壊で鉄砲水が集落を襲い、二重三重の被害を受けました。その状況下、住民・自衛隊・ボランティアが一丸となって大量の泥や瓦礫に立ち向かいました。その意味からも多くのボランティアにとっても思いでに残る地です。
この朝日山復興春の陣を機に、浦柄とボランティアとの新たな絆が生まれることと確信しています。

あの日の浦柄をもう一度心に刻み朝日山に臨みたいと思います。
写真は浦柄のHP《ようこそ浦柄へ》から






◇浦柄復興委員会ブログ《うらがらの笑顔》もどうぞ!
  https://blog.canpan.info/uragara/

朝日山復興隊【7】 [2006年05月29日(Mon)]
東軍「朝日山復興隊」の布陣が決まりました。

◇参謀本部(朝日山山頂)
◇前線詰所(白虎隊隊士墓碑)
◇作業隊(麓隊、旧道隊、本道隊、頂上隊、看板隊、昼飯隊、山古志別動隊)
※浦柄隊、長岡連合、風人連合、総勢120名を越える予定
◇武器:唐鍬、スコップ、鎌、鉈、鋸、掛矢、玄能、のぼり、ホラガイ、刈り払い機、チェーンソー、そして朝日山

浦柄の興廃この一戦にあり。各員フンドシを締めなおし一層奮励努力せよ!(元04救援隊々長桑原誠


ジャワ島中部地震【2】 [2006年05月28日(Sun)]
インドネシアのジャワ島中部地震は、死者は約4300人となり、まだまだ行方不明者が多く、5000人を超えそうです。負傷者の数は既に1万を超えています。余震は地震発生後2時間の間に450回、最大でM5.2を記録。被災地一帯で20万人以上が被災とのこと。

また、パプアニューギニアのニューブリテン島付近で28日午後1時13分(日本時間午後0時13分)ごろ、マグニチュード6・2の強い地震が発生したとのことです。

地震は連続して起きる可能性があります。これから暫くの間、地震に備える行動を!
Posted by KURO/TNF at 19:58 | 災害情報 | この記事のURL
ジャワ島中部地震【1】 [2006年05月28日(Sun)]
インドネシア・ジャワ島中部で27日早朝5時54分に発生した強い地震(M6.3)による被害は、死者3000人超え、負傷者は1万数千人となったようです。家屋を失った人は20万人以上。震源はジョクジャカルタの南約20キロで、震源の深さは約10キロ。地震による津波は確認されていません。

被害が集中しているのは人口約50万人のジョクジャカルタのほか、震源に近いバントゥールなど。多くの住民がレンガ造りの簡易な建物に居住しており、倒壊した建物の下敷きになりました。ライフラインは停止。ジョクジャカルタ空港も滑走路や建物が損傷して閉鎖され、主要道路もひび割れで段差が生じるなど、物資輸送に影響が出ています。

また、ジョクジャカルタはジャワの古都として知られ、近くには世界遺産の仏教遺跡ボロブドゥールやヒンズー教寺院群プランバナンなどがあります。なにか情報があったらお寄せください。

参考:ジャワ島中部地域マガジン
Posted by KURO/TNF at 08:36 | 災害情報 | この記事のURL
朝日山復興隊【6】 [2006年05月28日(Sun)]
朝日山復興春の陣の記念Tシャツのデザインがほぼ固まりました。「復興意味する日の出朝日」と「災害に負けない不屈の精神を表す力こぶ力こぶ」をイメージし、かつ、ほのぼのひまわりとした雰囲気を見事に調和させたデザインに仕上げてくれました拍手
イラストは中越復興市民会議の事業イメージを描きあげたイラストレーターのhikaruちゃん女の子です。忙しい中汗をこの朝日山復興のために力を貸していただきましたすいません。製作は絆Tシャツ同様、浦柄の星、kuwaさんにまた一肌脱いでいただきましたすいません
1着2000円、ML合わせて200着の限定販売。早い者勝ちです。500円/着は朝日山保全のために浦柄に寄付されます。ご予約は本ブログにコメントにて受付中!残りは当日販売予定。売れ切れの場合はすいません
すでに予約黒電話が殺到していますのでお早めに。
朝日山復興隊【5】 [2006年05月27日(Sat)]
中越地震で朝日山の斜面が崩落し、現在は頂上への道が途絶えています。朝日山復興春の陣ではかつての旧道を整備し、震災前と同様、地域に愛されるのどかな朝日山の再生へ、浦柄の皆さんとあの日あの時浦柄の泥と格闘したボランティアが力を合わせ、正に「復興への道」づくりの始まりです。
    
    「大地鳴き 崩れ落ちたる 山肌に
            復興の道を いざ創らん」 
                       
                 列藩同盟仙台藩士
                  
朝日山復興春の陣(概要)

