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雨ニモマケズ 風ニモマケズ

- 災害系ボランティア情報 ブログ-

日本は台風・火山・地震と世界でもっとも自然災害の多い国です。

阪神・淡路大震災以降、大規模災害でのボランティアによる救援活動は、いまや被災地の復興には欠かせぬものとなり、その活動は被災者へのエールにもなっています。
雨にも負けず、風にも負けず、汗を流す災害ボランティアに対する各方面からの応援をよろしくお願い申し上げます。         


東京大空襲の手記【2】 [2008年03月29日(Sat)]

前回からのつづきです

大学生も繰り上げ卒業で十二月に卒業証書が授与され、学生服のまま銃を担いで入隊して行きました。
戦時中は女子といえども遊んではいられません。女学校の生徒でも学校へ着くなり、作業服に着替えて工場へ働きに行きました。
私は丁度知り合いの人の紹介で国分寺にある第五陸軍技術研究所という兵隊さんばかりが働いている役所へ入ることができました。そこでは毎日、字を書く仕事を与えられました。お昼には給食が出て全員が大食堂で同じ物を食べるのですが、ご飯の中に大根や人参など色々なものが入ってましたが、他には味噌汁一杯という食事でした。それでもその当時としては大変有り難いことでした。
ところで通勤は鶯谷から国分寺まで電車に乗り、さらに駅から二十分くらい歩いて八時十分までに入らなければなりませんでした。ですから家を出るのは六時でした。途中、空襲でもあれば、電車から降りて避難するので大変です。真冬の朝は真っ暗で手足は冷えて歯の根が合わず、口も利けませんでした。
そうするうちに三月九日を迎えました。その夜、B29の編隊が東京の下町を襲ったのです。私たち家族は十時に床に入ったのですが、すくに空襲警報のサイレンを耳にしました。その頃は飛び起きてすぐ逃げられるようにモンペをはいて寝ていました。

つづく

《画像は日本全土を焼野原にした米軍の主力爆撃機B−29》 
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