朝日山復興春の陣(参画・参集団体)

【古戦場朝日山】  ※赤線が今回整備される予定の道です。
救援資機材【6】 [2006年05月27日(Sat)]
私は名前は土嚢袋。名前の通り土嚢を作る袋です。砂を詰められ土嚢になった私は災害では様々な使われ方をします。下のサイトがチョー詳しく私を説明してくれています。
http://blogs.yahoo.co.jp/kateinobousai/folder/542677.html
最近は水害が多く流れ込んできた泥入れ袋として使ってもらってます。が、そりゃーもう泥だらけの惨めなものです。投げられ、潰され、臭くされ、ほったらかし悲しい。でも水分が多く含んでいる泥でもすーっと水分が抜けるのも私の特徴です。

私の親方にトン袋とかトンパックと呼ばれている1立米の袋がいます。川の決壊から土砂崩れ現場まで、常に災害現場の最前線で踏ん張っています。もし彼に会うことがあったら声をかけてあげてください。ちなみに私のオハコは音符おふくろさんです。

7.13新潟水害ではもう惨めなものでしたが、街がきれいになれば本望です。(旧中之島町にて)

土手の決壊にはもう親方しか活躍できる奴は居ません!(兵庫県出石川にて)

土木工事とか災害の時にしかお呼びの掛からない、とても男クサ〜イ私ですが、これからも宜しくお願いします。ボランティアさんのために、五洋さん、鹿島さんから里子に出された仲間たち。私たちの活躍の場がないことがなによりです。

救援資機材【5】 [2006年05月26日(Fri)]
私の名前はブルーシート。緑色でもブルーシートと呼ばれることも。青のワイシャツと同じ活用か。災害時のボランティアセンターは効率的な動きを考え土足が望ましいのですが、建物によってはそれが叶わない場合、そうです私の出番です。

地震による雨漏り、壁の破損、とにかくあれば何かに役に立つのが私です。しかしキャンプでタープがわりに私を使っていただくのはありがたいのですが、私を使うなぜか貧乏くさいキャンプになってしまうんです。捜索現場や工事現場ではないとか、風が吹くとうるさいとか、サイトのご近所からクレームが。それでも最近は花見にも呼んでいただくこともあります。

ブルーシート=土方&工事現場。それでいいんです。ちなみにホームレスさんも大事なお得意さんです。常に微妙な立場に置かれる私はこのところブルーな日々を送っています。


災害現場用で使ってくださいと三菱化学さんが私を某財団へ
待機中の私です。
朝日山復興隊【4】 [2006年05月25日(Thu)]
朝日山が戦場となった北越戦争について学びましょう!

《北越戦争》

慶応四年(1868年)、西軍は越後における旧幕府派の平定と会津藩征討のため北陸地方を北上、長岡にほど近い小千谷を占領した。この西軍に対し、5月2日、長岡藩家老河井継之助は西軍の岩村精一郎軍監に小千谷慈眼寺で会見。侵攻の中止と会津藩の赦免を願い出るが岩村はこれを拒否。このことをうけ長岡藩は奥羽越列藩同盟に加盟、越後西部諸藩(北越諸藩)もこれに続いて同盟に加わった。

会談の決裂後、西軍は信濃川を渡り、榎峠(長岡市〜小千谷市)を占領する。河井は摂田屋に本陣を置き善戦、朝日山に陣を構える東軍に対し、西軍は再三にわたって朝日山の攻略を目指すが、参謀山県有朋(後の総理大臣)が前線を離れた留守に、時山直八が攻撃を開始し、桑名藩の立見鑑三郎(後の陸軍大将)と戦うが時山は戦死し、西軍は敗走する。

長岡藩は河井継之助の指揮のもとガトリング銃などを使い善戦するが、多勢でしかも近代兵法に長けた西軍には勝てず5月19日、長岡城は占領される。のち長岡藩は会津藩らの援兵を受け、攻防の末に7月24日、長岡城を奪還するが、この戦いで河井は重傷を負う。
5日後の7月29日、西軍は再攻勢をかけて長岡城を再占領し、同日、米沢藩兵の守る新潟が陥落、越後の全域は新政府軍の支配下に入った。これ以降、同盟軍と新政府軍の戦いは東北地方に中心を移してゆく。河井は会津に逃れる途中、会津国境の八十里峠越えにて傷が悪化し死亡する。

八十里峠越えにて継之助は自嘲し次の句を残している。
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
越から敗走する自分を「越抜け」にかけたといわれる。
北越戦争では戦死者数は両軍合わせて2200人を超えたといわれています(合掌)

会見が行われた小千谷慈眼寺の立派な山門
※慈眼寺は地震の影響をうけ、早急な修繕が必要とされています


小千谷朝日山にある東軍兵士の墓
上の写真は福島県只見にある継之助終焉の地に建つ石碑
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